館山城下町

館山城を居城とした里見氏は、館山の町の基礎を築きました。
今回は、里見氏がつくった城下町、楠見、上町、仲町、新井、上真倉を中心に巡ってみましょう。

(1)枡形

「ますがた」と呼ばれる場所で、城郭の入り口にあたり、出陣の際、兵の集まる所でもあった。

(2)上仲公園

仲町上町の諏訪神社があった場所。大正12年(1923)の関東大震災後に館山神社になったため、現在は公園になっている。

(3)仙台藩役所跡

仙台藩の廻船役所があったところ
藩の年貢米などを輸送する船や改めや、船が難破した際の世話をするところで、藩士2人が詰めていた。

(4)食い違い道

道路を直交させないでわざとずらして交差させた道を「食い違い」という。
碁盤の目をような道路が便利だが、あえて食い違いにすることで、敵の侵攻を妨害する効果がある。

(5)源福院跡

明治21年(1888)の館山の大火で焼失した小谷山源福院の跡地。三福寺の隠居寺だった。浄土宗。
明治11年(1878)に71歳で亡くなった中興開山の信蓮社順誉上人(鳥取出身)の墓がある。前面左側には「ちる蓮で すくひためへや 南無佛」という辞世の句がある。

(6)長福寺

普門山長福寺。真言宗の寺院。寛政元年(1460)創建。新井浦の名主だった嶋田三郎兵衛家が大檀那だった。
中世の石造六地蔵尊が祀られている。千葉家、高梨家などの館山藩士や館山藩医宮川元斎の墓があるほか、戊辰戦争の際箱根に出陣した館山藩関係者の供養塔「寄子万霊塔」、遭難した仙台藩士の墓などがある。

(7)三福寺

観立山三福寺。浄土宗の寺院。文明3年(1471)創建。
里見氏の時代に城下町の商人頭だった岩崎与次右衛門家(のちの館山仲町名主)が大檀那だった。
館山藩儒者で郡奉行の新井文山の墓と記念碑がある。
里見義康が三福寺住職の望みを聞いたところ「河流を寺領として貰いたい」と言ったとされる。河流を寺領にするということは、汐入川河口を利用する権利を指すものと思われる。三福寺が流通に関わりをもち、土地の代わりに汐入川の利用権をもっていたのではないだろうか。

(8)諏訪神社

新井と下町の諏訪神社があった場所。館山神社に合祀されたため、現在は新井集会所と下町コミュニティホールがある。
「新井のお船歌」は平成20年(2008)に市の無形民俗文化財に指定されている。

(9)菱沼跡

長須賀の小字で「菱沼」という人工的な台形をした土地。
江戸時代中期の元禄までは汐入川の遊水地として菱沼があったのだろう。
里見氏の時代に船溜として使われていたと思われる。

(10)本蓮寺

光海山本蓮寺。日蓮宗の寺院。開山は日泰という。天正2年(1574)創立。
館山下町の商人中山六右衛門家(里見氏の時代の連雀司(れんじゃくのつかさ)=商人頭だった中山彦五郎の縁者か)が開基檀那。下総中山(市川市)から来たという伝承がある。

(11)妙台寺

長樹山妙台寺。日蓮宗。文亀元年(1501)、日台が創立したという。館山藩士などの墓がある。
明治13年(1880)の題目塔、明治28年(1895)の手水鉢がある。

(12)鹿島掘

里見義康の時代に関ヶ原の戦いの功労で鹿島(茨城県)三万石を加増されたあと、鹿島領民が構築したものと伝えられている。
天王山の下は近年まで水田があった場所で、井戸を掘ったところ、その底には地固め用の割栗石が敷き詰められていたという。
城山駐車場でも水堀跡が発掘されており、慈恩院(19)の前の泉慶院の池も鹿島掘と伝えられている。

(13)御霊山

館山城の東方500mにある山。中段の周囲に鹿島掘がある。
現在では消滅しているが、昭和50年(1975)頃には、堀跡が麓から大膳山に向かって延びているのが、航空写真でもはっきり確認できる。

(14)宇和宿

「うわじゅく」と読み、「上宿」のこと。
北西にある刑場跡付近を「下宿(しもじゅく)」と呼んでいた。里見氏以前からの市場機能を持つ中世の宿が置かれていたとされる。かつて下宿から汐入川を渡って青柳と往来できた。

(15)神明神社

建長元年(1249)に安西八郎が伊勢大神宮より勧請したという。真倉村の鎮守。
境内には上真倉の集会所がある。

(16)真楽院

小河山真楽院。曹洞宗の寺院。由緒書には里見義頼の娘が正木家に嫁いで初産の時、東条家の家臣だった戸倉玄安が調薬を任され、母子とみに安泰であったと伝え、玄安が安産守護の三神を祀った寺。

(17)泉慶院墓地

曹洞宗の寺院で、元亀2年(1571)に里見義弘によって創建された泉慶院があった。開基は義弘室の智光院殿(青岳尼)。
本堂はなくなったが、墓地には開山塔と開基塔がある。

(18)妙音院

光照山医王寺妙音院。古義真言宗の寺院。
天正7年(1579)に里見義頼の命により、高野山妙音院の快算法印が開基になった。安房高野山と称される。

(19)慈恩院

藤谷山慈恩院。曹洞宗。里見義康の弟である玉峯和尚が天正9年(1581)に創建したと伝えられる。
もとは城山の頂上にあった義康の持仏堂で、館山城築城の際に現在の場所に移したとされる。
里見義康の菩提寺で墓所がある。門前には鹿島掘の由来碑がある。

(20)大膳屋敷跡

館山城域内にはかつて大膳山があり、そのふもとに里見家一門衆の頭、正木大膳の屋敷があったと伝えられる。

(21)采女の井戸

江戸時代に、稲葉氏の館山藩の陣屋があった場所を「御屋敷」とよぶが、里見氏の時代には重臣屋敷があったと伝えられる。
里見忠義の重臣印東采女の屋敷の井戸を、今も「采女(うねめ)の井戸」という。

(22)館山城切岸

切岸(きりぎし)とは、山の斜面を垂直に削って人工的に作った城壁のころ。城山の周囲をぐるりと巡っている。


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