文化財ガイド 鶴谷八幡宮
安房国の総社で、もと三芳村府中にあったものが、鎌倉時代に現在地に移転したといいます。康応2年(1390)には安西八幡宮の名で資料に現れています。現在も9月のお祭りでは府中でお水取りを行います。その祭礼を「八幡のまち」といって郡内最大のお祭りで10社の神輿が集まります。
江戸時代から市がたち、今も農具市として続いています。
二の鳥居エリア
(1)小野鵞堂記念碑
小野鵞堂(がどう)は文久2年(1862)静岡県藤枝に生まれ、7歳から12歳までを安房で過ごした。独自の書風「鵞堂流」を完成させた。書道研究会「斯華(このはな)会」を組織し、門人の育成と通信教育により書の普及に努めた。
明治・大正時代を代表する書家である。
(2)征清記念之碑
明治27年(1894)、日清戦争に安房郡から千人あまりが出征したことが刻まれている。
(3)日露戦争記念碑
安房郡内から日露戦争に出征した兵士をたたえて建設された。
(4)忠霊塔
日清・日露・太平洋戦争における館山市民戦没者慰霊碑。戦没者は各地区合わせて2876名にのぼる。
昭和38年建立。正面の刻字は靖国神社宮司・筑波藤麿筆。
(5)神社震災復旧工事竣成記念碑
大正12年(1923)の関東大震災で安房郡は大きな被害を受けた。昭和7年9月、神社の復旧作業はようやく完成する。
(6)水田三喜男銅像
明治38年(1905)に安房郡曽呂村(現鴨川市)に生まれた。第二次大戦後、大蔵大臣として高度経済成長政策を推進した。城西大学・城西歯科大学を創設し、教育界にも大きな足跡を残した。
(7)安房先賢偉人顕彰之碑
昭和10年(1935)ごろ、安房神社の宮司を中心に安房の先人で、模範になる人物を16名選んで顕彰したもの。
その16人とは、
伴直家主、菱川師宣、石井三朶花、奥澤軒中、山口杉庵、武田石翁、新井文山、加藤霞石、堀江顕斉、恩田仰岳、野呂道庵、鳥山確斉、鱸松塘、鈴木抱山、曾根静男、畠山勇子である。
(8)灯篭
天明7年(1787)、神門(鳥居)と共に寄進された。
鳥居は建て替えられて、今はない。
地元の氏子の他、江戸に住む人々も寄進している。
社殿エリア
(9)神余備(かんなび)
昭和8年(1933)から50年余りにわたり、八幡神社社掌を勤めた酒井泰二宮司の永年の功績を称えた石碑。
太平洋戦争後の県神社界維持運営のために尽くした。
(10)鶴谷神殿重修記念歌碑
文久3年(1863)、神社拝殿の再建が行われた際、その祝いの席で八幡村名主根岸定宣が詠んだ記念の和歌を刻んだ碑。
(11)八幡神社創立一千年式年大祭記念碑
昭和51年、神社創立一千年を記念しての大祭の碑。
本殿修復後、若宮八幡社復旧の工事の記載がある。
(12)報国者碑
明治10年(1877)西南戦争での戦死者を悼む碑。
表面には総数24名の、安房郡・平(へい)郡出身の兵士の名が連ねられている。明治11年4月に有志が建設。
(13)日露戦争の碑
日露戦争での北条町の戦死者・戦病死者を悼んで建設したもの。戦死者115名、戦病死者10名の犠牲がでている。
(14)天水桶
石製の土台と鋳物の桶本体とは年代が異なり、土台は推定で明治初期、本体は昭和47年3月謹製とある。
(15)狛犬
文政3年(1820)寄進。長須賀の石工・鈴木伊三郎が製作。伊三郎の作品は、小塚大師にも残されている。
(16)手水(ちょうず)石
文化14年(1817)、安房国南条村(現館山市)に住んでいた人々により寄進される。
(17)加藤霞石(かせき)の記念碑
平群の医師で漢詩人でもあった霞石の経歴を載せている。明治3年(1870)に川田甕江(へいこう)が撰文している。
(18)安房神社遥拝殿
安房神社の神輿がここに入る。
(19)御仮屋(おかりや)
「八幡のまち」のとき、右から子安、高皇産霊(たかみむすび)、木幡、莫越山、山荻、山宮、手力雄、下立松原、洲宮の各社から神輿がここに集まる。
(20)鶴谷八幡宮社殿
拝殿の向拝(ごはい)天井にはめ込まれた彫刻を「百態の竜」と呼び、安房を代表する木彫師後藤義光の作品。
周囲にある木鼻の獅子や象もこの時の義光による作品。
この神社には、刀「銘 守家」、棟札(むなふだ)などの文化財がある。
本殿も館山市指定文化財で、江戸時代中期の建築。
(21)光明真言念誦(ねんじゅ)碑
八幡の人々が光明真言(真言密教で唱えられる呪文の一つ)を一億回唱えた記念碑。
(22)廻国塔
寛政5年(1793)に日本全国を廻国巡礼した人の記念碑。
(23)千灯院
箱崎山と号し、真言宗智山派。府中・宝珠院末。本尊は薬師如来。鶴谷八幡宮の社僧が住した寺。
(24)若宮八幡社
仁徳天皇を祀ってある神社。
作成:平成11年度実習生
/監修 館山市立博物館