慈恩院

慈恩院(じおんいん)の概要

館山市上真倉字上藤井(うわふじい)にある曹洞宗の寺院で、藤谷山と号します。里見家代々の持仏堂として館山城内に創建したのが始まりで、天正9年に里見義康の弟玉峰和尚が、城内に祀られていた千手観世音菩薩と聖観世音菩薩を本尊として現在地へ移し、慶長8年(1603)に義康が没するとその菩提寺となり、義康を開基とする慈恩院になりました。天正19年(1591)に義康から持仏堂に宛てた朱印状が今も残されています。慶長年間には里見義康・忠義から正木村と沼村で15石の寺領を与えられました。塚を背にして義康の墓が建てられています。

(1)寺号碑

 市内在住の水墨画家岩崎巴人の書。大正6年東京生まれ。川端画学校を出て小林古径に師事。禅の思想に基づくユニークな作品が多い。

(2)坪野南陽(平太郎)の墓

 東京高等商業学校(現一橋大学)学長。静養のため北条に来住し安房の青年を薫陶。東京の安房育英会や安房中・安房高女の南陽賞を創設した。大正14年(1925)没。67歳。上部の地蔵尊像は地元の彫刻家俵光石の作。左にある小滝吉五郎は南陽を敬愛した安房中教諭。

(3)川名楽山の墓

 館山藩画学教授で、藩の勘定方も勤めた。沼村(市内)の名主家に生まれ、江戸の御用絵師狩野探龍に師事して日光東照宮の修繕にあたった。のち帰郷して館山藩に仕官。明治になって安房神社禰宜・館山町戸長を務め、地域で作画活動を続けた。明治25年(1892)没。61歳。

(4)山門跡と参道のケヤキ並木

 欅並木は先代潜龍住職縁故の軍人など12名による戦前の植樹で、後年樹ごとに記念碑が建てられた。近年解体された山門は文化元年(1804)、延命寺大工伊丹喜八の建築であることが梁の墨書でわかった。

(5)上藤井(うわふじい)遺跡

 境内を含む周辺が黒曜石の矢じりや縄文土器が出土する縄文遺跡。地下にサンゴ層が広がり、良質な水が豊富に出る地域である。

(6)石徳五訓

 永平寺73世の熊沢泰禅貫首(昭和43年没、94歳)による、石から学ぶ五つの教訓を表現した石碑。

(7)里見義康の墓と句碑

 天下人の秀吉と家康の時代に館山市の基礎を築いた館山城主里見義康の墓。慶長8年(1603)11月16日没、31歳。法名は龍潜院殿傑山芳英大居士。宝篋印塔の墓の裏に建つ「当山開基」の標柱と周囲の石垣は、明治42年(1909)の里見氏墓域整備のときのもの。右側に建つ句碑には整備に関わった正木貞蔵(号月舟)の句が刻まれている。

(8)陽刻五輪塔

 法木家の墓地にある中世の石造物で、南房総板碑と呼ばれる五輪板碑。鴨川方面特有の形式で市内では数少ない。戦国時代のもの。

(9)旗本川口氏家臣棚橋茂左衛門の墓

 義康墓域前にある。江戸中期に館山地区を領した2700石の旗本川口摂津守恒寿の家臣。館山勤番中の享保19年(1734)に没した。

(10)館山藩士代田(しろた)蓊(しげる)の墓

 代田蓊孝慈(たかなり)は明治8年(1875)6月6日に没した。人物像は不明だが、天保15年(1844)に在所詰郡奉行の代田隼登(はやと)がいる。

(11)館山藩士乙幡雲郭(おっぱぱうんかく)先生の墓

 乙幡家は館山藩家老職の家柄。通称淳介といい、幕末に藩公用人として『武鑑』に名が見える。儒学者として知られ、慶応4年(1868)に隠居して手習師匠を養成のため私塾を開き、教育振興に尽した。

(12)有無両縁群霊墓

 慶応4年(1868)戊辰7月10日、当寺20世が建立。明治元年(1868)の戊辰戦争に参戦した人々の供養塔のようである。

(13)稲葉家老女岸尾(きしお)の墓

 義康の墓を背に左手奥の鈴木姓墓石の中央にある。幕末維新期に館山藩主稲葉備後守正善の奥向に仕えた女性で、武州馬込村(大田区)の波多野家出身。明治2年(1869)8月没。法名は法運院到彼明岸大姉。

(14)吉祥院森川氏先祖代々の墓ほか関連墓石

 上真倉にあった真谷山吉祥院という朱印地10石の修験。寛元元年(1243)創建。明治9年に11世祐譲が死去して廃寺になり、大正4年に5世・6世・7世・9世・10世の墓石などがここへ移された。

(15)関西商人座古屋(ざこや)の碑

 江戸中期に新井浦で、押送舟7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人座古屋清五郎家の墓地。江戸初期に摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人のひとりとされている。

(16)安房中学校初代校長狩野鷹力(たかりき)の墓

 安房中学校(現安房高校)の初代校長。在職12年。会津士族の出身で、昭和14年没。78歳。質実剛健・文武両道の校風を作った。

(17)館山藩士木下晦蔵(かいぞう)の墓

 戊辰戦争で脱藩して箱根・函館を転戦、五稜郭近くの高竜寺野戦病院の戦いで、明治2年(1869)5月11日戦死した。法号は智徳院忠厳賢斉居士。右側面に非業に死んだ夫を想う妻のぶの辞世が刻まれる。

(18)館山藩士高橋周行(ちかつら)翁の墓

 稲葉正己・正善に仕えて、勘定方・公用人・江戸留守居役などを勤め、新政府との交渉にもあたった。通称文平。明治32年没。77歳。

(19)大野太平の墓

 『房総里見氏の研究』『房総通史』などで房総の地方史研究の基礎を築いた研究者。岐阜県出身で、大正2年に館山へ移住。安房高女・安房水産学校などで教鞭をとった。昭和19年(1944)没、66歳。

(20)館山藩主奥方の墓

 明治2年(1869)12月に没した蓬仙院殿瑞雲養寿大姉は、稲葉家の奥方と伝えられ、丸に本文字の本多家家紋と折敷に三文字紋の稲葉家家紋が刻まれている。磐城泉藩(いわき市)本多家から来た三代稲葉正盛の妻だという。花立と線香立には館山藩士の名が並んでいる。

(21)鹿島堀跡と由来碑

 鹿島堀は館山城の外堀で、義康の時代に関が原の戦いの功労で鹿島(茨城県)三万石を加増され、鹿島領民が構築したものと伝えられている。幕府による館山城の破却で堀は埋められ一部が残るのみであったことから、後世に伝えるため昭和19年に、鹿島郡出身の東京高等商業学校教授峯間信吉撰文による鹿島堀由来碑が建てられた。

(22)泉慶院跡

 曹洞宗の寺院で、元亀2年(1571)に里見義弘による創建とされる。開基は義弘室の智光院殿(青岳尼)。元和8年(1622)に心巌淳泰和尚(義弘の子息梅王丸)が開山になったという。慶長期の寺領は破格の160石、徳川家からは7石余に減額された。本堂はなくなったが、墓地には3基の開山塔と、文政2年(1819)など2基の開基塔がある。


作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・山口昌幸・和田喜三郎
監修 館山市立博物館