国司神社(こくしじんじゃ)の概要
・国司を祀る神社はとても珍しい・
館山市沼の柏崎区の氏神で、平安時代中期頃に安房国の国司(こくし)として京の都から赴任した源親元(みなもとのちかもと)をお祀りした神社。親元は嘉保3年(1096)から康和2年(1100)の4年間国司を勤め、仏教の徳をもって国を治めた。任期を終えて京の都へ帰るとき、別れを惜しむ住民が出立を阻んだので、親元はやむなく着ていた直衣(のうし)の左袖を解いて与え、柏崎から船に乗ったといわれている。永久2年(1114)に親元の死去を伝え聞いた人々は、その徳を慕って親元の居宅址に小祠を建て、遺品の片袖を祀ってこの神社が創建されたと伝えられている。
源親元
若い頃は相当に気が荒く、人とのいさかいが絶えなかったが、33歳で仏教に帰依した頃から別人のように優しくなった。のちに悪人の逮捕や刑罰を行う検非違使(けびいし)になると、罪人が自ら反省するのを待つため努めて罪人の刑を軽くしたという。国司として安房へ着任すると、自分の俸禄を使って堂(泉光院)を建て、仏事に励みながら善政を行い、税を軽くし、罪を緩め、民をいたわった。離任後は出家して念仏三昧の日々を送り、長治2年(1105)11月7日死去した。享年68歳。沼地区内の真言宗総持院と天満神社は源親元が創建している。
国司丸
館山地区の祭礼になると柏崎では神社から国司丸という御船をひき出す。国司丸左舷(さげん)の艫(とも)の支柱が割り合せしてある所に、文化14年(1817)の墨書があり、文政7年(1824)には絵師・勝山調(かつさんちょう)が「引舟の図」を描いていることから、大変古い御船であることがわかる。彫刻は後藤福太郎橘義道(たちばなのよしみち)の作。
館山地区祭礼
毎年8月1日・2日、南総里見八犬伝ゆかりの城下町館山で、神輿(みこし)・山車(だし)・曳舟(ひきふね)など総勢13基により館山神社を中心に祭礼が繰り広げられる。国司丸を引き出す国司神社では、船上に太鼓・鉦(かね)・鈴が積み込まれ、篠笛のお囃子(はやし)や民謡のメロディなどを歌い合わせて賑やかに舞い踊りが行われる。江戸時代から伝承される「御船唄(おふなうた)」は御座船唄ともいわれ、拝殿や御船の上で歌われる。江戸幕府の船手頭(ふなてがしら)支配の時代に端を発するものとされ、市内の祭礼で御船を曳く地区に伝えられている。また親元は国司大明神と呼ばれ、親元がこの地を離れた1月16日が国司神社の例祭日になっている。
(1)宮下地蔵尊(地蔵信仰)
地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩で、生活に密着する子育・火防・盗難除・病気平癒など、庶民の願いをかなえる仏として祀られた。宝暦5年(1755)と文化8年(1711)の廻国(かいこく)供養塔や馬頭観音・中世の五輪塔の一部(空風輪(くうふうりん))も安置されている。
(2)石段建設寄付人記念碑
明治40年(1907)に石段を造った時の寄付人の名を記録した碑。寄付金額は15円から1円20銭まであり、合計は338円70銭。中には鰹を147本というものもある。裏面には当時の区長・氏子惣代・発起人や、遠く横浜市から5円を寄付した人の名が刻まれている。
(3)石灯籠(いしどうろう)
天保3年(1832)5月に建てられた。世話人と当時の村方三役(名主・組頭・百姓代)の名が刻まれている。
(4)鳥居
石灯籠と同じく天保3年(1832)5月に建てられたもの。柱の下部には石灯籠と同じ名前が刻まれており、村役人の名字もわかる。笠木(かさぎ)と貫(ぬき)の部分は関東大震災で折れてしまい、その後修復されたものである。
(5)大震災御下賜金(ごかしきん)記念碑
大正12年(1923)9月1日の午前11時58分に、相模湾を震源として発生した大地震による災害(関東大震災)の記憶を残すために建てた柏崎区の石碑。碑の台石に震災で壊れた鳥居の笠石を使用している。
(6)日露戦役記念碑
豊津村から日露戦争に出征した人70名の名前を刻んだ記念碑。うち8名が戦病死している。書は石井啓次郎。明治39年(1906)に豊津村恤兵会(じゅっぺいかい)が建立した。
(7)狛犬(こまいぬ)
弘化4年(1847)3月に氏子たちによって奉納されたもの。向かって左の狛犬には石工(いしく)喜兵衛の名が刻まれている。
(8)玉垣(たまがき)
大正15年(1926)6月建立。計50本の玉垣の1つ1つに議員・区長・伍長・組長はじめ氏子などの名が刻まれている。
(9)銀杏(御神木)
ご神木の銀杏(いちょう)で、樹齢350年、周囲3.03m、直径0.92m、高さ15.00m。
(10)石宮
覆い屋の中にある石宮3基は、右が沖の島と高の島、中央に鷹島(たかのしま)弁才天、左に天満宮と桜木宮の札が納めてある。海上の高の島には弁才天、沖の島には宇賀明神が祀られており、ともに源親元が最初に祀ったと伝えられている。水の神・農業神として崇められた。天満宮は親元が信仰した菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る神社で、御霊(ごりょう)信仰の代表。天災や疫病(えきびょう)の発生を「怨霊(おんりょう)」のしわざと見なしてこれを鎮め、平穏と繁栄を祈る信仰で、桜木宮とともに疱瘡除(ほうそうよ)けとして祀られる。
(11)社務所(篭り舎)
この社務所はかつて氏神のお篭りが行われた篭り舎(こもりしゃ)だった。柏崎では左袖の無い源親元を描いた掛け軸を掲げ、当番の家(宿(やど))でオビシャをした。これをウチカン(氏神)講といい、月に一度昼間にやっていた。講ではご馳走を作り、神前に供え、ともどもに飲食して祝う。年に一度、親元がこの地を離れたという1月16日の例祭日には、この篭り舎でオオオビシャが行われていた。
(12)ちょうちん掛け
昭和3年(1928)11月、昭和天皇の即位式と大嘗祭(だいじょうさい)を続けて行う御大典(ごたいてん)を記念して建てられたもの。ちょうちん掛けの足元には、拝殿修復前に使われていた火除けの”水”と書かれた鬼瓦が置かれている。
(13)拝殿(はいでん)
現在の拝殿は大正5年(1916)に建てられたもの。このとき奉納された向拝(ごはい)彫刻の龍は、裏に”後藤橘義定(たちばなのよしさだ)”と刻まれており、当時安房地方で宮彫り彫刻師として活躍していた後藤一門の後藤義定(西岬の山崎定吉)の作品である。
(14)豊津公園(磯崎公園)
明治41年(1908)8月に造られた公園。国司神社の裏山を少し登ったところにあった。現在は木が生い茂るが、公園記念碑と囲碁・将棋をするための石製の盤(明治42年製)が残っている。戦前は「観望広く、山海の気満ち、夏季来遊の良公園なり」(『安房漫遊案内』1918年)と紹介されていたが、航空隊基地を造る際に、トロッコ線路建造のため切り割の崖ができ、次第に人が近づかなくなった。
(15)泉光院(千光院)跡
関東大震災前まで神社右脇の平場に真言宗の泉光院があった。別当(べっとう)として国司神社を護り、管理をしていた。ここでその昔火災があったとき、親元が持ってきたという菅原道真公の掛け軸が境内の梅に飛び移って難を免れたという天神梅(てんじんばい)の伝説がある。
作成:平成19年度博物館実習生
監修 館山市立博物館