小塚・竜岡・犬石・中里

巴川流域には古墳時代の遺跡が一帯に広がっている。安房神社とゆかりの深い小塚大師周辺を歩いてみましょう。

小塚・竜岡エリア

(1) 小塚大師(大神宮)

 弘法大師が創建したという真言宗の寺。正式には遍智院といい、弘法大師が本尊。弘法大師ゆかりの寺院を巡る四国八十八か所の霊場を裏山に移し、明治31年(1898)に八十八個の石碑を建てた。山頂には安永4年(1775)の芭蕉の句碑がある。手水石は文政10年(1827)、長須賀の鈴木伊三郎の作。また資生堂の創始者福原有信家の墓がある。

(2) 岩屋地蔵(竜岡)

 竜岡の地蔵堂。本尊のお地蔵様はお堂の裏の崖に彫り込んである。いぼとり地蔵の信仰があるが、その昔弘法大師が自分の手の爪で彫ったものだと伝えられていて、爪彫り地蔵とも呼ばれている。明治5年(1872)につくられた安房の百八地蔵めぐりのうちの第92番になっている。堂の前に天保13年(1842)の石造地蔵尊と嘉永4年(1851)の手水石がある。堂の右手にある掘り込みは「やぐら」だろうか。五輪塔の水輪が残されている。

(3) 竜岡神社(竜岡)

 竜岡はむかし北竜と南竜に分かれていた。北竜には子野(ねの)神社があって、大国主命を祀っていた、これは家の神や田の神として信仰された大黒様のこと。大正12年(1923)の大黒天の掛け軸が残されている。南竜は熊野神社があったが、平成7年に建替えられて、子野神社と合わせて竜岡神社になった。もとの社殿は本殿が天保13年(1842)のもので、拝殿が寛政8年(1796)に建てられたものだった。文政12年(1829)の手洗石が残されている。

(4) 姥(うば)神社(犬石)

 犬石の飛び地「尾馬(おんば)」にある。「おんば」とは「御姥」で、この姥神社のことである。バア神ジイ神ともいう。そこに祀る姥神(うばがみ)の信仰は日本各地にあって、子育てをする女性(乳母=うば)に関連した伝承がある。また弘法大師の伝説に水と老女が登場するのも関連した信仰らしい。ここでは子供の疱瘡や咳をなおす神として信仰されていた。境内に文政4年(1821)の石灯籠が4基ある。また社殿のなかには、日露戦争で28回の戦闘に参加して凱旋した兵士が奉納した「姥神社」の額がある。

松岡エリア

(5) 八幡神社(竜岡)

 松岡の鎮守で、鳥居は資生堂の創始者福原有信が明治44年(1911)に奉納したもの。有信は松岡の出身で、平成7年に社殿を新築したときには資生堂が記念碑を建てている。境内には文化元年(1804)の手洗石が残され、社殿には市内では珍しい江戸時代の狂歌の額が奉納されている。隣の集会所はもと正見院という真言宗の寺だったところ。神社の裏にある鳥居はその奥の山の上にある金毘羅様のもので、文化2年(1805)に松岡と布良の人が奉納した。金毘羅様は漁民の信仰があった。

(6) 松岡観音(竜岡)

 おいと塚ともいう。砂を取ったため。今は低い場所になってしまっている。その昔、お糸という女性が病気平癒の祈願をして叶い、建てたものだと伝えられる。寛文2年(1662)に滝田や白浜などの念仏講の人々が建立した石造の観音さまが祀られている。

(7) 天田やぐら(中里)

 養護学校の裏山の裾に4つ、中世のやぐらがある。そこから大正14年(1925)に室町時代の五輪塔・宝篋印塔がたくさん出土した。この時に壺も出たと伝えられている。石塔はいまは字笠登の墓地に祀られている。

犬石・中里エリア

(8) 金蓮院(犬石)

 安房国札観音の第29番霊場。真言宗のお寺。山門を入ってすぐ、長須賀の石工鈴木伊三郎が刻んだ肉厚つの青面金剛像がある。庚申塔である。記念碑は犬石の名主島田楽山のもので、若い頃に館山藩の新井文山や江戸では旗本能勢氏について学問し、名主になってからの安政年間にアメリカの船が相浜に着船したとき、同乗の中国人を通じて会話をしたことが記されている。明治13年(1880)没。80歳。隣には明治6年におこった平砂浦の境争論で、解決に向けて努力した犬石の伊藤利右衛門の墓碑がある。
 本堂の裏には飛錫(ひしゃく)塚と呼ばれる岩山がある。むかし伊豆から来た僧が犬尾崎に着いたところ、犬に引かれてこの地へきたが犬が離れないので錫杖を振ったところ、犬が消えたという。そこに観音堂を建てたと伝えられている。塚の上には竜宮から上がったと伝えられる枕字石(ちんじいし)がある。また飛錫塚の端には、享保19年(1734)に一石に一文字づつ経文を書いて19500個の石を埋めた経塚があり、石書妙経塔が建っている。墓地には明治13年に64歳で没した桶職人の神田惣蔵の記念碑もある。多くの弟子が育っている。

(9) 犬石権現(犬石)

 犬石の青年館の場所に、二百年以上前から犬石権現が祀られていた。その昔、西岬地区の鉈切神社の洞穴からひとりの僧が犬を連れて探検に入ったが、僧は出てくることができず、犬は赤肌になって白浜の滝口から出てきたという。それは犬石のことだともいい、犬石権現の場所に出て犬が石になってしまったという話もある。塚のうしろにむかし洞窟があったそうだ。犬石の地名からか、この周辺には犬や石にまつわる伝説が多くある。

(10) 八坂神社(中里)

 むかしは牛頭(ごず)天王とよばれた。石棒や元文元年(1736)の棟札が残されている。境内には安永2年(1773)の手水石や力石3個などがある。社殿の裏には青面金剛像を刻んだ庚申塔や牛頭天王の石宮、右には浅間様の小さな祠がある。

(11) 笠登(かさと)墓地(中里)

 墓地の正面中央に、天田やぐらから出た数多くの室町時代の五輪塔や宝篋印塔が祀ってある。これは大正14年に地区の人が夢に従って掘り出したものだという。そのとき記念の供養塔が建てられた。また墓地の一画には、昭和18年に15名が犠牲になった、神余上空での海軍機衝突事故で死亡した海軍飛行兵曹吉田満の墓がある。享年20歳。

(12) 中里村先祖の霊(中里)

 中里の旧家のうち11軒で先祖の墓地があると言い伝えられてきた所で、平成6年に遺骨が出たことから供養の五輪塔が建てられた。

(13) 大塚貝塚(大神宮)

 大塚山とよばれる山の北側の巴川との間には、縄文時代から弥生時代の貝塚があり、土器や貝輪・石器などが出土している。山の南側にはやぐらもある。また、ここから長塚や小塚にかけては、古墳時代の土器のかけらがよく出てくる。


監修 館山市立博物館