山荻・作名

汐入川本流の谷奥に並ぶ集落。丘陵部に古代遺跡が広がり、観音巡礼の道が通り抜けていく。八幡の祭礼に神輿を出す古社山荻神社を中心に、豊かな文化を伝える人々の暮らしぶりを歩きながら探訪してみよう。

山荻(やもうぎ)エリア

(1) 福楽寺

 真言宗のお寺で、多聞山福楽寺という。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。江戸時代まで歳宮(としのみや)明神の社僧を勤めていた。境内にそびえる宝塔は享和3年(1803)に建立されたもので、住職を中心に村人たちが光明真言を六億遍唱えたことを記念した供養塔である。武田石翁(せきおう)の名で知られた安房を代表する石彫家の作品。若き日の作で「石工本名邑(いしくもとなむら)周治」(鋸南町元名)と刻まれている。また山頂の共同墓地の住職墓域には、大型五輪塔の水輪ほか宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎や五輪塔の火輪など中世の石塔がみえる。

(2) 山荻神社

 かつては歳宮(としのみや)明神と呼ばれた神社で、八幡の祭礼に神輿(みこし)を出している古社。毎年の稔りを守護することから大年宮(おおとしのみや)と称していたと社記にある。階段の途中にある鳥居と石灯篭はともに文政5年(1822)の建立で、氏子達の寄進によるもの。灯篭の台座には発起人として鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)家武内伊勢の名がみえる。狛犬(こまいぬ)も万延元年(1860)に氏子が奉納したもので、川下村(白浜町滝口)の石工山口金蔵重信の作。階段上にある灯篭は天明7年(1787)の奉納、手水石は安政3年(1856)の奉納で見事なものである。その水盤は地元の和助の作だが、これを支える四匹の邪鬼(じゃき)は狛犬と同じ川下村の山口金蔵の作品であり、南条村の清左衛門の作もある。また富士講の一派である地元の山三講中によって明治11年(1878)に建てられた浅間宮も祀られている。毎年2月26日には五穀の吉凶を占う筒粥(つつがゆ)神事が行われ、市の無形民俗文化財に指定されている。明治時代までは邪気をはらう大烽焚(おおびた)き神事が9月に行われ、終戦直後までは祖神に感謝する御狩(みかり)神事が11月におこなわれていた。

(3) 宮原(みやばら)遺跡

 神社から裏側にかけての丘陵端一帯は縄文土器片が出土するところで、宮原遺跡と呼ばれている。西側のがけ下を岸の谷(や)といい、山荻神社の神が舟で着いた場所という伝承がある。

(4) 馬頭観音

 千倉へ抜ける旧道沿いに地蔵尊を中心に馬頭観音が並んでいる。丸彫の馬頭観音像は、山荻村の名主佐野八郎右衛門が施主となって享和2年(1802)に建立したもの。石工は「本名村周治」とあり、福楽寺の宝塔と同じ元名村の武田石翁(せきおう)である。宝塔と同じ時期に製作された。

(5) 岸の谷(きしのや)地蔵

 享保19年(1734)に村の若者衆が建立した地蔵尊を中心に、六地蔵や観音像が並ぶ。地蔵尊の右隣の聖観音像は延宝8年(1680)の建立。右端の如意輪観音は宝暦4年(1754)の十九夜念仏塔で、女性が集まって念仏を唱える十九夜講による建立である。

(10) 宝幢院(ほうどういん)

 真言宗のお寺で、麻尼山(まにさん)宝幢院という。本尊は不動明王。入口の六地蔵は宝永5年(1708)のもの。左に並んでいる青面金剛(しょうめんこんごう)像は天保4年(1821)に建てられた庚申塔(こうしんとう)である。手水石は天保11年(1840)のもの。墓地の中には出羽三山碑もある。堂内の天井や欄間に描かれている龍や飛天などの多くの絵は、明治24年(1891)に館山の狩野派絵師川名楽山と弟子木村雲山が描いた作品である。

(11) 行塚(ぎょうづか)の出羽三山碑

 享保18年(1733)・寛延元年(1748)・寛政8年(1796)・文化4年(1807)ほか全6基の出羽三山碑がある。そのほか日本廻国供養塔が2基あり、文政2年(1819)の塔は阿波国那賀郡大京原村(徳島県阿南市)の林十郎が大願成就して建立したもので、天保9年(1838)の塔は山荻村の孫兵衛が廻国したときの記念塔である。

作名(さくな)エリア

(6) 豊前寺(ぶぜんじ)

 真言宗のお寺で、独尊山豊前寺といい、本尊は不動明王。境内には弘法大師の姿を描いた碑があり、住職宥隆の墓碑になっている。作名村に生まれ、宝珠院35世宥興の孫弟子として修行し住職となったが、明治5年(1872)に28歳で没したとある。裏山の住職墓地には中世の石塔がみられ、五輪塔の空風輪が8つ、水輪が2つ、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠石が1つ確認できる。その奥には古墳時代の横穴墓が4基ある。

(7)  諏訪神社

 豊前寺が別当(べっとう)を務めていた。そのむかしは作名・大戸を含む南条郷の鎮守であったと伝えられている。参道の石灯篭は左側が慶応2年(1866)に村の増田七左衛門・喜兵衛・前田善左衛門が願主となって奉納したもので、右側は明治43年(1910)に山田彦太郎の妻一キが奉納した。社前の灯篭は左が安永2年(1773)、右が安永5年(1776)のもので、ともに増田七左衛門と川名五郎左衛門の奉納。手水石は階段下が明和5年(1768)に奉納されたもので、階段上には天保13年(1842)に奉納されたものがある。石段は明治19年(1886)に再建されたものだが、文政5年(1822)に石段が作られたときの親柱も残されている。社前左手の記念碑は北条に住んでいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房がモッコクを植樹したときの御手植碑で豊房村長鈴木周太郎が書いた文字。参道の社号碑は通房の書である。ともに明治44年(1911)の建立。

(8) 観音巡礼道道標

 地蔵尊像と安政4年(1857)の馬頭観音像のあいだに、安永4年(1775)に武蔵国葛飾郡浪寄村の泰往という人が建立した日本廻国供養塔がある。右側面には「これより すきもとみち」とあって、西長田村の杉本山観音院へ行く道を案内している。大貫の小松寺(南房総市千倉町)から山荻の永代(えいだい)集落を通り西長田の観音院へ向う、観音巡礼道の道標になっている。ここから山を越えると長田へ出ることができた。

(9) 共同墓地

 作名の共同墓地で、入口に馬頭観音が並び、天保11年(1840)の像がみられる。墓地の中には中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠や五輪塔の空風輪が2つ見られる。最上段には宝暦8年(1758)と明和4年(1767)の2基の大日如来像がある。また個人墓地に享保7年(1722)に村内の真言講で建てた宝篋印陀羅尼(だらに)塔があり、安永9年(1780)に村内の安全を祈願するために村中で再建したことが記されている。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子