豊房地区出野尾・岡田

祭祀遺跡や洞穴遺跡などの古代の信仰の場や、鎌倉文化と強く結びついた中世の密教道場小網寺、そして近代の不動尊信仰の行場など、長く人々の信仰の場となってきた村の歴史を歩いてみよう。

出野尾(いでのお)エリア

(1) 出野尾貝塚(洞穴遺跡)

 標高約25mにある海食洞穴で、縄文時代の貝塚と古墳時代の人骨・土器片が確認されている。入り口幅約4m、奥行き約7m。昭和29年に発掘調査が行われ、上層から古墳時代の須恵器・土師器、下層から貝塚と縄文土器が出ている。市内の他の洞穴遺跡とほぼ同じ高さにある。

(2) 下の堂

 石造の地蔵尊を祀る地蔵堂になっている。裏山は中世の経塚だったところで、青銅製の経筒が出土したことがある。階段下左側に安置される弘法大師像は、文政7年(1824)に西国坂東秩父の百観音と四国八十八か所の巡礼を記念して建てられたもの。やや左には文政3年(1820)の出羽三山碑と、天保7年(1836)に長門国萩(山口県萩市)出身の廻国巡礼の行者が同行4人と建てた日本廻国供養塔がある。

(3) 弘法谷(こうぼうやつ)やぐら

 墓地を抜けて坂を下りていくと、南北朝時代の2基のやぐらが並んでいる。一方には2基の五輪塔が浮き彫りにされ、一方には2基の五輪塔が据え置かれている。右のやぐらには、文政11年(1828)に出野尾・岡田の人々が奉納した弘法大師像が祀られている。弘法谷は弘法大師が修行をしたとの伝説がある場所で、法華谷(ほっけやつ)ともいわれている。

(4) 小網寺

 真言宗のお寺で、金剛山小網寺という。安房国札観音の三十二番札所で聖観音菩薩が観音堂に祀られている。観音像は平安時代の作で、市の指定文化財。観音堂前にある銅造の地蔵菩薩像は安永2年(1773)の作。本尊は不動明王で、かつては真言密教の道場だった。鐘楼にかかる梵鐘は鎌倉時代の弘安9年(1286)の作で、国の重要文化財。製作者の物部国光は当時一流の鋳物師で、彼の作品はすべて重文か国宝になっている。鎌倉時代の密教法具21点も伝わり、県の指定文化財になっている。法具は金沢称名寺を建てた審海上人の持ち物で、小網寺が鎌倉時代に真言律宗系寺院として重要な役割をもっていたことを考えさせる。本堂向拝周辺の彫刻は明治25年(1892)後藤義光の作。参道には宝暦3年(1753)の念仏講男女衆中奉納の地蔵尊がある。裏山の奥は小網坂遺跡と呼ばれ、古墳時代の祭祀土器などが出土している。

(5) 十二社神社

 かつては十二社権現と呼ばれた熊野系の神社。鳥居と石段は大正6年(1917)、手洗石は明治5年(1872)の奉納。境内には青面金剛像を刻んだ庚申塔がある。念仏修行仲間15人によって延享4年(1747)に建てられたもの。また一山講中によって明治時代に建てられた石宮もある。

(6) 十三騎塚

 里見氏の館山落城にまつわる伝説が残る場所。慶長19年(1614)9月9日に里見氏が徳川幕府によって館山を追われると、その4日後の9月13日、家臣13人が近くの三ツ山で無念の自害をし、館山城が見えるこの場所に葬られたと伝えられている。小さな塚が山の上にいくつかあったが今は藪となって行くことができないため、少し下がった入り口に供養の場所がつくられている。

(7) お大日

 文化9年(1812)と天保5年(1834)の出羽三山碑2基と地蔵尊2体、11基もの馬頭観音がならんでいる。馬頭観音はゴミ処理場がある山にあったが、開発によってここに移動してきた。両手を結んだ大日如来の石像があることから、地元ではここをお大日と呼んできた。大日如来は出羽三山を象徴する仏で、後列右端の6文字の梵字が刻まれた延享4年(1747)の塔も大日如来を表したものである。

岡田(おかだ)エリア

(8) 前不動

 石造の不動尊像と文化3年(1806)の馬頭観音像、文化5年の地蔵尊像が祀られている。地蔵尊には往来安全を願う文字があり、万人講中によって建てられている。ここにはかつて館山と神余・白浜や、館山と神戸地区の佐野・安房神社方面とを結ぶ街道があった。安房神社の神輿が八幡の祭りにかよった道でもあり、安房神社往還とも呼ばれた。前不動とはその街道から風早不動尊への入り口に安置された不動のことで、もとは少し北側に残る旧道から不動へ下りる分かれ道にあったが、道の付け替えによって現在地に移動した。

(9) 風早(かざはや)不動尊

 江戸時代から近隣の信仰を集めていた不動様で、小さな滝が行場であった。大正頃には二階建ての行屋があった。滝の近くに、宝剣にクリカラ竜が巻きついた形の倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)の石塔がある。不動明王を現したものである。狭い境内には数多くの奉納物があり信仰の強さを物語っている。紫桂楼(ともしび)と書かれた石灯篭は文政7年(1824)に竹原村の医師篠塚周伯が奉納したもので、石鳥居は明治23年(1890)、手水石は嘉永7年(1854)、不動尊の石額は文政4年(1821)の奉納物。本堂向拝の龍彫刻は千倉の後藤義光の作で、明治25年(1892)のもの。堂内には祈願の絵馬がたくさん奉納されている。倶利伽羅竜王の隣には弘化4年(1847)の出羽三山碑がある。

(10) 八幡神社

 元和4年(1618)9月15日の創立と伝えられる。手水石は嘉永4年(1851)の奉納。階段下に大正の震災記念碑と道路記念碑がある。岡田の谷奥から大戸へ出る道路は、明治36年(1903)に白土業者の負担でつくられた。明治から昭和初期は岡田の谷奥でも白土が盛んに掘り出されており、房州砂と呼ばれて館山の特産物であった。クレンザーなどの研磨剤、歯磨き粉や精米用に使われていた。

(11) 西光寺跡墓地

 かつて法輪山西光寺という真言宗の寺があり不動明王を本尊にしていたが、大正9年(1920)に火災で焼失し、震災後の大正13年(1924)に小網寺と合併した。墓地に、大日如来を載せた享和2年(1802)の光明真言百万遍塔、某年の廻国六十六部納経供養塔がある。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子