安布里・大網・南条

館山平野で館山湾にいちばん近い山すそに開かれた土地。鏡ケ浦を見渡す安布里・大網・南条に刻まれた歴史を歩いてみよう。

安布里(あぶり)エリア

(1) 刀匠の碑

 刀匠石井昭房の記念碑。自宅前に平成5年1月建立された。昭房は日本刀鍛錬技術保持者として、昭和37年(1962)に千葉県の無形文化財に指定され、昭和初期に日本刀鍛錬の伝統技術保存のために開設された「日本刀鍛錬伝習所」を、昭和42年に引き継いで安布里に開設した。相伝備前(そうでんびぜん)の鍛法(たんほう)を研究し、各種展覧会で文部大臣賞や総理大臣賞など数々の褒章に輝いている。平成5年(1993)10月没、84歳。碑文には「人は刀を鍛え、刀は人の心を磨く」とあり、日本刀に対する真摯な気持ちを表現している。

(2) 天神山

 安布里の下台(しもだい)で祀る天神様がある岩山を天神山といい、道に面して地蔵尊や青面金剛(しょうめんこんごう)の庚申塔が祀られている。山に接してかつての自警団の小屋があり、青年団が使用した48貫目の力石が埋めてある。山の上には自警団が使った半鐘がある。これは大網大巌院の常念仏堂にあった鐘で、元禄13年(1700)のもの。昭和17年(1942)の戦時中に金属供出からまぬがれるため、安布里の自警団が使用していた半鐘を供出し、代わりにこの鐘を自警団で使用することになって残された。

(3) 蓮幸寺

 日蓮宗のお寺で、興光山蓮幸寺という。墓地の入口に中世の五輪塔の笠石、宝篋印塔の笠石がある。また寛永7年(1630)・10年・13年・19年など江戸時代はじめの宝篋印塔があり、里見氏家臣の田山左衛門介正常の墓と伝えられているものがある。門前には館山の大正・昭和期の俳人斎藤光雲の句碑がある。また日蓮宗の守護神を祀る七面大天女堂の周辺には、古墳時代の横穴墓が5基確認できる。

大網(おおあみ)エリア

(4) 舎那院(しゃないん)の大仏

 真言宗のお寺。本堂より高いところにお大日様と呼ばれる磨崖(まがい)の大仏がある。室町時代以前のものとされ、市の指定文化財になっている。凝灰質砂岩の崖面に掘りだされた大日如来の像の高さは196cm、幅150cmで、館山湾を見下ろすようにある。ほかに安永7年(1778)の日本廻国塔、安永9年の出羽三山碑、文化2年(1805)の二万遍書写記念の光明真言塔などがある。

(5) 大網砲台跡

 太平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲などがおかれていた、いまも凹地や塹壕(ざんごう)などが残されている。周辺には弾薬や食料などの物資貯蔵用の洞窟が掘られ、なかには壕の正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えにくくしたものもある。また南条へ下る途中に、終戦まぎわに疎開してきた洲ノ埼海軍航空隊の主計科(会計課)の建物が残っている。

(6) 力石(ちからいし)

 大網集会所ちかくの道端に、力石がふたつ置かれている。右の石は「三十八〆目 大網」、左の石は「奉納 四十八〆目」と刻まれている。38貫目は142.5kg、48貫目は180kgのこと。石碑には「四十八貫石 ふん担いだよ 俺がむらのこのわかもの」とあり、かつて村の若い衆が、力比べをしていた石だということを伝えている。

(7) 大巌院

 浄土宗のお寺で、仏法山大網寺大巌院というのが正式の名前。慶長8年(1603)に安房国主の里見義康が、浄土宗の高僧雄誉霊巌(おうよ れいがん)を招いて創建した。山門を入って左手ある玄武岩製の石柱は四面石塔と呼ばれ、四面にある水向けとともに、県の指定文化財になっている。元和10年(1624)3月に霊巌が建てたもので、四面には「南無阿弥陀仏」の文字が、和風の漢字・インドの梵字(ぼんじ)・中国の篆字(てんじ)・朝鮮のハングルの4ヶ国語で書かれていいる。秀吉による朝鮮侵略後の民族和解と世界平和を表現する石塔と評価されている。本堂前の石灯籠は江戸初期の古いもので、左が元和10年2月、右が翌年の寛永2年(1625)10月。最下部の礎石はともに本体より古い作りである。霊巌の墓も江戸初期のふるい様式で、市の指定文化財である。霊巌ゆかりの寺宝として、寺号扁額・浄土宗法度・大位牌など多数伝えられているほか、慶長12年(1607)作の霊巌の木像が祀られている。その他にも稲村城跡出土の板碑(元応元年=1319)や奈良時代の十二因縁論など、市の指定文化財が数多くある。

南条(なんじょう)エリア

(8) 日枝神社(下真倉)

 下真倉の鎮守で、むかしは山王権現と呼ばれていた。社殿のなかには万里小路通房が明治30年(1897)に書いた「本宮」の額、大正4年(1915)の鏡ケ浦図の絵馬などがある。境内には文政10年(1827)の手水石、大正14年(1925)建立の震災記念碑などがある。関東大震災での下真倉の被害は、105戸のうち79戸が全壊、13戸が半壊で、死亡4人、負傷者9人だった。社殿裏の海抜約28mほどのところには海食洞窟がある。8月1日の例祭では羯鼓舞(かっこまい)が奉納されている。

(9) 観音寺

 真言宗のお寺で、南養山観音寺という。門柱にわたされたモダンなガス灯が珍しい。境内に入ってすぐ左手にある石造の地蔵尊は、高村光雲の弟子で館山楠見の石彫家俵光石の作品。明治33年(1900)の作で、台座に地獄極楽の図が刻まれている。手水石は文政12年(1829)のもの。記念碑は石渡省吾という南条出身の教育者のもので、題字は県知事立田清辰、撰文は中村時中で、昭和14年(1939)の建立。省吾は県内や岡山県などで教壇にたったあと、大正4年に海発(和田町)で私塾自彊学舎(じきょうがくしゃ)を開いて子弟の教育にあたった人物。のちに塾は大網の大巌院に移転している。また墓地には、大正12年の大地震供養のための地蔵尊が建てられている。

(10) 浅間(せんげん)様

 山頂に明治8年(1875)に奉納した富士講「山三」の石宮、ほか4基の石宮が祀られてる。並んで明治11年(1878)に講中で建立した安房百八浅間のうちの第百七番の石碑がある。南条の富士講による富士登山などの活動は、大正末頃まで行なわれていたという。山への入口には、文政10年(1827)の出羽三山碑、宝暦8年(1758)の青面金剛庚申塔、明治22年(1889)の光明真言六百万遍供養塔、同年奉納の不動明王像などがある。

(11) 姫塚

 里見家の天文の内乱(1534)で里見義豊が里見義堯に敗れたとき、義豊の正室である一渓妙周も自害し、乳母によって父の居城鳥山城(南条城)の近くに葬られたという伝説がある。姫塚はその女性の塚だといわれ、かつてそこに正室の菩提を弔うための一渓寺があったという。移転して古茂口の福生寺になったといい、福生寺にはその女性の墓と伝わる大きな五輪塔がある。姫塚は直径1m、高さ80cmほどの石積みにだけである。


監修 館山市立博物館