竹原周辺

安房地方のくびれにある竹原は、古くから内房と外房を行き来する道が通り抜ける。道と暮らしの関わりを訪ねてみましょう。

国道エリア

(1) 医王寺(薗)

 真言宗のお寺。参道に文久元年(1861)の哀牛碑がある。道沿いでよくみかける馬頭観音は運送馬や農耕馬の健康や冥福を祈って建てられるが、牛の冥福を祈るために牛頭観音の文字が刻まれることがある。この碑も同様に牛の供養のためのもの。境内には馬に乗った石造の菩薩像がある。馬乗りの馬頭観音か、あるいは養蚕の守護神である馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)らしい。また根本家の墓地に、正徳元年(1711)の万石騒動で処刑された三義民のひとり、薗村名主五左衛門の墓がある。

(2) 道標(薗)

 国道横の崖下に六地蔵を刻んだ道標がある。ここは北西が府中、西が北条・館山、東南が宇田坂を越えて千倉、東北が加茂坂を越えて和田方面へ行く交差点にあたる。正徳4年(1714)に地元の念仏講と巡礼講の人々が建てたもので、ここから館山まで1里29町、松田(和田町)まで1里20町とある。

(3) 伊豆箱根両所神社(水玉)

 伊豆山権現(熱海市)と箱根権現(箱根町)を祀っている。ともに源頼朝以来、関東鎮護の神として武家の信仰をうけていた神だが、それを水玉へ誰がいつ頃に分けてきたのかは不明。当社には歌舞伎興行をした時の額が残されている。明治頃までは河原で田舎芝居が行なわれていたそうである。社殿が茅葺きになっているが、いかにも村の鎮守といったこうした姿は、市内ではもうほとんど見ることができなくなっている。

田村・相賀・横枕エリア

(4) 春光寺(田村)

 曹洞宗のお寺。北条藩主の初代屋代忠正が室の昌泉院の供養のために承応3年(1654)に建てたとされるが、中世の宝篋印塔が数基分あり、それ以前からあった寺のようである。屋代家三代(忠正・忠興・忠位)の菩提を弔っているが、裏山山頂に大型の墓石があり、中央の長生院殿とあるのは、二代目屋代正興の奥方の墓である。

(5) 明星山城跡(田村)

 春光寺裏山の明星山が戦国時代の城跡と伝えられ、鎌倉時代の多々良庄(富浦町)の御家人多々良氏の子孫である薦野氏の居城とされる。戦国時代に薦野神五郎時盛の娘が里見義弘の側室となって頼俊を生み、頼俊は薦野家を継いで、慶長年間は里見一門として、竹原を中心に2500石を知行した。薦野頼俊は家臣ともども館山落城のときに討ち死にしたという伝説もある。明星山城は内房と外房をつなぐ道を管理する役割があったと考えられる。

(6) 光堂(田村)

 吉田山光堂といって、戦国時代の天文21年(1552)に里見氏の家臣吉田下野守が再興している。本尊の阿弥陀如来像もその時期のもの。境内のビャクシンの下にある宝篋印塔も塔身に像を浮き彫りにした戦国時代のもので、天文の次の「弘治」の年号が確認されている。

(7) 地蔵堂(相賀)

 本尊の地蔵菩薩立像は鎌倉時代中頃のもので、かなりの秀作。堂内には近くの畑から移された、室町時代の石造の虚空蔵菩薩像が安置されている。薦野氏と関係のある堂らしい。

(8) 加茂坂旧道(相賀)

 細い尾根を上って丘陵を越えると加茂(丸山町)へ出る。明治10年(1877)に現在の国道の大井の切割ができるまでは、この道が本通りだった。尾根の途中には天明3年(1783)の道標があり、「是より右 那古道/是より左 清澄道」とある。少し先の三叉路にも文政5年(1822)の道標があったが、現在市立博物館で展示中。またこの道の途中に、光海という行者の万治2年(1659)の墓があるらしい。

(9) 松葉堂(横枕)

 加茂坂を越えてきて府中(三芳村)まで行く道がお堂の前を通っていたが、道に面して祀られている石宮がドウロクジンと呼ばれている。道陸神と書くもので、道祖神と同じ。道を守る神である。石宮の中には仏像を浮き彫りにした戦国時代の宝篋印塔の塔身が入っている。

田辺エリア

(10) ツナツリ(横枕)

 八坂神社の階段下にツナツリが行なわれていた。綱吊りと書くが、ここでは作りかけのゾウリ・タワシ・サンダワラを吊していた。これは村境に吊るして、そこから村のなかには疫病や災いが入らないように祈った魔除けの風習である。横枕の人々が田辺との境に吊したもの。北側の滝ノ谷との境にも吊してあったが、どちらも最近見られなくなった。

(11) 三山碑群(田辺)

 出羽三山と呼ばれる湯殿山・月山・羽黒山(秋田県)へ登山して、三山へ参拝修行した記念に建てた碑。田辺の人々が三山講というグループをつくって資金を募り、参拝に行っていたことがわかる。もっとも古い碑が享保8年(1723)で、以後は寛延4年(1751)・寛政10年(1798)・文化13年(1816)・天保12年(1841)・文久2年(1862)・平成3年(1991)の7基がある。ほかに明治33年(1900)の坂東・秩父・四国の百観音巡礼をした記念碑もある。

(12) 日枝神社(田辺)

 昔は今宮山王権現といって、里見氏が稲村城の鬼門守護のために移してきたという。社前の直線道路は馬場で、大正時代までは競馬会が行なわれていた。鶴谷八幡宮の犬狩神事としてはじめられた武芸神事が、江戸時代に竹原へ移り、10月9日・10日の例祭の日に二頭ひと組みで速さを競う競馬になったという。社前に御神木とあるのはビャクシンで、もとは山上にあって漁師のヤマアテにされた古木だったが、百五十年前の落雷で枯木となって社前の三叉路に移され、虫送りの行事に利用されてきた。境内には文政13年(1830)の手水石、慶応2年(1866)の石灯籠がある。また神号額は明治32年(1899)に後藤義光の弟子で竹原出身の後藤義久が彫刻したもの。

(13) 駒止め地蔵(田辺)

 日枝神社の競馬のゴール地点から少し先になる位置にあって、馬をここで止めるのだという。かつてここで落馬死した乗り手の供養をしているともいう。


監修 館山市立博物館