猿鹿山瑞龍院

瑞龍院(ずいりゅういん)の概要

 館山市畑にあり猿鹿山(えんろくさん)瑞龍院という。曹洞宗。開創は天正(てんしょう)5年(1577)で、開基は房総の太守(たいしゅ)里見義弘。江戸初期の角岩麟藝(かくがんりんげい)和尚が中興開山。それ以前にも三代あったという。本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、義弘の守り本尊が寄付されたと由緒書にある。里見家と徳川家からは6石2斗の地を与えられた。かつては現在地より裏山を更に登った高台(現在畑になっている)に堂宇があったが、元禄16年(1703)の大地震による山津波で崩壊し、現在地に移ったと伝えられている。里見義弘の院号を寺名にしているとおり、(1)義弘の位碑や(2)義弘像の頭部と伝えられる木像が安置されている。また寛政9年(1797年)の(3)本堂再建棟札が残され、東西7間・南北7間半の本堂が再建されている。欄間には(5)波の伊八(初代武志伊八郎)の龍が守っている。本堂の再建・伊八の龍・義弘公の木像、そして今は廊下に保管されている文政8年(1825)の(4)喚鐘(かんしょう)等々は、みな中興8世の慧東(けいとう)和尚による再建事業で残されたものである。

(1)里見義弘夫婦の位碑

 義弘の法名「瑞龍院殿在天高存大居士」に並んで、室は「智光院殿高嶽梵長大姉」とあり、小弓公方{おゆみくぼう}足利義明の娘。延命寺本里見系図では里見義頼の母と伝えられる女性である。鎌倉太平寺の住職を務めた青岳尼であるとされる。

(2)里見義弘木像

 文化12年(1815)10月に当院8世住職慧東(けいとう)により、開基像として新造された。当時のものは頭部のみが残されている。

(3)本堂再建棟札

 本堂は寛政9年(1797)に8世慧東が再建したもの。棟札には、棟梁(とうりょう)大工は平群本織(もとおり)村の伊丹喜内(いたみきない)とあり、延命寺大工と呼ばれ曹洞宗寺院の専属名匠として知られていた。木挽(こびき)棟梁は長尾川を下った白浜村曲田(まがった)の権四郎。関東大震災で倒壊した。

(4)喚鐘(かんしょう)

 法会等で用いられるというこの鐘は、文政8年(1825)に8世慧東が、江戸神田の鋳物師(いもじ)西村和泉守藤原政平に依頼してつくらせたもの。里見義弘が開基した瑞龍院の衰退を憂い、慧東が東奔西走して寺の再建をしたことが記されている。この鐘にこれからの寺の繁栄を託したのだろうか。

(5)伊八の竜

 文化5年(1808)11月、長狭の武志(たけし)伊八郎伸由(のぶよし)(初代伊八 58歳)とその弟子森久八により彫られた。8世慧東(けいとう)の時。

(6)石井平雄句碑

 「精舎にのほりて秋声をきく 澄(すむ)かきりすむや河鹿(かじか)のゆふ流(ながれ)」

 明治33年(1900)に俳人石井平雄(ひらお)の孫が建てた句碑。平雄は平館(へだて)村(南房総市千倉町)の人で、久保村の井上杉長(さんちょう)の門人。元治2年(1864)没。本名は石井宇門といい医師。俳諧のほか画・彫刻にも長じていた。台石は平館から九重・館野・豊房を回って運んだという。

(7)出羽三山碑

 天保13年(1842)8月に建立。出羽三山(山形県)の登山記念碑で、地元の10名と白浜の3名の名前が読める。

(8)大日如来坐像

 上半身が欠けた像だが、立地から考えると出羽三山に関係した石仏だろう。蓮華座が確認出来るので大日如来の可能性がある。三面に十数名の名前が確認できるが十分読み取れない。宝暦年間のものか。

(9)延命地蔵菩薩坐像

 向台(むかいだい)地区の女性達10名が願主となり、夫や息子の無事を願って文政11年(1828)11月に建立したもの。

(10)馬頭観音

 岩肌をくりぬき三体の馬頭観音がある。年代が特定できるのは左側のみ。大正8年7月とある。中央右側面に畑地区では珍しい酉井(とりい)市右衛門という名前が読める。

(11)歴代住職の墓

 裏山の向山墓地に無縫塔(むほうとう)が8基並んでいる。享保年代と法名を読める墓碑も1基あるが他は不明。他に、寺から墓地へ行く山道の途中、山肌を削り整備した墓地に中興8世から13世の墓が安置されている。

(12)伝 里見義弘夫妻供養塔

 向山墓地の住職墓碑の左端に宝篋印塔が2基あり、里見義弘夫妻の供養塔、分骨墓とも語り継がれ、地元では「髪塚」「さんとうば」と呼ばれている。一方には「道■妙阿禅尼 天文25年(1556)」の銘文があるが、年代が早いことから、別人の供養塔か逆修塔との説もあり、謎のまま安置されている。

報恩碑<平家の落ち武者伝説>

 瑞龍院から川を挟んで向いの中腹に、畑地区の始まりを語ると言える碑がある(石井家墓地に個人が明治29年に建てたもので、見学する場合は了解を得る必要があります。)

 碑には、今を去る千余年前、新悟・萬吾・平作・野庄の四人の落武者が畑へ逃げ延びてきたことが記され、野庄が石井家の祖であるとしている。他の三人は畑四姓のうち残る山川・加藤・早川。建立した石井金治は安房国造大伴直’くにのみやつこおおとものあたい(大瀧から四十余世続いた子孫であるという。撰文は元長尾藩士で漢学者の恩田城山(じょうざん)、石工は東京美術学校で高村光雲に学んだ館山の俵光石(たわらこうせき)。明治29年(1896)建立。

長尾三神社 合祀記念碑

 瑞龍院の南西側、畑地区の中心部にかつて畑小学校があったが、昭和47年(1972)、児童数の減少により豊房小学校に統合し廃校となった、その裏山に長尾三神社がある。古書によれば畑にはもともと長尾神社・八幡神社・八雲神社の三社があった。長尾神社は長尾川流域にあった長尾庄の総鎮守と伝えられ、養老2年(718)に班田使が安房へ下向したときに創建されたという。しかし、「時を経て戸数も僅かなこの地では維持が難しくなった。合議すること3年、大正9年に合祀(ごうし)が決まり、信心深い氏子たちによる数千余円の拠出金で大正10年に新社殿が造営されることになった。この地は山高く谷深く、松聳(そび)え老杉鬱蒼(ろうさんうっそう)として、民家が点在し、四方を眺(なが)めれば絶景である。山では禽(とり)が常に囀(さえず)り水が絶え間なく流れ、東南に開ける社殿は雄大で明るく輝いている。合祀のために尽力された氏子総代、有力者、また補佐された方々の徳を称(たた)えこの記念碑を建立するに到る。」と記されている。撰文(せんぶん)は豊房村長鈴木周太郎、裏面には60名近くの寄付者の名前と金額が彫られている。石工は田中安治郎。村内に散在していた三社は長尾神社の位置に合祀された。


<作成:ミュージアム・サポーター 鈴木以久枝・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館