万石騒動

万石騒動と三義民

万石騒動とは

 はなやかな元禄文化の裏側で、大名たちは多額の借金に苦しんでいました。安房北条藩屋代家の財政再建のために召抱えられた役人川井藤左衛門は、地震の隆起で広がった海岸に新田を開き、用水路を切り開いて増産を試み、保護林の木を切って売るなど増収を図っていました。しかしそれは領民を無謀に使役したうえ、やがて領地の村々に年貢の倍増を命じたため、領民は反発、年貢減免の嘆願運動をはじめたのです。これは名主3名を処刑する弾圧へと展開しました。領民は老中への直訴をおこない、成功して領民の勝訴となります。この事件は一万石の領内で起こったので万石騒動とよばれ、3名主は三義民と呼ばれて今日でも讃えられています。

関連遺跡

(1)北条藩陣屋跡

北条/現在の館山警察署・北条病院・館山消防署の位置にあった。

(2)鶴ヶ谷の森跡

北条/川井藤左衛門が増収をはかって、これまで誰も手をつけなかった鶴ケ谷の森の木を伐採した。森は西風を防いだり、燃料を供給する大事な森だった。

(3)川井新田

北条/川井藤左衛門が1703年=元禄16年の地震で隆起した北条海岸に開発した新田。字を北川井・南川井という。

(4)海雲寺

北条/浄土宗。屋代忠興供養のために忠位が創建した。

(5)春光寺

竹原/曹洞宗。初代忠正が奥方のために創建した屋代家菩提寺。春光寺殿が二代忠興の法号となる。忠興の奥方の墓や屋代家関係者の墓が高台にある。

(6)滝川堰

山本/川井藤左衛門が灌漑用水としてつくったと伝えられる滝川用水の取水堰。

(7)袋

腰越/滝川堰の箱橋上手にある遊水地。用水に水を流す期間は水を蓄えておく。

(8)川井土手

腰越/滝川上流の堤防。川井藤左衛門は滝川用水をつくるために、当時広瀬から府中方面に流れていた山名川を、広瀬から南下させて竹原川と合流させ滝川に流すために、流路の付替え工事をしたと伝えられている。水量の多くなった滝川を氾濫から護るための護岸。

(9)小川

腰越/川井藤左衛門による山名川の川廻しにともなう、腰越・広瀬の水田からの排水路。

(10)川井堀

山本・国分/滝川の取水堰から国分の分水堰までの導水をするための堀。岩山をも削ってわずかな傾斜で造られている。

(11)ハヤブテ

山本/川井堀を流れる水が溢れたときに、水を滝川へ落とすための水抜き堀。

(12)無名堰

国分/滝川用水の分水池、国分・高井・上野原・長須賀の水田への灌漑用水となった。

(13)国分寺

国分/三義民の墓=館山市指定史跡、安房郡三名主之碑=明治43年二百年忌の建碑、三義民250年遠忌供養塔、三義民のひとり国分村名主飯田長次郎の墓がある。

(14)三義民刑場跡

国分の萱野にある、館山市指定史跡。

(15)医王寺

薗/三義民のひとり、薗村名主根本五左衛門の墓がある。

(16)紫雲寺

水岡/追放名主のひとり、北片岡村名主小柴庄左衛門の墓がある。

(17)薬師堂

湊/三義民のひとり、湊村名主秋山角左衛門の墓がある。

(18)金台寺

北条/北条藩代官の行貝弥五兵衛父子の墓がある。農民側の支援者として川井に処刑された国分村出身の地代官。

三義民

1湊村名主秋山角左衛門養秀院一法常感居士
2国分村名主飯田長次郎貞信院剣室道霜居士
3薗村名主根本五左衛門萬法院晩叟道解居士

            命日 正徳元年(1711年)11月26日

追放された三名主・稲村名主山口弥市郎
・北片岡村名主小柴庄左衛門
・中村名主吉田九兵衛

北条藩とは

 寛永15年(1638)に屋代忠正が一万石の領地を与えられて大名となり北条藩をおこす。

1 歴代藩主

 屋代忠正(タダマサ)-忠興(タダオキ)-忠位(タダタカ)の三代つづき、忠位のとき万石騒動がおこる。

2 藩主屋代忠位

 正保4年(1647)生まれ。寛文3年(1663)に家督相続。正徳2年(1712)万石騒動の結果領地没収により旗本に格下げ。正徳4年(1714)没。

3 藩の関係者

 川井藤左衛門(財政再建のために新規採用された用人、上席家老相談役)・林武大夫(北条陣屋の郡代)・高梨市左衛門(代官)・行貝弥五兵衛(代官)

4 一万石の領地

 館山市北条地区・館野地区・九重地区、三芳村中・御庄、丸山町加茂の27か村。

事件のながれ

正徳1年9月7日川井藤左衛門、代官高梨とともに6000俵の増税を村々に命じる。
(1711年)9月9日領内600名の農民が、北条陣屋前に押し寄せて減税を嘆願。
11月2日農民たちが大勢で江戸の藩主の屋敷へ嘆願に出る。
11月13日川井、6人の名主を北条陣屋で牢屋に押し込める。
11月20日農民代表が、江戸で老中秋元但馬守の駕籠に訴状を投げ入れる。
11月26日名主3名が処刑され、妻子追放、家財没収される。代官行貝父子も処刑。
12月4日江戸で農民代表が老中阿部豊後守に駕籠訴。お取り上げになり勘定奉行の審理がはじまる。
正徳2年7月22日判決が下り、川井藤左衛門父子に死罪、林、高梨は追放、藩主屋代忠位は領地没収、捕らえられて生き残っていた名主3名は追放となる。

関連行事

1 毎年11月26日、国分区民による供養祭が行われる。

2 昭和35年11月25日に、安房三義民250年忌式典が行われた。2010年が300年忌になる。