長尾藩ゆかりの地

長尾藩の史跡をめぐる

長尾藩とは?

 静岡県藤枝市にあった田中藩は、明治元年(1868)に安房への転封を命じられた。

 藩主本多氏は約140年にわたって藤枝周辺の田中領3万石を支配、下総葛飾周辺(流山市など)の一万石と合わせて4万石の大名家だった。最後の藩主本多紀伊守正訥(まさもり)は文芸に秀で、昌平坂の学問所奉行に就任した人物である。

 明治維新で徳川家が300年にわたる政権を朝廷に返上し、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)が水戸に隠退すると、徳川家を継いだ徳川亀之助家達(いえさと)は駿河・遠江・三河で70万石の大名となった。そのため駿遠の大名たちは房総に所領を移されたのである。田中藩本多家は安房に転封となり、白浜の長尾(白浜町滝口)に城を建設した。そのため長尾藩という。当時の落首に「徳川の亀に追われて房州へ 来い(紀伊)ともいわず行くがほんだ(本多)か」とある。

 しかし交通の便の悪さからまもなく北条(館山市)に城を移し、明治4年の廃藩までのわずかな期間を安房で過ごすことになった。その間、明治3年暮に藩主は本多正訥から正憲へと相続されている。

 廃藩後の藩士たちは、藤枝へ帰るもの、東京へ出るもの、安房へ残るものなどにわかれたが、安房に残った人々は教育や行政などで安房の近代化に貢献した。また藩士の子孫には、洋画家の藤田嗣治・歯車の研究で知られる工学博士の成瀬政男・書家の小野鵞堂などがいる。

(1)長尾城跡(白浜町滝口)

 明治元年(1868)7月、本多氏が駿河藤枝から安房への転封を命じられ、白浜の長尾へ城を建設。明治2年になると藩士の移住が本格的にはじまった。軍事的な要害として長尾の地が選ばれたのだが、地の利の悪さから藩士には不評だったため、その年夏の台風によって建設中の陣屋が倒壊したのにともない、北条への移転が進められ、長尾城の建設は中止された。当時の落首に、「長尾村に本多の城ができるという ほんだ(本多)けれどもなごう(長尾)保たん」とある。

(2)杖珠院(白浜町白浜)

 長尾城建設を推し進めた藩の兵学者恩田仰岳の墓があり、門前には教育者として地域貢献をした仰岳・城山父子の記念碑が建つ。

(3)西養寺(千倉町北朝夷)

 明治2年に藩校日知館の分校が北朝夷に設置された。そのことと関連するのか、同地にある真言宗のこの寺院には都築拾輔など藩士の墓がある。

(4)萱野士族邸跡(館山市国分)

 長尾から北条へ陣屋を移転させると、北条の陣屋では藩士を収容しきれないため、陣屋周辺に分散して藩士の居住地が設けられた。その代表的な居住区域で、整然とした屋敷地割りがなされている。いまも数軒の子孫の方が区域のなかにお住まいである。

(5)萱野共同墓地

 萱野の北端にある藩士の共同墓地。藩士16家のほか、藤枝宿から移住した山口伝吉の墓もある。

(6)稲荷神社

 稲荷は藩主本多氏の鎮守とされ、藤枝の田中城内に祀られていた。長尾城や北条陣屋建設にあたっても稲荷が勧請されたが、多くの藩士が居住した萱野にも祀られた。

(7)不動院(館山市北条)

 真言宗の寺院で、幕末に海岸警備を担当した忍藩士が葬られるなどした。長尾藩の算学師範だった小沢直治の墓碑がある。

(8)新塩場士族邸跡(館山市北条)

 藩士居住区域のひとつ。槙の生垣に仕切られた屋敷地割りは当時のもの。廃藩以後は、明治から大正にかけて館山へ移住してきた中流家庭の住宅地となり、いまでも和風住宅に洋間を付属させた大正から昭和初期流行の文化住宅がみられる。

(9)八幡浜士族邸跡(館山市八幡)

 藩士居住区域のひとつ。海岸の松林のなかにつくられた。予備地であったらしいが、一画には旧藩士の子孫のお宅がある。

(10)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

 境内には、明治時代に書家として大成した小野鵞堂(剣術師範小野成文の子)の大きな石碑が建てられている。また拝殿で使用されている太鼓は、明治5年(1872)に旧藩士たちが奉納した藩使用の刻の太鼓で、元文元年(1736)の銘がある。

(11)八幡共同墓地(館山市八幡)

 北条陣屋の北外れに設営された藩士の共同墓地。家老の遠藤俊臣をはじめ、日知館監察の雨宮信友、勘定奉行熊沢菫、剣術師範小野成顕・成命ほか、原田吉雄、東権兵衛、成瀬藤蔵、長房包満、池谷信直、富田忠謹、竹田本忠、杉山岩蔵、加茂祐之助、大井貞などの墓がある。

(12)北条陣屋跡(館山市北条・八幡)

 幕末に海岸警備の陣屋が置かれていたところへ、長尾藩が明治3年11月に陣屋を移転した。藩主邸・藩庁・工作役所・学校(日知館)・番屋がおかれ、武家屋敷が周辺に整えられた。

(13)藩主邸跡

 藩主本多正憲の屋敷跡。

(14)藩庁跡

 鶴ヶ谷の城と呼ばれる御殿と、刑法・民政・会計の三局がおかれた藩の役所があった場所。

(15)稲荷神社

 藩主本多氏の鎮守として、藩主邸の北東に藤枝田中城から稲荷社と秋葉社を合祀して遷座したもの。境内には廃藩後に旧藩士が奉納した天保14年(1843)鋳造の大砲があったが、戦争中に供出され、いまは奉納した時の記念碑と台座だけが残されている。現在も旧藩関係者が例祭を執り行っている。

藩士の国替え

 家財道具を売り払い、藩主から15両の手当てをもらった藩士の藤井六郎は、明治2年1月、およそ35両を携えて妻とともに藤枝から白浜の長尾へと向かった。藤枝宿から東海道を旅し、鎌倉からは金沢・横須賀・浦賀と歩いて、西浦賀で船に乗ると那古へ上陸、真倉・神余と過ぎ、そして白浜へと到着した。旅程は7日程度であったとされる。焼津港から船で直接白浜へ渡った人もいたそうである。