山荻神社(やまおぎじんじゃ)と福楽寺(ふくらくじ)の概要
館山市山荻字中郷にあります。毎年の稔りを守護することから江戸時代までは歳宮(としのみや)明神と呼ばれていました。明治3年(1870)に神主の石井豊継から役所に出された取調帳によると、景行天皇の御代(みよ)(12代天皇で日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられている)、この地に祭場を定め、正倉(しょうそう)を造り、稚産霊神(わくむすびのかみ)・猿田毘古神(さるたひこのかみ)を祀ったのが始まりとされ、和銅年間(708~715)に新たに社殿を造立して、別に大穴牟遅命(おおなむちのみこと)、少毘古名命(すくなひこなのみこと)を加え四座を祀ったと記されています。古代には2町四方の神領を持ち、明応元年(1492)に里見義成が神領8石を与えたと伝えられ、徳川将軍家にも朱印地として引き継がれています。現在の社殿は大正7年に火災で焼失、大正12年関東大震災で倒潰したあと、昭和2年(1927)に再建されたものです。本殿・幣殿・神供所からなる構造で、本殿には棟持柱(むねもちばしら)、板校倉造(いたあぜくらづく)りなどに古代神明造りの特徴が残っています。右隣りにある多聞山福楽寺は根来寺(ねごろじ)(和歌山県)の流れをくむ新義真言宗の寺院で、伝承によると元和4年(1618)に滝の口(白浜)から現在地に移り、堂宇を建て本地仏である弥勒菩薩(みろくぼさつ)を祀ったのが始まりとされています。境内に縁起を記した光明真言宝塔1基があったといわれていますが失われ、その後現在も残る光明真言六億遍供養塔が建てられました。古代この辺りは岸の谷(や)といい、船着場であったと言われています。開拓が進められる中、野獣の害を除く御猟(みかり)神事や邪気をはらう大烽焚(おおびた)き神事、土地を耕し五穀を植えその吉凶を占う筒粥神事が人々の生活や信仰から生まれてきました。受け継がれて来た筒粥神事は今も2月26日の祈念祭・宅神祭の際に行なわれ、平成5年に市の無形民俗文化財に指定されています。9月14、15日の鶴谷八幡宮の国司祭には神輿が出御します。例大祭は10月17日、神嘗(かんなめ)祭は11月26日に行なわれます。
(1)社名碑
参道入口右手にある。神社名を記した石碑は、明治23年(1890)に氏子達によって建てられたもので、題字は明治13年(1880)に結集され、同15年に代表的な神道の一派として独立した神習教の管長・芳村正秉(まさもち)の筆によるものである。
(2)石燈籠
入口左手にある1基の石燈籠は、明治9年(1876)、山荻村の安西氏の寄進によるもの。
(3)狛犬
小型の狛犬であるが、万延元年(1860)の銘がある。願主は村の氏子達で、川下(白浜町滝口)の石工山口金蔵重信の手によるものである。
(4)鳥居と石燈籠
階段を登った中段にある鳥居と石燈籠は、ともに文政5年(1822)の建立で、氏子達の寄進によるもの、燈籠の台座には発起人の武内伊勢(鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)家)、山荻村名主の佐野八右衛門、神主石井常陸亮の名が刻まれている。
(5)石燈籠
階段を登り切った両側に建つこの石燈籠は、天明7年(1787)、山荻村の栗原清太郎寄進のものである。
(6)手水石
四匹の邪鬼(じゃき)の上に水盤が乗った型の手水石で大変珍しい。安政3年(1856)、山荻村の内藤八十右衛門が願主になって氏子達が寄進したもの。邪鬼の背に石工の名が刻まれ、川下(白浜町滝口)の山口金蔵重信、南条村の清左衛門の作とわかる。水盤は地元山荻の和助の作である。
(7)山三講浅間祠
拝殿左手にある。石祠には正面に富士大神と彫られており、台座には山三講の名が刻まれている。山三講はこの地域の人達が参加していた富士講の講名である。江戸末期から明治期にかけて盛んであった。祠は明治11年(1878)、山荻の黒川安平らを願主に建立されたものである。
(8)石棒石祠
本殿裏手にある。男根を形どった石棒が石祠に祀られている。子孫繁栄、五穀豊穣を祈願したものであろう。
(9)大炊所(おおいどころ)と筒粥神事(つつがゆしんじ)
筒粥神事は古来五穀の吉凶を占う伝統神事として各地で行なわれてきた。山荻神社では今でも行なわれ、空洞のヨシ(植物)を13cm程に切り、作物別に番号を付した19本のヨシ筒を粥と一緒に煮込み、拝殿に運ばれて儀式を行ったあと、ヨシを割いて中に入っている米粒の量でその年の作物の吉凶を占う神事である。その筒粥を釜で煮る建物が大炊所で、社務所の左手にある。市指定無形民俗文化財。
(10)旧神職石井家跡
参道入口の左手に神主石井家の屋敷があったが今は集会所になっている。石井家は磐鹿六雁命(いわかむつなりのみこと)の子孫で代々神主を務めた家柄。伝承によると景行天皇が東征の折、その磐鹿六雁が蛤の料理を天皇に差し上げたところ大変喜ばれ、朝廷の大膳職(だいぜんしき)に取り立てられたといわれている。和銅年間にその子孫の豊彦という人が山荻神社創建の際、社務を命ぜられて代々の神主になったと伝えられている。屋号を宮元といい、石井家代々の墓は奥手の高台にある。
(11)日清戦役戦没者墓碑
正面に「故近衛歩兵一等卒渡邊丑蔵君墓誌」と刻まれている。明治6年9月に山荻村に生まれ、同26年に近衛歩兵第3連隊に入隊、日清戦争後の明治28年(1895)7月に台湾へ転戦、同月13日、三角湧胡角において21歳で戦死した。その追悼碑である。豊房村長で農事の奨励・発展に尽くした鈴木周太郎の書。
(12)宝塔
正面に「光明真言六億遍供養塔」と刻まれ、左側面には願主6名、裏面には石工、右側面には当寺13世・14世の住持2名の名がある。この古寺にはかつて光明真言の宝塔1基があったが失われ、住持の宥證と信者が再建を決めて、寛政10年(1798)から享和3年(1803)まで6年をかけて光明真言6億回を唱え、志を継いだ住持源惠のとき建立された。この宝塔を彫造した石工は元名村(鋸南町)の周治とある。25歳の時のもので、40歳頃からは武田石翁(せきおう)と号した。武志伊八・後藤義光とともに安房の3名工のひとりに数えられている。『安房先賢偉人伝』でも紹介され、江戸時代後期に活躍した石彫りの達人。安永8年(1779)に本織村(南房総市三芳地区)に生まれた。円熟の技を探究し、黒蝋石による数々の彫刻作品を残し、80歳で歿した。
<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 井原茂幸・中屋勝義・吉村威紀>
監修 館山市立博物館