南条八幡神社

八幡神社の概要

 館山市南条字東山にあり、祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)です。伝承によると古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病(えきびょう)が流行したため、その病難を免れるための神を祀(まつ)ったのがはじまりとされています。治承4年(1180)源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から兵を挙げる時、村人が京都石清水(いわしみず)八幡宮の御霊(ごりょう)を勧請(かんじょう)し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿を建立したそうです。戦国時代の天文2年(1533)、南条城主鳥山(とりやま)弾正左衛門大夫時貞(ときさだ)は、居城の東方に当る東山に社殿を造営し守護神として崇敬しました。その後寛永15年(1638)、時の南条村領主であった旗本本多美作守(みまさかのかみ)から別当(べっとう)の応神山神宮寺(じんぐうじ)が境内の敷地(5畝15歩)の年貢を免除 (除地(よけち)されたことが、八幡神社所蔵の古文書に確認できます。さらに文化14年(1817)にも新領主の松平越中守が除地(よけち)にしたことが棟札に記されていたそうです。社殿は大正4年の御大典記念で改築されましたが、大正12年の関東大震災で被害を受け、現在の社殿は昭和8年に当地区の素封家小原金治の寄進によって建替えられました。神社の背後にある山腹には、社殿改築のため何基か潰されているものの古墳時代の横穴墓38基があり、東山横穴群と呼ばれています。神宮寺は中段の社務所があった場所に建てられていたものと思われ、当時は庭園があった様です。なお天保8年(1837年)の古文書によると、その頃は毎年8月15日(旧暦)に祭礼が行われたとあります。現在の祭礼は10月第二日曜日です。

(1)社名碑

 「八幡神社」の文字を書いた賀茂百樹(かものももき)(石碑にある”縣主(あがたぬし)”とは賀茂氏を尊称した古代からの呼名)は、明治42年から昭和13年まで靖国神社の宮司を務めた人。和学者でもあり『日本語源』10巻を刊行している。

 寄進したのは豊房村の素封家小原金治。裏面に「金千円と田1反2畝24歩を奉納する。1000円は向う95年間利殖し、満期(平成40年)になったらその総額を八幡神社の基本財産と定め、その後の収益は神社費に充てること。田からの収益は永久に祈年祭の費用に供すること」と書かれている。石工は大戸の飯田良平。社殿が建て替えられた昭和8年に建立された。

(2)常明燈(じょうみょうとう)

 石灯籠である。8人の願主と37人の寄進者の名が彫られている。石工は山萩の安西久三郎で、明治26年(1893)8月建立。左右の基壇に彫られている”牡丹と獅子 “は、千倉の木彫師後藤義光80歳のときの作。義光が石に彫刻した数少ない作品。

(3)石段

 鳥居前の階段を登ると、左側の親柱に昭和12年(1937)3月、右側に寄付者小原あきとある。石段工事の記録である。

(4)手水石(ちょうずいし)

 文化10年(1813)8月に寄進された。施主として石渡忠五郎・川名重左衛門の名が彫られている。

(5)鳥居

 花崗岩で造られた八幡鳥居。石造の額束(がくつか)が掲げられている。表に「八幡宮」とあり、裏には何を意味するか不明だが、下に波、上に首の長い鳥が彫られている(八幡神の神使(しんし)である鳩ではなさそう)。明治26年(1893)8月に建てられた。願主として小原金治・小原国太郎の名がある。

(6)沼珊瑚層(ぬまさんごそう)

 県指定の天然記念物「沼珊瑚層」に連なるサンゴの地層。池の中の島にサンゴの化石がみられる。ここは昭和40年4月21日に館山市天然記念物に指定された。海抜約18mにある。

(7)狛犬

 明治26年(1893)8月に地元願主4名によって奉納された。白浜の石工(いしく)宇山慶治と祖父宇山治兵衛によって製作され、精密な部分は千倉の彫刻師後藤義光の手になることが刻まれている。義光80歳の作。願主の名が左右の台座に同一人4名が刻まれているが、順序は異なっている。ア形の狛犬台座には「石渡忠兵衛・鈴木喜助・平嶋安蔵・小原桂助」とある。

(8)石橋

 かつて別当(べっとう)寺の応神山神宮寺があった跡地の鳥居を過ぎ、手水舎(ちょうずや)との中間に池を造り石橋を渡してある。最初の階段から次の階段までの間に石畳が敷かれている。(10)の手水舎や周りの植木等々の状況から、当時は立派な庭園があったと思われる。

 石橋の左側面に、「明治24年(1891)孟春 願主小原国太郎祖父小原藤助 小原金治祖父小原紋重郎」とある。孟春とは「春の初め、初春、陰暦正月の異称」である。

(9)日露戦役紀念碑

 豊房村の南条から日露戦役に出征した7名と、日清戦役のときに出征した2名の氏名が裏に彫られている。揮毫(きごう)は陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)である。明治39年(1906)、南条区によって建立された。

(10)手水石と手水舎(ちょうずや)

 明治20年代(年代は判読不能)に奉納された手水石で、正面に篆書(てんしょ)で「奉献」と浮彫りされ、裏面に願主の連名と長須賀の石工吉田亀吉の名が刻まれている。見所は、力士形の邪鬼(じゃき)が足を踏ん張り、手や肩で手水石の四方を支えている様子である。手水舎の正面桁鼻(けたはな)には、精密な木彫りの獅子と右妻側虹梁(こうりょう)の真中に立つ大瓶束(たいへいつか)の下部にある鬼面の木彫り「しかみ」は見事であるが作者は不明。手水舎の改修のときに、建築当初の木彫だけを取り付けた形跡がある。

(11)石段

 急な階段を登りつめると、左親柱に「石工□□勝蔵 □田七蔵 助合(すけごう)村」、右親柱に「願主 川名弥右衛門 小原紋十郎 文久三年(1863)亥年八月吉日」とある。明治になる5年前のこと。江戸時代は南条村・大戸村・作名村をあわせて一村とし、南条村と呼んでいた。助合村はその意味だろうか。

(12)石燈籠

 文化14年(1817)、大田和政右衛門、川名重左衛門、石渡忠兵衛が願主となって奉納した。後年破損したようで、火袋(ひぶくろ)と中台(ちゅうだい)の石は取り替えられている。明治になる51年前のもの。

(13)天水桶

 拝殿の雨水を貯める桶で、防火用水の役割を持つ。石造りの本体に願主が刻まれ、左の桶に「石渡みつ」、右の桶に「鈴木さだ・鈴木いせ」とある。年代・作者は不明。

【参考】

 昔の子守唄です。昭和の初め頃までは歌われていたそうで南条がむかし海村だったことを伝えているといいます。

ネンネガ、オモリハ、ドウコヘタ、ナンデウ、ナガタエ、トトカヒニ、ソノトトカフテ、ナニスルダ、ネンネニアゲヨトカフテキタ、ネンネコシナサエ、ネコナサエ

『安房志』より


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
川崎一・君塚滋堂・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館