手力雄神社

手力雄(たぢからお)神社の概要

 館山市大井字船田にあり、古来安東明神または神力山(みたきやま)明神として人々に尊崇されてきました。江戸時代には手力雄明神や大井明神と呼ばれ、明治初年に手力雄神社と改称されます。養老2年(718)、舎人(とねり)親王(天武天皇第五皇子)による創建と伝えられ、祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を主神とし、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、太田命(おおたのみこと)の三柱を祀っています。天手力雄命はあの天岩戸の神話に登場する神です。「素盞鳴尊(すさのおのみこと)が乱暴な振舞いをするので天照大神(あまてらすおおみかみ)は天岩屋(あまのいわや)におかくれになった。天下は闇の状態になり、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(天御中主神の子)は神々を集めて協議され、思兼神(おもいかねのかみ)の考えを容れて、榊に鏡や鈴、麻や木綿の帛(ぬさ)を掛け、天鈿女命(あめのうずめのみこと)に歌や踊りを舞わせたところ、大神は何が起きたかと岩戸を少し開けてご覧になった。そこで天手力雄神が岩戸を開き大神をお出しした」という神話です。そのため天手力雄神は大力の武勇の神として崇拝され、武士の間では信仰が厚く、源頼義・義家父子や源頼朝などが戦勝祈願に立ち寄ったと伝えています。また足利義満や里見義実・義豊なども社殿を造営したとされ、里見氏や徳川将軍からは朱印地43石3斗を賜りました。この地域は古くから開発された地で、周辺には多くの横穴墓が残っています。太古はこの辺まで海だったようで、麓の社務所西隣にある船田池(ふなだがいけ)の池底から寛永年間に丸木舟が発掘された記録があります。神社は神力山中腹にあって、現在の三間社流れ造りの本殿は宝永6年(1709)の竣工で県の指定文化財。幣殿(へいでん)(瓦葺)と拝殿(銅板葺)はいずれも神明造りで明和5年(1768)の竣工です。拝殿前の杉の大木は市指定の天然記念物。年中行事は9月14・15日の鶴谷八幡宮国司祭への出祭、10月9日の例大祭があり、かつては12月25~31日に御狩(みかり)神事が行われていました。

(1)両部鳥居(りょうぶとりい)

 けやき材で高さ約4mの朱塗りの両部鳥居で、神額に神力山(ミタキヤマ)とある。昔舎人(とねり)親王が朝夕神拝のたびに、この祭神を「見たきの神」と唱えたことから見度山(みたきやま)と呼んだのを、のち神力山に書き改めたという。鳥居の建立は寛政10年(1798)で、昭和63年に屋根(甍覆(いらかおおい))だけを残して改修された。

(2)石灯篭

 安永7年(1778)に隣村薗村の名主影山(景山)与左衛門が願主となって奉納した。当社の祭神天手力雄命は武勇の神としてだけでなく、農耕の神としても近隣の人々の信仰を集めていた。

(3)手水石(ちょうずいし)

 文政9年(1826)3月、白子村(南房総市白子)の佐藤八左衛門ほか16名が願主となって寄進している。世話人は白子の石井卯兵衛、石工(いしく)は江戸深川大工町霊岸前の霜崎長兵衛とある。

(4)狛犬(こまいぬ)

 太田太郎兵衛が願主となり、大井村の氏子たちを世話人として、明治16年(1883)に奉納された。太郎兵衛は(11)の記念再興碑を建てた太田重太郎の父で、当社と深い関係を持った家である。

(5)大杉

 拝殿前に聳え立つ大杉はご神木であり、注連縄(しめなわ)が張られている。市内最大のスギで、昭和47年(1972)に館山市の天然記念物に指定された。幹周4.64m、樹高28m、推定樹齢700年とされている。地元の伝承によれば、明和4年(1767)に幣殿・拝殿を造営するおり、2mほど根元が埋められたという。

(6)御即位記念樹

 拝殿前には三代の即位記念樹がある。向かって左は、大正5年(1916)3月に植樹された大正天皇即位記念の月桂樹で、現在は古株から育った孫生(ひこばえ)になっている。向かって右には、昭和4年(1929)3月に植樹された昭和天皇即位記念のヒマラヤスギと、平成3年(1991)3月植樹の今上天皇即位記念のナギ2樹がある。

(7)拝殿

 拝殿内正面左の額は病気平癒記念の額で、明治44年(1911)に地元の太田重太郎が病気平癒を感謝して奉納した。左部分に病の重太郎が産土神(うぶすながみ)に参詣して全治したことが書かれ、右側に古事記天岩戸の場面が彫物師後藤義信の手で彫刻されている。俳諧額は明治3年(1870)2月、小原村(館山市)の俳人山根路行が催主となり、田村菱湾・平島占魁・森岡木鵞など安房地方南部の代表的俳人の歳旦句を集めたもの。額縁には後藤義光の龍の彫物があり、北条村の絵師渡辺雲洋の梅の図が添えられている。

(8)本殿

 側面2間、正面3間の流れ造り。反りの大きい破風(はふ)、屋根は重厚な檜皮葺(ひわだぶき)、側面の羽目板(はめいた)は丹青(たんせい)で色彩してある。三方に匂欄(こうらん)を廻らし、脇障子(わきしょうじ)を立てる。舟肘木(ふなひじき)、三斗組(みつとぐみ)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)などの組物の間を江戸の彫物師による彫刻で飾り、幣殿(へいでん)と本殿を7段の木階(きざはし)で結んでいる。江戸時代中期の宝永6年(1709)に改修が施されているものの、豪華な装飾と躍動美を特徴とする桃山時代の様式をとどめる建造物として、昭和55年に県の有形文化財に指定された。

(9)石井氏(昌道)碑

 明治29年(1896)に手力雄神社の神主石井昌道(まさみち)が没したのを惜しみ、翌年功績を顕彰して建てられた碑である。昌道は幕末から明治期に活躍し、慶応4年(1868)の維新の混乱期に近隣の治安維持のため、独自の勤王隊として神主や医師などを中心とした房陽神風隊(ぼうようしんぷうたい)を結成した。碑文には、昌道が江戸昌平校で学んだ生い立ち、維新政府の東海道先鋒総督府への神風隊設立の願い、昌道が中風症で倒れたことなどが漢文で記されている。建碑発起人として九重村など12村96名の名が刻まれている。

(10)船田池(ふなだがいけ)

 社務所下にある船田池から、江戸初期の寛永年間に池を浚って三艘の丸木舟が発見されたと伝えられている。そのため御舟(みふね)池(神舟(みふね)池)とも呼ばれていた。天手力雄命が当国に来たときの丸木舟だというが、今に伝わらない。かつては広い池で水蓮の映える美しい景観であったが、真野大黒天への道路整備などによって池は縮小された。今は弁天祠とともに数本の桜が名残をとどめるだけである。

(11)大井大明神止止山鼻(どどやまのはな)大岩屋旧跡記念再興碑

 手力雄神社裏の止止山から西側に約50m伸びた尾根の麓に、昔岩屋があったといい、その場所に記念碑が建てられている。この記念碑を建てた太田家は、そのむかし手力雄神社の別当職円行寺(修験)であったと刻まれている。昭和24年、太田重太郎建立。

(12)神代古蹟保存再興碑

 皇紀2600年(昭和15年)記念事業として、手力雄神社の主祭神である天手力雄命の事跡を伝えるとともに、神代の古蹟保存の大切さを啓発するために建てられたものである。碑の場所は、天手力雄命が当国に初めて上陸し、滞留したと伝えられている九重地区安東の足掛塚(あしかけづか)(JA安房農協本店裏)と呼ばれる地である。


<作成:ふるさと講座受講生
青木悦子・井原茂幸・金久修・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・山井廣・吉野貞子>
監修 館山市立博物館