興禅寺の概要
南房総市富浦町原岡字金山(かねやま)にある臨済宗円覚寺派の寺院で、海恵山と号します。本尊は釈迦如来。鎌倉にある円覚寺の末寺です。里見氏の時代には義康・忠義から、原村(富浦町原岡)の内で56石5升の地を与えられ、また里見氏没落後は徳川家から58石5斗3升の地を安堵されました。寺伝では貞和元年(1345)の創建とされ、無窓国師を開山にしています。足利氏が寺領を与えて、小弓公方足利義明の息女智光院の菩提所にしたと伝えられています。この女性は鎌倉太平寺の住職だった青岳尼のことで、還俗して里見義弘の妻になり里見義頼を産んだとされる女性です。境内には延宝3年(1675)の百年忌供養塔がありますが、この年は荒廃していた当寺を円覚寺から来た拙翁碩松が再興したといわれる年で、孫弟子の無外碩珍のときになって本堂ができたそうです。その後明治38年(1905)に水谷孝岳和尚が本堂改築などの整備を手掛けました。本堂内正面には無窓国師が請来したという「普済(あまねくすくう)」の額が掛けられています。
(1) 六地蔵
山門手前の六地蔵は、川名・深名・地元金山の六軒の家で寄進している。昭和のはじめに刻まれている名前の人々の供養のために建てたという。川名の勤王屋が中心で、30歳代で区長をしていたときに千倉の彫り物師へ依頼に行ったのだそうで、作人として彫刻師後藤義孝の名が刻まれている。石工は鈴木益蔵とある。
(2) 三界万霊塔
山門の右側に寄せられた石材のなかにある。塔身だけでも高さ約1.6mとなかなか立派なもので、表面には「三界万霊等(塔のこと)」とあり、裏面は「昭和十二年(1937)丁丑年造立 寄付者八束村羽山武一郎 富浦町岡本亀之輔 石工生稲」の銘がある。昭和12年の国札観音ご開帳にあたり、檀家総代の寄贈によって建立されたものである。三界万霊は仏教のことばで、欲界・色界・無色界の三界に生きとし生けるすべての霊のことで、この塔に宿らせて供養をするためのものである。
(3) 山門
山門の屋根に掲げられている棟札には、「時に明治三十四年丑 正月吉日 現住九世 孝岳妙義」と書かれている。本堂が明治38年(1905)に改築されたのに先立って建てられたもので、この頃に寺域の整備が行われていたことがわかる。重厚な構えの四脚門である。彫刻が施されているが作者は不明。孝岳和尚は白馬にまたがり、遠方まで出向いて広く寄付を募り、改築の資金を調達したのだと言われている。
(4) 地蔵尊
当山開基の青岳尼にちなんで建立されたと伝えられていて、地元では「子育地蔵」と呼んでいる。台座の銘によると、「享保十二年(1727)夷則念四日(7月24日)」に建立され、その後120年を経た弘化4年(1847)に、時の住職第七世鳳山禅師によって修補されたようである。地蔵尊の高さは約1.4mで、六角形の台座には「宝篋印塔石写」という銘がある。
(5) 手水石
観音堂前と本堂前の二か所に手水石がある。本堂の手水石は孝岳塔の左手にあり、丸火鉢型をしている。正面「奉納」の文字の間に浅く家紋があり、左側面にある文字から「明治三十四年(1901)一月」に「上滝田 御子神友吉」が奉納したことがわかる。
観音堂前の手水石は横長で、正面の「水盤」は手洗い石であることを示している。右側面に「安政四丁巳年仲秋上浣日」、左側面に「前興禅鳳山置之」とあり、1857年の陰暦8月上旬に、興禅寺の前住職である七世鳳山が設置したことがわかる。
(6) 観音堂
安房国札三十四観音霊場の五番札所がこの堂である。十一面観世音菩薩が安置される厨子は宝暦3年(1753)のもので、現在の観音堂は弘化2年(1845)に建てられたものである。当時の住職の侍者だった玄泰が記した棟札によると、この観音堂は深名村の喜兵衛が本願人となり、南無谷村の彦右衛門・青木村の源兵衛等を大工棟梁に、地元の七兵衛が相棟梁となって手掛けている。堂内に掛かる額には「五番興禅寺 寺をみて今をさかりの興禅寺 庭の草木もさかりなる物」という観音札所の御詠歌が刻まれ、享保15年(1730)に長狭郡北小町村の佐生勘兵衛が寄進している。また岡本村小林利右衛門が寄進した和讃額もあり、「第五番 金山 山けきの色なるやまの観世音 はこぶあゆみのかげやうつれる」と詠われている。
(7) 孝岳塔(こうがくとう)
積み石の上に乗る石塔だけでも約1m60cmある、かなり大きな塔である。正面に「孝岳」、裏面に「大正十二年(1923)四月五日 富美夫 孝岳和尚徒弟」、左側面には孝岳和尚の肖像が刻まれている。本堂・山門の建て替えなどを行なった孝岳和尚の功績を、後世に伝えるために弟子が建立したものであろうか。歴代住職の墓地には九世孝岳和尚の墓がないので、これが墓石と思われる。また線香立ての右側面には「昭和十二年(1937)五月」、左側面に「光厳龍英」とある。隣接する光厳寺の龍英和尚のことで、宗派は違うが親戚付き合いをしていたという古老の話があり、孝岳没後に線香立てを寄進したのだろう。
(8) 青岳尼(しょうがくに)供養塔
墓地入口の崖を背にして建てられている。高さ約1.5m、唐破風型の笠が乗せられた石塔である。正面に興禅寺の開基である智光院殿洪嶽梵長大姉(青岳尼のこと)の法名と、命日として天正4年(1576)3月21日の日付が刻まれ、左右には延宝3年(1675)に住職拙翁が開基青岳尼の百年忌で造立したことが記されている。
青岳尼のこと
青岳尼は鎌倉尼五山筆頭の太平寺の住職であった。天文7年(1538)の国府台合戦(市川市)で討ち死にした小弓公方足利義明の娘である。遺児たちは里見義堯を頼って房州へ落ちた。そのなかに青岳尼がいたかどうかは不明だが、その後鎌倉で尼となった。関東足利家の女性の多くは太平寺をはじめとする格式の高い寺に入って生涯を終えるものであったが、青岳尼は還俗して里見義弘の妻になったと伝えられている。興禅寺の門前には、青岳尼と行動をともにした家臣たちの子孫と伝えられる家が数軒あるそうだ。
<作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・山口昌幸・和田喜三郎>
監修 館山市立博物館