杖珠院<白浜>

杖珠院(じょうじゅいん)の概要

 南房総市白浜町白浜字若宮横手にあり、三峰山杖珠院と称します。伊豆大仁(静岡県伊豆の国市)の洞宗蔵春院の末寺で、のちに延命寺の末寺となりました。本尊は延命地蔵菩薩です。文安元年(1444)に蔵春院から月舟宗白禅師を招いて開山とし、房総里見氏初代の里見義実(よしざね)を開基として創建されたと伝えられています。義実が寺領を与え、里見家の菩提寺として帰依をうけたといい、慶長年間には里見義康・忠義から、朝夷郡白浜村の内で20石の地を与えられました。正保元年(1644)に角岩麟芸禅師が伽藍を再建して中興開山となりますが、元禄16年(1703)の大地震による山津波で伽藍・宝物・記録の多くが埋没・流失してしまいます。しかし白浜里見一族の里見義徳が住職(十世越山超宗、別号楽水軒)になると里見義実の供養塔を建立し、以降歴代住職により伽藍の修繕が繰り返されて現在に至っています。本堂向拝にある龍の彫刻は後藤義光の門人で北条にいた後藤忠明の作品です。その上の鳳凰は畑の瑞龍院住職の作。本堂の中には前期里見氏の義実・成義・義通・義豊の4人の木像や、楽水軒が実家から持ってきたという里見記録などが整理されているので、拝観することが出来ます。前期里見氏の菩提寺です。

(1) 恩田城山(じょうざん)碑

 昭和8年(1933)7月に父仰岳の碑とともに建設された。城山は天保9年(1838)に駿河国田中(静岡県藤枝市)に生まれ、18歳のときに江戸へ留学して長沼流兵学とともに儒学を学んだ。23歳で藩校日知館の兵学師範となり、西洋流砲術や漢籍の教授も行なっている。明治元年(1868)に田中藩が長尾藩として安房へ転封すると白浜に居住した。明治6年の白浜小学校開校のとき教員となり22年間勤め、のち北条の私塾日知学舎でも漢学を講じている。50年余りを教育者として過ごし、内42年間は地元安房の教育に尽くした。碑の篆額は元藩主家の本多正復、撰文と書は当時安房の教育会を担っていた門人の広瀬の林信太郎と西長田の鈴木貞良である。

(2) 恩田仰岳(ぎょうがく)碑

 仰岳は文化6年(1809)に駿河国田中(藤枝市)に生まれ、田中藩の兵学者として西洋式兵制への改革を断行した。明治元年に安房へ転封すると白浜長尾の地に城を選定し、建設の指揮を執った。翌年の台風による陣屋倒壊で藩士は北条に移住するが、彼は白浜に残り、廃藩後は私塾を開いて漢学者として地元子弟の教育に携わっている。田中藩時代からの門人は千人余にのぼり、安房の文化を担う多くの人材が育成された。昭和のはじめに安房先賢偉人のひとりに選ばれている。碑の篆額は元藩主の本多正憲、撰文は漢学者で元藩の少参事石井頼水、書は元藩士で書家の小野成鵞である。

(3) 蹊道(けいどう)改造紀念碑

 山門前左側に高さ2mほどの駒型の石碑がある。大正天皇即位の御大典記念事業として、白浜名倉から館山市畑までの山あいの険しい道約一里が改修された。原・小戸・畑の区長らが相談して寄付金400円余りを集め、共同工事として2000人が山道を切り拓いて、道幅七尺の道路にした。大正4年(1915)秋に道が完成した記念に建てられ、恩田利用(恩田城山の長男で畑尋常小学校の教員)が文章を作っている。蹊道とは山間のこみちのこと。

(4) 葷酒塔(くんしゅとう)

 山門の右手に建つ「不許酒葷入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」の石碑。禅宗寺院では修行の妨げになるので、ニラ・ニンニクの類を食し、酒気を帯びて山門の中へ入ることを禁じている。側面に、杖珠院は上州寺尾(群馬県高崎市)の城主新田義重の十二代後胤にあたる里見義基の三男里見義実が創建した禅寺であることが刻まれている。天保13年(1842)に十六世超音和尚が建てたもの。

(5) 無縁塔

 山門を入って左手に並ぶ3基の塔のうちもっとも左にある。裏面の銘によって、無縁仏の供養のために昭和25年(1950)11月13日 に建てられたものとわかる。

(6) 再中興二十世塔

 中央の塔が、明治19年(1886)に本堂を再建した佛海祐道和尚の墓である。その年の6月に没した。右側面の銘によって明治22年(1889)4月に二十一世大寿和尚が建てたものとわかる。「北原千祥鐫(ほる)」の刻字がある。

(7) 聖観音像

 右側の観音像は、台座の銘文から当地佐野家の高照院慈眼大徳(法名)の寄進によるものであることがわかる。慈眼は幼時に父を失い、さらに病で失明したが、観音信仰に篤く、粉骨砕身して働き、生活にゆとりができると、霊感を得てこの石仏を建立した。寛政6年(1794)に死去したが、碑文は没後の同9年、十三世徹門和尚の撰文によって刻まれた。

(8) 義実供養塔を再建した十世楽水軒の父親の墓

 この寺に現存する系図その他の古文書類は、里見義実の供養塔を建てた十世住職楽水軒が実家に伝来していたものを持ってきたのだという。俗名を里見義徳といい、里見義通の兄義冨を先祖にする白浜の里見一族の出身。義実の供養塔前の階段を下りたところに楽水軒の父義久の墓がある。寛保2年(1742)没、86歳、大叟常仙居士という。近年、末寺の金慶寺墓地から移転したものである。

(9) 里見義実公墓所

 中央が里見義実の供養塔である。もとは本堂裏山の中腹にあったが、元禄16年(1703)の大地震のとき山津波によって喪失したと伝えられている。供養塔には義実の法名「杖珠院殿建室輿公大居士」、裏面に長享2年(1488)4月7日に72歳で没したこと、右側面に当寺十世住職の楽水軒が明和8年(1771)に建立したことが刻まれている。楽水軒は白浜に残された里見一族の出身で義実の子孫である。いちばん右には戦国時代の宝篋印塔が残されている。いちばん左の塔は石塔の形をなしていないが、一石の五輪塔が乗せられ、その下の石には義豊の法名「孝山長義居士」と犬掛の戦いで敗死した日付「天文三年(1534)四月六日」の文字が読める。

(10) 恩田仰岳墓

 里見義実墓所の左側高台に恩田家の墓所がある。「仰嶽先生永眠之室」という石塔と丸い塚状の墓が、明治24年(1891)1月28日に83歳で没した恩田仰岳の墓である。葬儀は神葬式で行なわれ、恩田豹隠藤原利器彦命とおくり名され、遺命により里見義実の墓の西に葬られた。なお同日に亡くなった奥方(田中氏つね)の葬儀は翌日に仏式で行なわれ、並んで石塔が建てられている。

(11) 恩田城山墓

 大正8年(1919)1月6日に白浜で没した。82歳。父より一段高い場所に葬られた。


<作成:ふるさと講座受講生
井原茂幸・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・吉野貞子・吉村威紀>
監修 館山市立博物館