小松寺<千倉>

小松寺の概要

 南房総市千倉町大貫にある古刹。奈良時代の養老2年(718)に役小角(えんのおずぬ)によって「巨松山(こまつさん9壇特寺」として創建されたとされています。その後延喜20年(920)に、安房守住吉朝臣(すみよしのあそん)小松民部正壽(まさとし)という人物により再建され、壇特山巨松寺と改めました。当初は天台宗に属して35世代続き、その後改宗され、現在は真言宗となってからの第48世の住職が継承しています。本尊の薬師如来は瀬戸浜で魚網にかかった海中出現のお像だといわれています。慶長2年(1597)に里見義康より寺領53石余、元和2年(1616)には徳川将軍家より12石余の寺領を拝領しました。小松寺には中世以前の仏像が多く、国指定の重要文化財「銅造十一面観音菩薩坐像」(鎌倉時代)、県指定有形文化財でご本尊の「木造薬師如来立像」(平安時代)のほか、不動明王立像・毘沙門天立像・お前立薬師如来立像・聖観音菩薩坐像(以上は平安時代)・役行者(えんのぎょうじゃ)半跏(はんか)像(鎌倉時代)などが安置されています。南北朝時代の梵鐘もあり県の指定文化財です。また「小松寺の森郷土環境保全地域」に指定され、モミ林・スダジイ林が取り囲んでいます。モミ林の生育地としては南関東で最も低い標高(40~60m)にある貴重な地域であるとともに、秋にはもみじの里として紅葉を楽しむ人々でにぎやかになります。

(1) 弘法大師千百年遠忌供養燈籠(とうろう)

 昭和12年(1937)2月、当寺46世鈴木隆照の時に、地元の檀家北ヶ谷出身で東京在住の加藤正司が建立した。北ヶ谷加藤家では当寺の住職を務めた人がいるという。設計は北ヶ谷の加藤三郎、石工は館山の俵徳次(房総を代表する石彫家俵光石の娘婿)である。

(2) 釘貫門(黒門)

 二本の柱に水平に貫を通した単純な形式の門。屋敷や墓地などの境界として用いた柵などに、通用口として設けられたもので、真言宗寺院に多い。

(3) 石段

 仁王門前の石段は、明治14年(1881)11月、当寺43世隆澄の時に大貫の檀家4名により寄進された。山荻(館山市)の石工が建設したと親柱にある。

(4) 手水石

 寛政12年(1800)3月、当寺40世盛雅のときに寄進された。願主は忽戸(こっと)村の高木善左衛門・堀江仁兵衛、江戸の加藤忠七郎、平舘(へだて)村の加藤藤兵衛・川下村の森田庄八の5名で、石工は平館村の長左衛門の名が刻まれている。

(5) 疎水紀功碑(そすいきこうひ)

 明治20年(1887)から2年がかりで、寺の横から惣作原までの千余間(約1800m)にわたり、大貫の人々が山裾の岩盤に人一人かやっと通れるほどのずい道(一部は堀)を掘り、瀬戸川の左岸にある八町余(約8㌶)の田を潤した。

(6) 日清戦役出征兵士の碑

 旧健田村大貫の人で、日清戦役のとき東京湾の富津海堡(かいほ)と三浦半島の走水砲台を守備した。退役後28才で病死。明治33年(1900)に建てられた。

(7) 石燈籠

 寛政3年(1791)、地元の若者中が寄進した。その後地震で倒れたためか火袋の部分は新しく、施主として佐藤市蔵・佐藤作治の名が彫られている。

(8) 仁王門

 現在の仁王門と仁王像は、江戸時代末期に川口村(千倉)の名主荒井与平治が寄進したもの。仁王像は平舘(へだて)村(千倉)の医師で俳句・絵画・彫刻に巧みな石井宇門が彫ったという。また、昭和55年(1980)11月に荒井家の子孫により塗り替えが奉納されている。その後昭和59年(1984)に住職鈴木隆照ほか檀家により、庫裏・観音堂・鐘楼と共に屋根の改修が行われた。

(9) 梵鐘(ぼんしょう)

 南北朝時代の応安7年(1374)の鋳造で、住職(別当)は越後僧都(そうず)経秀、浄財を集める勧進(かんじん)僧は沙門(しゃもん)大進権津師(ごんのりっし)貞憲。千代若丸のために高階(たかしな)家吉と正氏が大檀那となって寄進したとある。製作した鋳物師(いもじ)は山城権守宗光。昭和47年に千葉県有形文化財に指定された。鐘楼(しょうろう)の彫刻は国分の後藤義信。

(10) 本堂

 小松寺は数回の火災で古文書類がなく、本堂の建築時期は不明。ただ本堂正面の龍の彫刻に、安政2年(1855)11月吉日、相州(神奈川県)三浦郡浦賀の彫工・後藤忠蔵橘重武の銘があるので、150年以上前の建物と思われる。

(11) 光明真言供養塔

 嘉永6年(1853)8月に建立された光明真言供養塔。本願主は当寺42世信澄、上州(群馬県)生まれで下ノ堂にいた法念が補助で、大貫の村中が願主である。石工は館山町楠見の田原長左衛門。歴代住職の墓には信澄が嘉永5年没とあり、信澄没後に完成したことがわかる。

(12) 石造地蔵菩薩坐像

 先祖代々の万霊(ばんれい)を供養するために当寺43世隆澄が発願主となり、近隣の寺の住職による補助と朝夷郡を中心に多くの人々(中台に220名もの名前が彫られている)の寄進によって、明治14年(1881)に建立された。これも作者は館山の俵(田原)長左衛門である。

(13) 観音堂

 安房国札26番の札所で、聖観音菩薩像が安置されている。向拝(ごはい)の彫刻の銘は読めないが、明治時代初期の神仏分離令以後に、千倉町牧田の下立松原神社から移築された堂だと伝えられている。

(14) 歴代住職の墓

 天台宗・真言宗の住職が継承し、計83代の歴世となる。判読できる古いものでは、卵塔型の真言宗の26世覚圓<宝永5年(1708)>・37世日全<明和7年(1770)>、五輪塔型の42世信澄<嘉永5年(1852)>・地蔵菩薩を乗せる43世隆澄<明治30年>等の墓がある。

(15) 飯縄権現(いづなごんげん)

 遊歩道の頂上付近の石祠は「飯縄権現」が祀られているとのことだ。飯縄山(長野県)の山岳信仰が発祥で、修験者達が信仰していた。武田信玄や上杉謙信は軍神として信濃の飯縄権現を厚く保護していた。

(16) 乙王(おとおう)の墓

 寺の南々西にあたる市界尾根の音落(おとおつ)ヶ嶽(小松寺山)の山頂には、小松寺七不思議のひとつ「乙王滝」の主人公「乙王」の墓がある。塔は安藤幾右衛門を施主に、寛政3年(1791)5月に建立。「南無薬師如来乙王墓」と刻まれる。基礎石は中世の宝篋印塔の大型反花座である。

(17) 道標と巡礼道

 稲村城と白浜城間の古道上にある江戸時代の道標で、館山市側の西方に札所の杉本山観音院があることを教えている。小松寺からの安房国札観音の巡礼道を示すものである。南方の山中(林道脇)にも別の道標がある。こちらは明治34年(1901)に南朝夷の渡辺杢左衛門が建立したもので、観音札所の小松寺と住吉寺を案内している。往時の盛んな観音信仰を語る貴重な文化遺産といえる。

(18) やぐら群

 「やぐら」とは岩山を掘って横穴にした施設で、墓所を意味する鎌倉地方の方言だという。小松寺周辺には数基のやぐらが現存し、五輪塔を中に据えたものもみられる。周辺にも中世の宝篋印塔や五輪塔の石が点在し、大貫地域の重厚な歴史を伝えている。

小松寺の七不思議と埋蔵金伝説

 七不思議という伝説は各地にあるといわれているが、小松寺にも次の七不思議の伝説がある。<1.晴天の雨、2.土中の鐘、3.暗夜の読経、4.半葉のしきみ、5.天狗の飛びちがい、6.七色が淵、7.乙王が滝> :乙王は小松民部の子千代若丸に仕えた少年で、延喜21年(921)に寺院が落成して歌舞を奏したときに、千代若丸が怪物にさらわれ平久里郷で変死したことを嘆いて滝に身を投じたと伝えられている。

 ほかにも観音御塚(かんのんみづか)の埋蔵金伝説がある。これは里見家の埋蔵金ではないかとの話が伝わっている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
金久ひろみ・川崎一・君塚滋堂(しげたか)・鈴木以久枝・鈴木惠弘(よしひろ)・早川正司>
監修 館山市立博物館