子安(こやす)神社の概要
南房総市和田町海発(かいほつ)716
地元では子安様と呼ばれ、祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。創建は承久2年(1220)と伝えられます。明治12年(1879)に海発神社と改称しましたが、昭和41年(1966)に再び子安神社に戻しました。明治44年(1911)に村内の山神社(大山祇命(おおやまつみのみこと))と飯綱社(飯綱大神(いづなおおかみ))が合祀されています。境内にある多くの改修記念碑からは、明治・大正期に増改築が繰り返された様子がわかります。創建伝説では、鎌倉時代に安房国を襲った暴風が静まると、村の浜辺に流れ着いた小舟の中に七色の光さす二尺ほどの三体のご神像が乗っていたそうです。村人たちはそれぞれに社を造営して村の鎮守としました。海発の子安神社、岩糸の貴船神社、白子の三嶋神社です。ある時海発の子供たちがご神体を出した付近の川に流して遊んでいたので、村人は驚き急いでご神体を社殿に安置して鍵をかけました。その夜、ご神体が村人の夢枕に立つと「吾(われ)、幼童と共に川の流れに戯れるは、幼童の溺死を護らんためなり」とお告げになり、村人は恐れおののいてご神体を開帳するようになったそうです。安産・子育ての守護神として親しまれ、境内には子授かり石があります。この縁起は別当寺だった健福寺が所蔵しています。7月大祭で渡御(とぎょ)する神輿彫刻は後藤義光の門人後藤吉三郎橘義信の作。
(1)社号碑
1-1
国道128号線からの入口右側にある。書は大蔵大臣水田三喜男。地元建設会社が嗣子誕生と、海発神社から子安神社への名称復元記念として、昭和41年(1966)に建立した。
1-2
大正10年(1921)に安房北条駅から南三原駅まで鉄道が開通した記念に、1-1の碑の付近に建てられた。国道の拡張時に現在地へ移され、海発神社から子安神社に書き換えられた。
(2)常夜灯
常夜灯が奉納されたのは文化14年(1817)9月と文政5年(1822)9月。願主は(子安)講仲間の佐久間佐右衛門で世話人は氏子。江戸材木町の石工和泉屋与市の作である。同じ石工が2度に分けて作った常夜灯である。
(3)社殿改築鳥居建立寄付芳名碑
社殿改築は大正3年(1914)5月で、石鳥居は大正11年(1922)6月の竣工。境内にある3つの鳥居記念碑のうち最も古いもの。地元、近隣地区、地引網の網元、地元の会社、寺院、鉄道建設関係者など、多くの寄付を得て改築がなされている。
(4)拝殿寄付之碑
明治39年(1906)1月に建立された碑で、100口を超える地元の人たちの寄付により拝殿の改修がなされている。地元の子安講2組に加え、大工、左官、木挽、瓦屋、石工など拝殿の建築に関わった職人達の寄付も見られる。
(5)石垣寄付碑
明治33年(1900)に本社周囲の石垣の工事が行われた。その寄付記念碑が2か所にある。
本殿周囲の石垣にはめ込まれた石版には、願主池田重郎平が30余円を寄付し、運送に氏子中がかかわって石垣を奉納したことが記されている。
また石垣寄付碑には池田重良平を代表に、寄付者として宮司齋東清隆他76名、法人5件の名前と総寄付金額120余円が記されている。明治34年(1901)1月に建立。石工は小川の庄司直吉。
(6)社殿・笠木改修記念碑
昭和34年(1959)に寄付金額33万4千余円で、社殿をトタン葺きから瓦葺きへ改修。さらに社殿正面から伸びる道路にあった「笠木(かさぎ)」と呼んでいる木製の鳥居を建て替えた。この鳥居は、昭和49年(1974)から昭和52年(1977)にかけて実施された土地改良事業により道路が潰されたため、市道上に大鳥居として新築されている。
(7)狛犬
向かって左に子連れ獅子、右は手毬(てまり)獅子で、牡丹図の台座に乗る。明治23年(1890)の建立で、願主は佐久間忠兵衛。石工は小川の川上丑松。同時に建てられた天獅子寄付碑には、村内の健福寺・自性院や9件の地引綱元など150名の寄付者がいる。安馬谷・松田・中三原・岩糸・沼・白子の人たちの名もある。
(8)震災復興記念碑
8-1
関東大震災で大災害を受けた人々の不安を和らぐために、被災神社へ千葉県から震災復興補助金が助成された。安房郡内交付神社98社の中で当社は2番目の高額補助。2,372円。
8-2
秋田・福島両県から千葉県へ寄贈された震災復興寄付金5万円が、安房郡・君津郡・市原郡の各神社に配布されたもの。当社への震災社殿復興寄付金は807円70銭。
(9)伊勢参宮記念碑
・玉垣親柱
階段上の玉垣の親柱が大正元年(1912)の伊勢参宮記念碑になっている。左右の親柱には計19名の参宮者の名が刻まれている。
・天水桶
昭和7年(1932)に伊勢参宮記念として奉納された。桶の裏面左右に参宮者11名の名が刻まれている。
(10)本殿・向拝彫刻
現在の本殿は瓦葺き破風(はふ)造り、幣殿(へいでん)・拝殿は瓦葺き入母屋(いりもや)造り。大正3年(1914)に本殿・幣殿を増改築したが、大正12年(1923)の関東大震災で全壊。大正15年(1926)新築竣工した。
・向拝彫刻
向拝(ごはい)の龍・獅子・象・松に雉子(きじ)は初代後藤義光の作。天保年間(1830)頃と思われる。手挟(たばさみ)に宝暦8年(1758)、「立斎勝正道彫」の墨書が確認されている。
・賽銭箱
庄司和三郎(伊勢和金物店)が大正15年(1926)に奉納。大工眞田菊造の作。
・擬宝珠(ぎぼし)
明治36年(1903)正月、池田重郎平・遠藤清右衛門が奉納したもの。改築時に再利用された。
(11)石灯籠の竿
修祓所(しゅばつしょ)後方石垣の上の石塔は、上部が欠損しているが灯籠の竿である。奉納年の「九酉(とり)」は天明9年(1789)と考えられる。
(12)浅間社
南房総市和田町海発299-2
浅間社域の整備は、子安神社の氏子中で行っており、次の碑や石仏が祀られている。
12-1 浅間碑
石組みの台座上に「冨士浅間」と記されている。古老によると由緒は不明で講の活動や祭典が行われた記憶はないという。
12-2 金刀比羅社
施主遠藤清右衛門が中心となり、2軒の地引網元が建立した。市道横にあったが道路拡張により現在地に移築された。
12-3 愛子松の碑
明治10年(1877)に村の有志により建立された。「人や観よ 抱きいだかれ 千代常磐 親子二葉に 色かへぬ松」と刻まれ、春齋釣人という人が歌を作ったいきさつを書いている。かつては海岸近くの松林の端に、母が子を抱く形の松があったが、戦時中に松は伐られ、この碑だけが残り、後に浅間様へ移された。
12-4 大日如来坐像3体
いずれも欠損は著しいが、中央の蔵は天明6年(1786)のもの。海発村を中心とした講の建立で、他村の人も加わっている。出羽三山参拝記念に建立したものと考えられる。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・鈴木以久枝 平成30.11.14
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