沼蓮寺<和田>

赤坂山沼蓮寺(じゅうれんじ)の概要

(南房総市和田町沼763-1)

赤坂山沼蓮寺醫王殿(いおうでん)安楽院という真言宗智山派のお寺で、千倉町円蔵院の末寺。本尊は地蔵菩薩。延慶元年(1308)、真雅和尚の開山で、中興祐廣が寛正7年(1466)に寺の倒壊を憂い再建したと伝えられています。その後江戸時代に修復され、平成8年にも材料はそのままで再度修復しました。本堂には本尊の地蔵菩薩と脇侍の観音菩薩立像が安置され、ほかに弘法大師と興行大師が祀られています。欄間には明治5年(1872)奉納の「安房百八ヶ所地蔵尊巡り」第65番の扁額(初代後藤義光刻)や、文政10年(1827)「阿波国五番地蔵寺」(四国八十八か所弘法大師霊場)と大正4年(1915)「四国第四番槙尾寺」(西国三十三観音霊場)の御詠歌 の写しが掲げられています。境内にはだるま薬師で知られる薬師如来堂(醫王殿(いおうでん))があるほか、後藤系の彫刻で飾られた鐘楼や、住職である七浦庵(ななうらあん)三斎の句碑などがあります。また、宝永2年(1705)に住職宥寛が記した「沼蓮寺薬師如来縁起」が伝来しています。

(1)孝子渡辺仁右衛門碑

「安房孝子伝」によると、家が貧しく学業の機会に恵まれなかったが、両親には孝行を尽くし、亡き後も墓前に語りかけていた。耳にした領主の会津藩主松平肥後守は、安政3年(1856)に米5俵を与え賞した。この美徳を後世の鑑(かがみ)とするため、明治36年(1903)に南三原村沼区の有志が発起人となって建てた碑。

(2)薬師堂

だるま薬師の由来
昭和61年の寅年開帳に多数の参詣者が来山した際、開運の縁起物として薬師の分身であるダルマを授けた。”だるま”とは「仏教の教え」という意味である。毎年1月7・8日が大縁日だが、開帳は60年毎の丙寅(かのえとら)の年。

俳句額と御詠歌額
俳句奉納額は文字が判読できないが、25句あり、当地で奉納句会が盛んだったことがわかる。円形の御詠歌額は「あわれんで つねにわれらを すくはんと るりののりなみ かいくるぞなし」とあり、本寺円蔵院の住職だった鈴木明道(みょうどう)が、明治33年(1900)に書いたもの。

(3)鐘楼再建紀念碑

明治17年(1884)の台風により鐘楼が倒れ、10余年雨露に晒(さら)されていたが、第17世渡邉宥憲が檀徒に謀{はか}り、芳志者を募って明治28年(1895)に鐘楼堂を再建したとある。また、寄付者、石工、彫工(後藤義信)、左官、檀徒総代、区長など約180名の名前と地区名が記されている。文は智積院第44世の佐伯(さえき)隆基。

(4)七浦庵三斎の句碑

「満たるや 月には 山のよい程に」 天保12年(1841)に七浦庵三斎(当寺第14世道瑜)の三回忌に、俳句連の小戸連・沼連・岩糸連・丸作連・三原連が建立。三斎は朝夷郡川戸村(現南房総市千倉町)の出身で、俳句では川合村(同町)地蔵院第11世孝順良戒(俳号:昨露也草(さくろやそう))の門人。天保10年(1839)の没後、翌11年に俳句仲間の尾崎鳥周・石井平雄・井上宇明らにより、浜波太(なぶと)村(現鴨川市)山ノ堂にも句碑が建立されている。

(5)手水鉢(ちょうずばち)

昭和8年(1933)、小幡与一(屋号治左衛門)の母はまが先祖供養のため奉納。与一は同地区の八幡神社の鳥居も奉納している。小幡家は遡(さかのぼ)って明治4年(1871)に、清澄寺第13世法印宥性が安房国の地蔵尊を巡行した際、一宿の接待をしているという。

(6)鐘楼の梵鐘楼

鐘楼
宝永4年(1707)の鐘があったが、第二次世界大戦の際に供出したため、第20世芳忍の時、昭和61年に佐生幸高・洋子夫妻により奉納された。銘文に奉納の由来、般若心経と、梵鐘で著名な「高岡市 鋳物師(いもじ) 老子(おいご)次右衛門」の銘が記されている。

天井絵
明治28年(1895)の再建の際に檀徒から寄付された。24面の格天井(ごうてんじょう)には、花鳥の絵と寄付者の名前が描かれている。

彫刻
鐘楼四方の彫刻は明治28年再建時の奉納。奉納者は渡邉宥憲住職の筆弟子たちで、発起人のひとりは小幡与一。彫工は国分(館山市)の後藤義信。東面には龍、南面には牡丹、西面には松に鶴、北面には鷹に小鳥が刻まれ、木鼻は獅子である。

(7)光明真言百万遍塔

第17世宥憲が発願(はつがん)人となり建立された。左側面には石工「菊太郎」の銘があり、背面には、明治33年(1900)、雲酔道人の辞世の漢詩と「年を経て 業成す日より 残りけり みはかきりある うき世はかなし」との和歌がある。

(8)屋敷神祠(し)

屋敷神は道祖神や注連縄(しめなわ)等に囲まれた屋敷及びその土地を厳重に守護する神様で、敷地内や境界近くに祀られてた。農耕神、祖先神など、祭神を特定しない多様な神を祀(まつ)った。

(9)奉読誦(どくじゅ)法華経萬部余供養塔

安永9年(1780)に第12世日雅により建立された。追善祈願のため大勢の人々が一万部の法華経を読んだ供養塔である。沼蓮寺の隠居と現住職、周辺の真言宗宝樹院、浄土宗慶崇院、天台宗迎摂(こうしょう)寺、同慈眼(じげん)寺、同安楽寺など、異なる宗派の寺院や32名余りの名前が刻まれている。背面の「上達法身下及六道(じょうたつほっしんげきゅうりくどう)」は、仏様から地獄の亡者まで皆平等という意味である。

(10)陸軍歩兵上等兵 吉野清の墓

羅南(らなん)歩兵76聯隊(れんたい)に入営。昭和7年(1932)の錦州(きんしゅう)攻撃に参加し、錦西北鎮・大遼河・連山・興城等を転戦、砲弾の中を伝令中に被弾、頭部を貫通し戦死した。24歳。功績を認められ上等兵に特進、戦功により攻七級金鵄勲章(きんしくんしょう)・勲八等白色桐葉章(とうようしょう)を賜った。昭和12年建立。文は吉野森治、書は76聯隊長で陸軍少将の戸波辨次。

(11)権大僧都法印宥寛の墓

「沼蓮寺薬師如来縁起」を書いた当寺住職の宥寛が、この世のすべての人たちの幸せを願って様々な修行をしたことが刻まれている。あらゆる陀羅尼経(だらにきょう)(約一万六千巻)を読破し、さらに清水で洗い清めた土砂に護摩(ごま)を焚き、本尊の前で光明真言9800回余りを唱える土砂加持(どしゃかじ)や、六十華厳経全部の書写などの修行を行っている。享保18年(1733)没。63歳。肖像を刻む。

(12)大日如来坐像

頭部は破損し、のちに補修されている。正面に願主として下三原村5名、白渚村の5名の名が刻まれている。享和2年(1802)4月の建立。石工は小野平治右衛門。

(13)歴代住職の墓

判読できるものは、寛文11年(1671)遷化(せんげ)の法印源真の墓が古く、平成元年の第20世芳忍権大僧正までの歴代の墓がある。前列には(9)「法華経萬部余供養塔」を建立した法印日雅、(7)「光明真言百万遍塔」を奉納した法印宥憲、(4)の俳句を詠んだ法印道瑜の墓がある。後列には京都智積院の而率(仕率(しそつ))法印盛範、西京高雄山菩提院御所而率(しそつ)の法印日寛の墓がある。

(14)馬頭観音

文化10年(1813)建立。丸の珠師ヶ谷(しゅしがやつ)と和田浦との往環道に祀られていたものが、道路の整備により現在地へ移動した。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・中屋勝義 2017.4.17 作
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