天神社と神照寺の概要
天神社は南房総市平久里中(へぐりなか)にあり、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする。現在は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(浅間神社)、天照大日孁命(あまてらすおおひるめのみこと)(神明神社)、建御名方神(たけみなかたのかみ)(諏訪神社)を合せ祀(まつ)る。南北朝時代の文和(ぶんな)2年(1353)に室町幕府執事の細川相模守清氏が京都北野天神をこの地に勧請して平群(へぐり)9か村の鎮守とし、信仰を集めてきた。里見氏は慶長11年(1606)に高7石の地を与え、徳川家も同様に安堵した。天正14年(1586)に里見義頼は、岡本但馬守実元(さねもと)を大檀那として天神社の再築を命じている。さらに文化5年(1808)には、神照寺の別当(べっとう)宥弘により再建された。社宝として「平久里天神縁起絵巻」3巻がある。南北朝期から室町時代初期の作品は珍しく、県指定文化財。また、10月の祭礼には余興として打ち上げ花火がある。宝暦2年(1752)に下総国の新助が諸国巡礼の際に覚えた花火の秘法を教えたと云うもので、以後地元の人達の研修・研鑽の成果が打ち上げ花火となり、神社祭礼の夜空を彩る。戦争や戦後の法規制で中止をした事もあるが、昭和48年(1973)に花火保存会が発足して再開し、昭和52年(1977)に県の記録選択無形民俗文化財に選択された。拝殿の回廊には筒が展示されている。神照寺(しんしょうじ)は、天神社を別当寺として管理した修験(しゅげん)寺で、明治新政府の神仏分離令により修験の寺が廃されたため、現在は残された観音堂が泉竜寺の管理である。この観音堂は、天神社が勧請されたときに本地仏(ほんじぶつ)として十一面観音が祀られ、安房国札観音霊場34か所の第14番札所として参詣人を迎えている。
(1)夫婦くすの木
昭和39年(1964)指定の南房総市天然記念物で、約千年前に住民が植えたものと言い伝えられる。手前のものは幹周4.35m、樹高15m、神社寄りのものは幹周4.25m、樹高25m、両者を合せて「夫婦クスノキ」と呼ぶ。手前を「女木」、神社寄りを「男木」といい、御神木(ごしんぼく)となっている。天狗伝説がある。
(2)伊勢参拝記念銘板
参道右側の石垣に埋め込まれた昭和8年の伊勢参り記念の小さな銘板がある。伊勢神宮は外宮(げくう)の祭神が農業の守護神と崇められていたので昔から信仰も厚くこの参詣が無事成就できたことを記念したもの。社殿前の階段の上には明治29年(1896)の参拝記念に敷石を寄付した記念碑もある。
(3)狛犬
この狛犬は武田石翁(せきおう)作といわれている。弘化2年(1845)、神照寺の住職宥弘の時に氏子の寄進によって建立された。
(4)手水鉢
梅鉢(うめばち)紋を刻んだ手水鉢(ちょうずばち)は寛政2年(1790)のもの。願主は江戸湯島の上総屋吉田与兵衛と南八町堀の竹屋儀兵衛である。
(5)里謡の碑
「赤い布かけ さんまのひもの 平久里天神郷で釜こする」赤い襷(たすき)の若い女たちが祭の馳走を準備する様子で、秋刀魚(さんま)を焼き、飯炊きの釜を洗うという活気ある情景が謡われている。
(6)渡辺高俊先生の碑
明治38年(1905)平久里中に生まれた獣医師。昭和4年(1929)、同志と共に、農業の科学的技術の習得を目的に安房科学農業研究所を創設し、乳牛の繁殖障害の治療や妊否診断等の技術を研究。牛の直腸検査を酪農に不可欠な技術と確信し、繁殖生理学を学んで技術を習得、早期妊娠診断法を確立し、さらに「二本立て飼料給与法」を提唱した。平成6年没、89歳。平成17年に安房酪農青年研究会の山口仁らが賛同者を集め碑を建設した。
(7)加藤淳造先生碑
加藤淳造は、祖父加藤霞石(かせき)(幕末の漢詩人、書家)から三代続いた名家名医で知られる。淳造は千葉医学校の助教授となるも、立憲政治の創始に際して自由民権を主張し、板垣退助、大井憲太郎、新井省吾と共に関東自由党を創立、万人苦悩の病原を治すため国会議員となり民衆的政治家として活躍した。大正13年没、80歳。その功績を讃えた碑で、題字は立憲政友会総裁の田中義一、撰文と書は東京毎日新聞編集長の座間(ざま)止水(しすい)。大正15年建立。
(8)日露戦捷(せんしょう)記念碑
明治37-38年(1904-05)の日露戦争の戦勝を記念した平群村の記念碑。表面中央の「日露戰捷記念碑」は海軍大将東郷平八郎の書。裏面に平群村からの従軍者として、戦病死者・兵役免除者・戦役生存者・海軍給仕(きゅうじ)・日赤救護班の名が刻まれている。明治40年(1907)、平群村恤兵会(じゅつぺいかい)が建立。石工は吉田亀石
(9)神輿新調寄付碑
明治30年(1897)に神輿(みこし)が新調された際の記念碑である。吉沢区管設土木請負職今村正次が百円と永代お神酒料30円、平久里中区の樋田百藏が百円寄付している。なお、神池のほとりに、昭和48年10月に修理した際の記念碑があり、代表役員と責任役員の名や寄付者の名前・金額等が刻まれている。
(10)祈(いのる)征(せい)清軍(しんぐん)全捷(ぜんしょう)大祓詞(おおはらえのことば)三万遍紀念碑
日清戦争の勝利を願って祝詞(のりと)を三万回唱えた記念に建立された。平群村講社中が行ったもので、発起人12名と山田区・荒川区・平久里中区・平久里下区・吉沢区の賛助人の人数が記されている。明治28年(1895)の建立。
(11)石灯篭
正面に「奉納」、背面に奉納した嘉永5年(1852)5月の年号がある。願主は荒川村の坂田屋長兵衛である。
(12)天神社拝殿・本殿
拝殿(はいでん)と本殿の間に幣殿(へいでん)を設けた造りである。規模は、拝殿の平入正面7.4m、幣殿・本殿と続く奥行きは16.2m程の立派な社殿である。拝殿の屋根は入母屋(いりもや)で、蕪懸魚(かぶらけぎょ)や梅鉢(うめばち)のついた蟇股(かえるまた)が見られ、腰には切目縁(きりめえん)の回廊(かいろう)が回っている。本殿は一段高い位置に設けられ、周囲には擬宝珠(ぎぼし)高欄が回り、梅鉢(うめばち)意匠の脇障子(わきしょうじ)がある。屋根は切妻(きりづま)形式で、屋根破風(はふ)には大きな三ツ花懸魚(けぎょ)が飾られている。
(13)大乗妙典塔
紀元前後頃にインドに起った改革派の仏教である北伝仏教を大乗仏教といい、その経典である法華経8軸を書写して納めた塔。神照寺住職と思われる■隆によって慶応元年(1865)に建てられた。
(14)東京鎮台(ちんだい)(西南戦争忠魂碑)
明治10年(1877)の西南の役のとき、平群地区より東京鎮台に所属し、九州へ出兵して戦死した5名の忠魂碑である。鎮台は明治前期の陸軍の軍団で、明治4年(1871)には4鎮台あったが、明治6年の徴兵令(ちょうへいれい)施行後は東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台となった。この碑は明治14年に建てられた。
(15)小藤田善蔵之墓
明治30年(1897)、台湾の宜蘭(いーらん)において土着の匪賊(ひぞく)討伐の際に戦死した、台湾守備歩兵一等卒小藤田善蔵の墓。明治31年に建てられた。日清戦争の結果台湾で日本の植民地支配が始まり、この当時は武力抗日運動が続いていた。
(16)アイデアル号之碑
種牡牛(おうし)であるアイデアル号は、大正2年(1913)、オランダから嶺岡種畜場に輸入された名牛で、大正12年までの繁殖により550余頭を生産した。大正13年に老境に達した理由で平群村有志のもとに払下げとなり、大正14年老衰で斃(たお)れた。15才。房州乳牛改良の基礎を築き酪農業の将来をひらいた名牛を永く顕彰した記念碑である。
(17)光明真言供養塔
天保14年(1843)に神照寺の住職宥弘が、天下泰平・国土安穏と五穀成就・万民豊楽を願って立てたものが最大で、石工は平久里中村の金蔵。向いにも大日如来像を配した光明真言供養塔があり、安政3(1856)に光明真言を百万遍唱えた際のもの。その裏側にも寛政4年(1792)の自然石の光明真言供養塔がある。
(18)神照寺手水鉢
神照寺前に蓮の花をあしらった手水鉢(ちょうずばち)がある。元禄12年(1699)に平久里下村の原新左衛門が寄進したものと思われる。安房では誕生寺・館山神社に次ぐ古い手水鉢である。
(19)神照寺観音堂
神照寺は天神社と同じ境内地にあり、十一面観音を本尊とする観音堂一宇のみが残る。この堂は正面・奥行とも5.8mの規模ながら重厚な造りの堂である。屋根は銅版葺きの入母屋造りで、正面に唐破風(からはふ)造りの向拝(ごはい)を設けている。向拝の角柱上部には象や獅子を意匠した木鼻(きばな)がある。堂の周囲には切目縁の回廊が回り、屋根棟や向拝の唐破風には、真言宗智山派の桔梗(ききょう)紋が付けられている。
(20)伊予ヶ岳
標高336.6m。富山(とみさん)・御殿山と共に富山(とみやま)三山の一つで、南房総の名山である。山名の由来は阿波忌部(いんべ)氏のふるさとである四国の最高峰石鎚山(いしづちやま)(伊予の大岳)で、頂上の小平坦地に少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る石祠が安置されていた(現在不明)。県立自然公園の指定を受け、割れた岩峰からの眺望はすばらしい。頂上近くには、雨乞の清龍(せいりゅう)権現(ごんげん)が祀られ、今は原形を留めていないが中腹には頼朝ゆかりの鳩穴があった。
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御子神康夫・吉野貞子・鈴木以久枝・金久ひろみ・川崎 一>
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