正文寺<和田>

威武山(いぶさん)正文寺(しょうぶんじ)の概要

 南房総市和田町中三原にあり、日蓮宗大本山小湊誕生寺の末寺で、本尊は本堂の日蓮聖人奠定大曼荼羅(てんじょうだいまんだら)です。安元(あんげん)・治承(ちしょう)(1175~1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺でしたが、天正2年(1574)に勝浦城主であった正木頼忠(環斎(かんさい))が父正木時忠の菩提を弔うため、亡くなったこの三原の地に日蓮宗として再建したと伝えられます。誕生寺第13世の日威上人を請じて開山とし、時忠の法号(威武院殿正文日出居士)から威武山正文寺と称しました。正文寺第1世は日政上人です。開基頼忠の娘お万は徳川家康の側室であり、紀州徳川家の頼宣、水戸徳川家の頼房の生母として知られています。大正6年(1917)の雷火で祖師堂以外は焼失し、昭和8年(1933)に本堂が再建されました。堂内には開基正木頼忠像と正木一族の位牌、境内墓地や境内南方のお塚墓地には南房総市指定史跡が数多く残されています。

(1) 題目塔(だいもくとう)

 日蓮宗独特のひげ題目で「南無妙法蓮華経」とある。文政9年(1826)建立。正文寺の檀家で誕生寺とも関係が深い笹子利右衛門が本願主。題目講中・石工の名があり、正一丸八右衛門は石を運んだ船主であろう。

(2) 石垣・延石(のべいし)奉納塔

 文久元年(1861)9月に第21世住職日勤を本願主として、檀家総出で石垣と本堂までの延石工事をした記念塔。石工は小川邑(むら)の五左衛門。

(3) 仁王門

 宝暦5年(1755)、第14世住職日証の代に建立され、その時仁王尊が誕生寺から贈られた。小湊浦から舟で真浦(もうら)へ運び、そこから人が背負って風早を越え当寺に移したと伝えられる。頭部が大きく六頭身であることから室町期の作と見られている。安政年間に現在の門が再建された。

(4) 手水石

 祖師堂下の手水石は裏面に第21世住職日勤とある。安政年間に本堂と仁王門の再建改修をした人で、後に興津(勝浦市)妙覚寺住職となった。

(5) 十万部題目塔

 第20世住職日明と白渚(しらすか)・向畑(むかいばたけ)・小川の題目講中が、天保15年(1844)にお題目を10万回唱え写経し納めた記念塔。正面に「南無妙法蓮華経」の題目と「法界」の文字、側面には供養した人々の名が刻まれる。

(6) 日蓮大菩薩六百遠忌(おんき)塔

 白い紋がついた緋(ひ)の衣(ころも)を纏(まと)うことを許された第24世住職日選が、明治14年(1881)の日蓮600回遠忌を記念してお題目を千回唱え、「備 恩山一塵徳海一滴」の文字を刻んで建立した。白渚・向畑の講中と小川の信徒等の寄付による。石灯籠はこの翌年に寄進された。

(7) 浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)堂

 日蓮本尊曼荼羅(まんだら)にある煩悩(ぼんのう)の汚れを除く浄行菩薩を祀る。自分の患部と同じ所を洗うと浄行菩薩の功徳(くどく)によって痛みが治るという信仰がある。正月、盆、特に11月15日のお会式(えしき)には多くの参詣者がある。

(8) 角田沖堂寿蔵碑(つのだちゅうどうじゅぞうひ)

 沖堂は角田勘四郎といい中三原村の人。26年間名主を務めて篤く敬慕され、村人が明治20年(1887)に83歳の寿蔵碑を建立した。碑の裏面には「木に草に心置く夜の長さかな」の句がある。翌年没し、墓はお塚にある。孫の角田佳一は医学士で北条病院(館山市)を創立している。

(9) 祖師堂

 宗祖日蓮上人を祀る。正木環斎(かんさい)(頼忠)自刻と伝わる日蓮上人像、正木家累代の位牌、お万の方寄進の科註箱(かちゅうばこ)(高座の説教の時に教本・道具を入れておく箱)などがある。外陣(げじん)正面には明治21年(1888)、館山の川名楽翁によって描かれた絵馬「日蓮鎌倉帰着之図」が掲げられている。

(10) 歴代石塔建立記念碑

 第15世住職日好(幸)が、日蓮上人の500回遠忌に際して、天明3年(1783)にいぼ観音右脇に歴代住職の石塔11本を建立した記念の塔。日幸は日蓮宗の学問所飯高壇林(いいだかだんりん)(匝瑳(そうさ)市)の玄講(げんこう)(真理を講じる人)で、のち飯高壇林第181世になった。いぼ観音の脇に日幸の墓がある。

(11) 大檀那正木環斎の墓  市指定史跡

 正文寺中興開基といわれる大檀那(おおだんな)。時忠の子。父が里見氏に叛して北条氏と結んだ時、人質として小田原に送られた。のち上総勝浦に帰って家督を継承。子の為春(ためはる)が紀州藩徳川頼宣の家老となり、里見氏改易後に紀州へ赴いて元和8年(1622)没した。法号は了法院殿環斎日正居士。

(12) いぼ観音(石造十一面観音菩薩立像)

 頭部と胴部は同質の砂岩で、頭部は中世作の雰囲気をただよわせるが、胴部は風化が進んで明確な姿は不明。十一面観音と思われるが、頭部の化仏(けぶつ)が風化によっていぼのように見えるので、いぼ観音と呼ばれている。また耳が蛎殻(かきがら)のように見えるため、耳の悪い人が願をかけ、病が癒えると御礼に蛎殻を納める信仰が伝わっている。

(13) 中世の石塔群

 祖師堂裏の石窟にある多数の石塔の中に、中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔がある。その一部は近くのやぐらを整理した2001年頃に移動したもの。14世紀末の明徳年間の銘をもつものがある。

(14) やぐら・磨崖(まがい)阿弥陀三尊像

 やぐらは掘り込みが浅く風化しているが、奥の壁面に三体の仏像が浮き彫りにされ、一部に彩色が残されている。中世の阿弥陀三尊像とみられるが、仏像は大きく破損している。

(15) やぐら・磨崖(まがい)五輪塔  市指定史跡

 14世紀(鎌倉~南北朝期)に造られたと推定されるやぐらで、五輪塔の浮彫りが奥壁に1基、左側に2基、右側に1基ある。中世にこの地を支配した真田氏(三浦氏一族)の墓所との伝承がある。塔の地輪部分には龕(がん)があり、中に貝殻が詰まっている。

(16) 妙法稲荷(みょうほういなり)

 竹藪の中のやぐら跡にある石宮で、宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)を祀った妙法稲荷という。正文寺の守り神。仏教では荼枳尼天(だきにてん)を稲荷社とする。

(17) 角田江斎(ごうさい)の墓

 「河豚(ふぐ)しるや 生きても鶴の十分の一」の句が刻まれる。発起人は俳諧の弟子で正文寺住職の座間鸞山(らんざん)(日乂(にちがい))。久保椿山・里見一通、山口路米(ろべい)ら俳諧仲間を補助に建てられた。渡辺勘作といい、中三原村角田家の養子となり名主を継いだ。風流・俳諧を好み、沼蓮寺(じゅうれんじ)の七浦庵三斎に俳諧を師事した。明治26年(1893)没。73歳。

(18) 旗本正木家代々の墓 市指定史跡

 お塚の三浦家供養塔に並ぶ角柱碑が江戸正木家累代の墓。寛政元年(1789)に建立された。施主の正木左膳(さぜん)は、正木頼忠の子で旗本になった正木康長を先祖にもつ正木左近家第6代の左膳康満(やすみつ)のこと。

(19) 宝篋印塔・三浦道寸義同(よしあつ)の墓 市指定史跡

 三浦道寸(どうすん)は三浦半島を所領とした武士で、永正13年(1516)に北条早雲に攻められ自害した。その子時綱が房州に逃れて里見氏に仕え正木姓を名乗ったとされ、里見氏改易の後に紀州藩家老となった正木為春{ためはる}は三浦姓に戻したという。文化5年(1808年)に子孫の三浦長門守為積{ためづみ}が先祖の道寸を偲び家の歴史を側面に刻んで建立した。

(20) 宝篋印塔・正木時忠の墓 市指定史跡

 頼忠の父で、時綱の子。里見義堯に従って上総へ進出し勝浦城を居城とした。永禄7年(1564)の国府台合戦を前に北条氏の配下となる。碑では元亀2年(1571)没とあるが事実は天正4年(1576)没と判明している。三浦道寸の供養塔と同時期に建立されたものと思われる。

(21) 宝篋印塔・正木時通の墓 市指定史跡

 お塚墓地の奥にある中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。当初の石は基礎と笠の部分(14世紀)で、上に重なるもう一つの基礎は16世紀(室町後期)。塔身は後補で頂部に五輪塔の宝珠がのる。時通は頼忠の兄で勝浦城主。同市加茂の日運寺を開いた日運上人でもある。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・石井祐輔・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・中村祐・吉野貞子・吉村威紀(たけのり)>
監修 館山市立博物館