石彫師 武田石翁を訪ねて 1.(館山市編)

武田石翁とは

安永8年(1779)~安政5年(1858)8月4日 享年80歳

武田石翁(たけだせきおう)は安永8年(1779)に、安房国平郡本織(もとおり)村宇戸(現南房総市本織)に鎌田四郎左衛門金明の末子として生まれました。本名は小瀧周治(又は秀治)といい、安房国平郡元名(もとな)村(現鋸南町元名)に住んでいた石工です。鎌田氏の祖先は甲斐の武田一族と伝えられ、武田本織という人物が房州を訪れて本織の地を開き、その地を本織村、自分が居住する住所を武田と称したといわれています。鎌田家は代々名主を務める旧家でした。石翁は小瀧(おだき)家に養子に入った後も、「鎌田周治」と名乗り、後には「武田」の「石翁」と名乗るようになります。

周治は幼いころから手先が巧みで、7歳の頃には目が動き舌を出す天狗の面を作り、近所の人たちを驚かせたそうです。寛政3年(1791)、13歳の時に、元名村の石工小瀧勘蔵に弟子入りしました。寛政9年(1797)、19歳の頃には白浜村厳島神社に七福神を、その翌年には、遠く上州(群馬県)の榛名山で、瀧口の龍を彫刻しました。23歳の時、師匠の小瀧勘蔵の娘いちを妻とし、小瀧家の養子になりました。養子となってから初めての大製作は福楽寺の宝塔で、享和3年(1803)、石翁25歳の時でした。

石翁の作品が円熟味を増してくるのは40歳以降です。この頃から周治は石翁の号を用います。文政元年(1818)の正月7日、石翁は飛ぶ龍の夢を見て、龍を黒石に彫りました。この一角龍が長年良い作品を作ろうと苦心してきた石翁の会心の作品だったそうです。しかし、彫刻家として成功するほど家業の石屋がおろそかになり養父や妻とすれ違いました。文政3年(1820)、42歳の時には、長女げんの死をきっかけとして家庭がうまくいかなくなり、石翁は小瀧家から出ていき翌年まで戻りませんでした。50歳をすぎる頃から「石翁」の銘を刻む作品が多くなり、60歳を越えてからは秀逸な作品が多くなります。70歳から80歳の頃には広く名が知られるようになりました。天保11年(1840)、62歳の時、平郡米沢村白井の池田家の依頼によって作った2尺に余る立派な黒石の二角龍は、房州遊歴中の嶺田楓江(みねだふうこう)がたまたま目にしたところ感激して詩を作ったほどの出来栄えでした。嘉永6年(1853)には、会津藩主松平容保(かたもり)が海防のため房州へ訪れた時に池田家でこの龍を所望し、当主から献上されたと伝えられています。

石翁は40歳のころから学問を始め、篆書(てんしょ)、俳諧、琵琶、歌謡、生花、茶事に至るまで親しんでいました。号は是房、壽秀、天然齋、天然道人、鯉石、石翁などを称し、三河国西大平藩主・大岡忠愛(ただよし)、館山藩の留守居・高梨良右衛門などと親しくして、諸侯のところに出入りがあったようです。性質は頑健で寡黙であり、常に自己を磨く努力は怠らず利欲には淡白でしたが、芸術上の名誉心や自信は強かったようです。

(1)諏訪神社の狛犬

館山市船形833

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。境内4社、境外12社を擁する船形の鎮守。拝殿前に獅子や龍、象、馬の彫刻を施した架台に座り眼光鋭く精悍な顔立ちをした狛犬(座高約43cm)がある。狛犬に文字は刻まれていないが、神社に保管されている棟札に「奉納 安政二歳次乙卯(1855)七月二十六日吉祥 駒犬別願主 板屋助三郎 柴田平七 細工本石(名カ) 武田石翁」と書かれているとされ、武田石翁76歳の作品と分かる。7月26日は船形祭礼の初日。礎石を含め総高約178cm。

(2)西光寺の地蔵菩薩半跏(はんか)像

館山市正木1930

正木山西光寺は曹洞宗のお寺。本尊は十一面観音菩薩。山門を潜ってすぐ左に像高約46cmの地蔵半跏像がある。蛇紋岩を用い、敷茄子(しきなす)と蓮の反花(かえりばな)を刻んだ六角台座に座る。澄んだ表情で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持ち、左足を蓮華座に下(おろ)す半跏の姿。六角台座の正面に地蔵菩薩諷教(ふきょう)の一節を、右側面に「願主 鈴木勘左衛門、世話人 林兵衛、有檀無檀 施主面々」、左側面に「嘉永5年(1852)壬子十一月二十四日 当山十七世玄興代 七十四 石翁作」と刻まれている。総高約178cm。

(3)萱野の孝子塚(こうしづか)碑

館山市国分1241

高さ350cm余の伴直家主(とものあたいやかぬし)の顕彰碑。伴直家主は平安初期の承和3年(836)、朝廷より親孝行を表彰され位を授かり生涯税を免除された。石翁は、この孝子(こうし)の埋もれていた墓を探し出し顕彰しようと10年近く活動してこの地を見つけ、嘉永3年(1850)に完成させた。

篆額(てんがく)は日野大納言資愛(すけなる)、書は平久里の医師。書家の加藤霞石(かせき)、肖像画は日本画家の菊池容斎。碑は当初、長尾藩士の屋敷が並ぶ区画の近くにある共有基地の北隣に位置していたが、そこから東の「天王休所」という場所(現在地)へ移動した。移動の時期は不明だが、明治7年(1874)旧長尾藩士等が提唱して台石を造ったころと考えられる。大正3年(1914)には、千葉県名勝旧蹟保存規定によって基台が改築された。昭和61年(1986)、市の史跡に指定されている。

(4)国分寺の孝子家主の碑

館山市国分959-2

国分寺は真言宗のお寺で日色山国分寺という。本尊は薬師瑠璃光如来。国分寺薬師堂の右脇にある「孝子家主(こうしやかぬし)の碑」は、嘉永4年(1851)、石翁が家主の両親の墓碑として建てたもの。総高175.5cm。家主顕彰碑文とその下に父母の塚に拝礼する孝子の像が描かれている。画と刻字は石翁73歳の時のもので、篆額は日野資愛(すけなる)、書は江戸大護院の高僧道本憲壽。他に薬師堂内に父母の墓に拝礼する孝子を描いた額が飾られている。

伴直家主(とものあたいやかぬし)とは親の死後も墓前で孝行を続けた徳行が「孝子」に値するとして、承和3年(836)朝廷から表彰された安房の人で、国分村の出身とされる。石翁が同志の助成・資財を請い、碑を建てたという。

(5)三福寺 新井文山翁の碑

館山市館山1195

觀立山九品院三福寺(さんぷくじ)は浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀如来で文明3年(1471)に相蓮社順譽上人によって開山された。汐入川に面した山門を入ると、本堂から北側入口までの中程、墓地を背に東向きに新井文山(あらいぶんざん)の碑がある。嘉永6年(1853)、石翁76歳の時の制作。文山は館山藩の儒学者。昌平黌(しょうへいこう)で学び、28歳で帰郷後塾を開き地域の教育に貢献した。幼い頃父と死別し、母親孝行でも知られる。嘉永4年(1851)73歳で没した。石翁と文山は同年であり交流があった。高さ44cmの台石の上にある高さ250cmの碑は、文山新井翁墓と題字があり、その下に江戸の昌平黌教官の佐藤一斎の撰文、関淡海の書で文山の生涯が刻まれている。

(6)泉福寺の地蔵菩薩半跏像

館山市古茂口403

曹洞宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。参道中ほどの石仏のうち地蔵菩薩半跏像が石翁の作で、享和3年(1803)に建てられた。総高170.5cm。台座の上に牡丹の花を刻んだ中段の台座、その上の蓮華座に半跏座(はんかざ)の姿で祀られている。その中段の台座右側面に「本名邑(もとなむら) 石工周治 五左ヱ門」、左側面に4名の戒名が刻まれており、五左衛門が4名の供養のために建てたと思われる。石翁25歳の作で、福楽寺の宝塔と同時期に作られた。周治は本名で、「石翁」は40歳ごろから名乗った。

(7)福楽寺の宝塔

館山市山荻281

真言宗のお寺で、多聞山福楽寺という。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。この寺には光明真言の宝塔が一基あったが失われていたため、寛政10年(1798)から享和3年(1803)までおよそ6年をかけて光明真言を六億遍唱え、これを記念して宝塔を再建した。正面に「光明真言六億遍供養塔」、側面には願主6名、住持2名、背面には「本名村石工周治」の銘があり、この宝塔の再建の経緯と関係者の名が刻まれている。享和3年(1803)に建立されたもので、石翁25歳の作である。供養塔は寺の中央部にあり、地上からの総高は398cm。

(8)山荻神社近傍の「馬頭観音」

館山市山荻神社近傍

山荻(やまおぎ)神社近傍に地蔵尊を中心に馬頭観音が並ぶ。丸像2体、角柱3体。丸彫の馬頭観音像は、六角の台座に「享和二(1802)壬戌?(みずのえいぬのとし) 当村施主佐野八良右衛門」「本名村石工周治」と刻まれている。石翁24歳の作である。山荻神社の西側の裾から寺の裏を通って山の背を東に行く道がある。この山道は、かつて館山、豊房方面から千倉へ行く重要な街道の一つであった。この道の起点に幾つかの像が置いてあるのは、この道を通る人々の安全を祈願してのことなのだろう。総高89cm。


※これら武田石翁の作品は一般の方々が行けば直接見ることができますが、所有者のご迷惑にならないように見学してください。

作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
<青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木正・吉村威紀>
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