加知山神社<鋸南>

加知山(かちやま)神社の概要

(安房郡鋸南町勝山字日月319番地)

祭神は縦速須佐之男命(たてやはやすさのおみこと)。元来、当社は字(あざ)天王塚にあったが、元禄大地震(1703)による地盤沈下で海が近くなったため、享保7年(1722)に勝山村名主の2代目醍醐(だいご)新兵衛昭廣(あきひろ)が、自身の地所であった日月社のある現在地に遷座した。旧称は牛頭天王(ごずてんのう)で、慶応4年(1868)に八雲大神と改称。更に明治2年(1869)、加知山神社と改め、同年郷社に昇格した。社殿内には加知山神社・浮島神社・八幡神社の3社の御神体(神鏡)が祀られる。例祭は毎年7月に行われる。元来牛頭天王は仁浜(にはま)区の鎮守で、内宿(うちじゅく)区は弁財天、町(まち)区は日月社を鎮守としていた。

(1)社号碑

(1)社号碑

明治36年(1903)、漁業関係者によって建立された。碑は根府川(ねぶがわ)産の小松石を使用し、正面には「郷社加知山神社」「魚がし」と刻まれている。18名の地元発起人と東京在住者7名、日本橋魚問屋「尾虎」など魚河岸14軒が奉納している。「田町 石工 廣田源治」とあり、地元下佐久間の石工の作。「加知山魚商組合」が発起の中心であったことが土台に刻まれている。

(2)手水鉢

小松石を使用し、社号碑と同時期に奉納された。裏面には「発起人」や「石工」などの文字が確認できる。風化のためはっきりしない部分もあるが、50名余りの名前が刻まれ、石工は下佐久間田町の広田源治と考えられる。

(3)石灯籠

凝灰岩で造られた高さ2.7m程の灯籠。かなり風化が進み、セメントで部分補修されている。裏面に寄進者と思われる名があるが、「東京 蔵前 宝■■」と一部の文字がセメントで塗りつぶされ、奉納者名は特定できない。大正15年(1926)に奉納されている。

(4)水準点

(4)水準点

明治政府は測量の基準として、海水面からの高さを表す水準点を全国の主要道に設置した。この水準点は、国道沿いまで広がっていた当社境内の端に大正13年(1924)に設置されたが、畑地だったため戦後の農地開放で所有者が変わり、いったん境内前の日月道路端に移されたが、昭和50年(1975)頃、現在地に移転した。石柱には「水準點 三八七二號」の文字が刻まれ(3872は通し番号)、四方を保護石で囲う形を保っている。

(5)末社祠

浅間大神・照国大神・天神社・伊雑辺(いそべ)大社・琴平大社・風神・鎮火大神・御嶽大神・稲荷大神の九つの神が境内左手に末社として祀られている。末社は勝山村内各所に所在したものが、明治に至ってここに集められた。

(6)弁財天・古峰神社

(6)弁財天・古峰神社

本殿左奥、御影石造りの鳥居をくぐり登った山腹に、弁財天と古峰神社が祀られている。弁財天は内宿に所在したものを明治42年(1909)に遷座したと伝えられる。古峰神社も内宿の恵比寿山にあったものが遷座したが、遷座時期は不明。

(7)神輿蔵と屋台蔵

拝殿横の「仁浜(にはま)區神輿蔵」は、旧牛頭天王神社(現加知山神社)の神輿蔵。祭礼日には、元社地の仁浜青年館まで神輿を運び、そこで御霊入れをして町内を渡御する。似浜区が祭礼の年番の年は、海上の浮島宮へ舟渡りした御霊を木遣り歌で迎え、加知山神社へ還御する。

内宿区の神輿蔵は、昭和46年(1971)の建設。祭礼当日は恵比寿山の旧古峰神社下にある御仮屋で御霊入れを行い、町内を渡御する。内宿区が当番年の時だけ、浮島宮から還御する際に「くじら唄」が唄われる。

屋台蔵は加知山神社屋台で、戸数の多い町(まち)区の担当。引出しは参拝後に踊手と囃子(はやし)方、引手(ひきて)が揃って出発する。屋台はセリ出し舞台で、芸子さんの手踊りを披露しながら町内を巡幸する。

(8)華表(とりい)社務所建築記念碑

大正7年(1918)に鳥居と社務所を建築した際の記念碑、奉納金額1,920円、奉納者には漁業関係団体のほか、勝山藩士の子で東京で実業家となった池貝庄太郎がいる。社司・神社役員計16名と大工、石工の名もある。

(9)野呂道庵(のろどうあん)寿蔵碑

(9)野呂道庵(のろどうあん)寿蔵碑

道庵は幕末に勝山藩に召し抱えられた儒学者で、安房の近代教育に貢献をした人。江戸生まれで、近習格儒者として召し抱えられ、家塾「明善館」を開いて大名にも教授した。幕末に勝山に移住し、ここでも「明善塾」を開いて近隣の若者を指導。安房地方の政治、教育、実業などの分野で活躍する人材を輩出した。明治15年(1882)に門人たちが70歳の寿蔵碑を建設。篆額(てんがく)は岩倉具視(ともみ)、撰文は漢学者の川田甕江(おうこう)、書は金井之恭(ゆきやす)、刻字は江戸一番の碑銘彫刻師廣群鶴(こうぐんかく)である。7年後の明治22年(1889)に77歳で没した。

(10)日露戦争記念碑

(10)日露戦争記念碑

明治39年(1906)に勝山町奨兵義会が建立。正面には満州軍総司令官であった元帥(げんすい)候爵大山巌(いわお)の「日露戦争記念碑」の文字が刻まれる。裏面には明治37年(1904)、明治38年(1905)の日露戦役への、勝山町からの従軍者100名の名前と階級などが記されている。

(11)玉垣(たまがき)

社殿を囲む玉垣(石垣)が劣化したため、同じ場所に房州石で昭和54年(1979)に再建されたもの。玉垣の高さは145cm。勝山漁協のほか千倉の漁業関係者が寄付をしている。

(12)日月(にちがつ)神社

(12)日月(にちがつ)神社

寛政年間の神社書上帳には日月社とある。祭神は天照大神と月夜見命(つくよみのみこと)。神社敷地の大半は、勝山村名主で鯨組を取り仕切った醍醐家の所有地。境内の神明鳥居は、醍醐こう子が大正2年(1913)に寄付。手水鉢は昭和16年(1941)に、勝山町仁浜の松井平蔵と松井松次郎が奉納したもの。

(13)鯨塚(くじらづか)

(13)鯨塚(くじらづか)

拝殿裏から左手の山腹は鯨塚である。鯨塚は鯨を祀った塚のことで、日本独特の習わしである。捕鯨や座礁鯨の捕獲で、食料や資源とした事への感謝や追悼の意味で建てられた。石宮は鯨の供養と大漁祈願のために毎年1基ずつ建立され、その年の捕獲量で大きさに違いがあるという。

(14)社殿と彫刻

(14)社殿と彫刻

現社殿の建造時期は不明で、彫刻には銘がない。向拝(ごはい)の蟇股(かえるまた)は、頭を上に向け裏面に後ろ足が彫り込まれた龍と雲。木鼻(きばな)は獅子と象、海老虹梁(えびこうりょう)には若芽彫が施され、懸魚(げぎょ)には鷹・鶴・松と雲がある。作風から向拝蟇股の龍と木鼻の獅子・象は、江戸の後藤平七(寛政5年=1793年生)。その他は3代目後藤義光(明治19年=1886年生)と思われる。向拝の雲と海老虹梁・懸魚などは大正地震後再建時の彫刻で、江戸後期の作品が再利用されたと思われる。

(15)元社地

港に大きく張り出した岩山が天王塚で、牛頭天王社が祀られていた場所。(現在の仁浜青年館)。元禄地震で天王塚の地は2m程地盤が沈下し、参拝に支障を来たしたため、代官の名により日月神社境内に遷座した。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎 一・鈴木 正・
殿岡崇浩・中屋勝義 2017.11.08作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

妙本寺<鋸南>

中谷山妙本寺(みょうほんじ)の概要

妙本寺

(鋸南町吉浜453-1)

 鋸南町吉浜字中谷にあるこのお寺は中谷山妙本寺といいます。本尊は十界曼荼羅(まんだら)。日蓮宗富士門流の本山で、江戸時代には日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)27か寺をはじめ40か寺の末寺があったといいます。日郷上人が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮聖人誕生の地を慕って房州に下ると、房州保田の地頭(じとう)佐々宇左衛門尉(さそうさえもんのじょう)から寺地の寄進を受け、建武2年(1335)にここに開創したものです。吉浜は南北朝時代には当寺を中心とした海運の湊として繁栄しました。戦国時代に小田原北条氏と対立した頃には、里見氏に城砦として寺地を提供し、対北条氏との戦いにおいて最前線基地になっていたことが、里見氏の古文書などから明らかにされています。里見氏からは51石余の寺領を受け、その後徳川家からも50石余の寺領を与えられ保護されてきました。今の客殿は安政5年(1858)の火災で焼失した後、檀家・信者の協力により、元治元年(1864)に安房国の名匠・名工(宮大工伊丹喜内・地元檀家棟梁宇津木氏、彫刻の後藤義光、絵師川名楽山・渡辺雲洋・鈴木夏雲等)の手によって再建されたものです。また注目したいのは、室町時代初期のものとされる石造宝塔です。日郷上人の供養塔、あるいは地頭佐々宇左衛門尉夫妻の墓などの諸説がありますが、古さといい大きさといい、完全な形をしていることといい、未指定ながら県下では貴重な石造文化財です。

(1) 仏崎(ほとけざき)

(1) 仏崎(ほとけざき)

 古い絵図を見ると仏崎は妙本寺地先に突き出した岬だったが、元禄地震(1703)で水没し、現在は干潮時に岩礁として見られる程度である。この地震で鋸南地域の海岸は2m程沈下し、海岸近くの宅地や田畑が消失した。地震前の絵図では、仏崎には7基の石塔が描かれていて、墓地として利用されていたらしい。この石塔は元禄地震後の安永5年(1776)に陸揚げされ、万灯塚(まんとうづか)に移された。万灯塚は元禄の地震と津波で亡くなった吉浜の人々を弔ったところといわれている。

(2) 大門(おおもん)跡碑 

(2) 大門(おおもん)跡碑 

 昔ここに大門があり、その間から富士山が見えるように建てられていたという。その跡に建てられた碑。右柱には「大本山妙本寺大門」、左柱には「日蓮上人御霊跡地」と刻まれている。大正6年(1917)4月に奉納。施主は■ (かどじ) 鈴木治郎吉とある。鈴木治郎吉は妙本寺の檀家で、奉納された経緯は伝わっていないが、大正6年に鉄道が開通した折に、記念として奉納したのではないかと思われる。

(3) 吉浜小学校跡

(3) 吉浜小学校跡

 大門を入って左側に、昭和42年(1967)まで吉浜小学校があった。開校は明治7年(1874)で、同20年に跡地碑の立つ地に上校舎が新築された。それまでは客殿続きの学寮(がくりょう)が校舎に充てられていた。一時疎開児童の増加で塔頭(たっちゅう)の久円坊・山本坊・西の坊の一部も校舎として使われた。昭和25年、国道沿いに下校舎が完成。昭和42年に保田小学校と統合され、吉浜小学校の93年の永い歴史は幕を閉じた。卒業生総数1,808名。今は石碑と門柱だけが名残りをとどめている。

(4) 妙本寺踏切と吉浜隧道(よしはまずいどう)

(4) 妙本寺踏切と吉浜隧道(よしはまずいどう)

 安房郡への鉄道の線路延長は、木更津以南北条までの北条線が、明治45年(1912)に測量開始され、7年の歳月を経て、大正8年(1919)5月24日ついに全区間の開通をみた。浜金谷~安房勝山間の開通は大正6年8月1日のこと。この鉄道敷設により鉄道敷地になった山本坊は、今の山門の前の方に移された。妙本寺境内地は分断されたものの、境内には鉄路と延長131.770mの吉浜隧道が竣工したのである。

(5) 手水鉢(客殿前)

 天保6年(1831)、地元の吉浜村半六の母が奉納した手水鉢がある。

(6) 客殿

(6) 客殿

 妙本寺は天文年間より数々の兵火により堂宇の大半を焼失したという。現在の客殿は、元治元年(1864)第37世日勧上人の時、2人の棟梁伊丹喜内(南房総市本織の宮大工)と宇津木氏(鋸南町吉浜の檀家大工)が造営した。客殿を飾る向拝(ごはい)の龍・蟇股(かえるまた)の彫刻は後藤義光(南房総市千倉町の彫刻師)、邪鬼(じゃき)・獅子鼻(ししばな)等の彫刻は伊丹喜内の作。また天井画の孔雀は渡辺雲洋(館山市北条の絵師)の作といわれている。室内廊下の天井画は、雲洋作の笙(しょう)を吹く天女の舞を中心に、その左右に太鼓を打つ天女や横笛を吹く天女を配し、左右の隅に川名楽山(館山市沼の絵師)の鶴仙人・亀仙人が描かれている。外陣中央の天井画、龍の墨絵は鈴木夏雲(京都の絵師)の作。内陣の格天井にも花鳥風月の彩色画が描かれている。屋根の軒に葵の紋がはめられているが、寛永13年(1636)徳川家光より朱印を賜り、以来5年ごとに幕府へ登城参礼したことによるという。なお、鶴丸の紋は富士門流で使用する日蓮の紋である。

(7) 開基檀那笹生(さそう)氏(南家)由来碑

 建武2年(1335)、保田の地頭佐々宇左衛門尉義家(寺の開基大檀那)の寄進により妙本寺が開創された。その祖先は清和源氏又は近江源氏と伝えられる。義家が日郷上人に帰依し、自邸にあった法華堂(ほっけどう)を周囲の山林田畑と共に寄進してこの地に創建した。以来笹生氏嫡流は開基檀那として妙本寺の維持に務め、江戸期には吉浜村名主として当主は代々七郎兵衛を世襲し、笹生本家(通称みなみ)と呼ばれたとある。

(8) 手水鉢(本堂前)

 文政12年(1829)9月吉日、西浦賀の加渡屋久兵衛、同武兵衛と江戸大川岸の仲西六兵衛、地内喜右衛門、同傳助、御堂崎八百吉が、大六村の山崎屋紋七を世話人として奉納した。

(9) 忠魂碑

この忠魂碑は昭和30年(1955)9月に大六遺族会によって建立されたものである。表の書は当時の靖国神社の宮司筑波藤麻呂による。碑の裏には太平洋戦争で戦死した14名の名前が刻まれている。書は保田中学校長の金木洵。別に2名の戦没者の小さな碑がある。

(10) 石造宝塔(ほうとう)

(10) 石造宝塔(ほうとう)

 中世の石造宝塔2基が歴代住職の墓域下にあり、形は典型的な日蓮宗宝塔である。笹生家で管理しており、開基檀那の佐々宇左衛門尉夫妻の墓といわれる。高さはともに約2mで、14世紀終わりから15世紀初めの室町時代初期の様式を持つ。仏崎で海中に沈んだ後に海から引き上げられ、近くの万灯塚に安置後、現在地に移されたという。また、別の場所にあった開山日郷上人の供養塔との説もある。

(11) 歴代住職の墓

(11) 歴代住職の墓

 本堂右手最高所に歴代住職の墓がある。明治14年(1881)に建てられた日蓮聖人六百年遠忌供養塔を中央に、右側に元祖日蓮大聖人と三祖日目上人、左側に二祖日興上人(日蓮の弟子、六老僧の一人で富士門流の祖)と妙本寺開祖日郷上人の供養塔がある。その手前には右側に18基・左側に16基の歴代住職の墓が並び、その中には一段下の墓を含めて、日曜・日啓・日勧上人の筆子塚(ふでこづか)3基がみられる。筆子塚とは寺小屋教育を受けた弟子達が師匠のために立てた墓のことである。

(12) 本堂

(12) 本堂

 里見家と徳川家の保護により立派な本堂があったが、安政5年(1858)の火災で寺域の大半とともに焼失し、100年余り後の昭和35年(1960)に再建された。旧本堂の礎石が外周に残されているという。

(13) 妙本寺砦(とりで)

(13) 妙本寺砦(とりで)

 戦国時代の妙本寺は里見義通(よしみち)・実堯(さねたか)兄弟によって砦として使われて以来、戦略的、地理的に重要な場所であった。北条氏と里見氏で取り合いとなった所で、岸辺に突き出た山の上(内房線トンネルの上あたり)は太鼓打ち場と呼ばれている。後には沖に魚の大群が見えると漁師たちが太鼓をならしたという。ここには弥助稲荷伝説などもある。

(14) 万灯塚(まんとうづか)

 中央公民館前のカーブ山際の小高い場所のことで、元禄16年(1703)の大地震による犠牲者がまとめて葬られたという。その供養塔は国道拡張時に久円坊裏に移された。仏崎から安永5年(1776)に引き上げられた石塔も一部を残して境内に移されたという。 


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・吉野貞子・渡辺定夫>
監修 館山市立博物館