神戸地区佐野・藤原

太平洋に面した平砂浦砂丘の奥、小さく開けた谷にも古代から近世にかけて営まれた人々の生活の痕跡がある。太平洋と東京湾が分岐する場所 平砂浦の昔の姿を思い浮かべてみましょう。

佐野エリア

(1) 館山海軍砲術学校跡戦車橋

 房南中学校から奥が、昭和16年(1941)6月に開校した館山海軍砲術学校の跡地。陸戦での砲術実地訓練を必要とした海軍が、横須賀の海軍砲術学校から独立させたもので、砲術演習に適した広大な平砂浦に近い佐野の地が選ばれて開校した。陸戦科・対空科・化学兵器科があり、昭和20年7月の閉鎖まで6期にわたって「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練が行われた。入口にある橋は当時のもので、ここに学校の正門があり、この道の突き当りには館砲神社があった。戦後できた房南中学校の校舎は昭和44年まで砲術学校の兵舎が使われていた。

(2) 同校飛行特技訓練プール

 パラシュートの降下訓練用に使われたプール。高さ20mの飛び込み用の鉄塔が横にあったという。

(3) 同校釜場レンガ壁

 訓練生が食事をした「烹炊所(ほうすいじょ)の釜場」だった建物。つまり調理場のボイラー室。赤レンガの壁だけが残されている。

(4)  佐野洞穴出土人骨弔魂碑(ちょうこんひ)

 大正15年(1926)に建てられた弔魂碑。関東大震災で壊れた地区内の道を修理するため、補修用の石材を地区内の岩見堂跡の崖で掘っていたところ、古い時代の人骨10体分が出土した。人骨は研究のために当時の千葉医科大学に納められたが、地元ではその経緯を記録し人骨を弔うためにこの碑を建立した。岩見堂跡地は標高28mで海食洞穴があったと思われ、古墳時代の墳墓だったのではないかと考えられる。

(5) 熊野神社

 佐野地区の鎮守。境内に文化7年(1810)の灯篭がある。狛犬は昭和13年(1938)のものだが、陸軍近衛歩兵と海軍機関兵(20歳)として出征する2人の縁者の無事を祈願して奉納したもののようで、「神□□て願いは久し二十年」と刻んである。楠見の俵石工の作品。本殿の額は神道家で内務大書記官の桜井能監(のうかん)の書とある。社殿左の石宮は、天保2年(1831)に越後から来た行者量海が本願となり乙浜村の元宮太平らが奉納したもの。

(6) 千葉院(せんよういん)

 正式には金剛山千葉院という真言宗の寺院。安房国108か所地蔵巡りの第94番札所で、ご詠歌に「ちりつもる 池のみくづをおしわけて 心もひらく せんようの寺」とある。入口には安永3年(1774)・寛政12年・文化元年・天保3年・天保9年・明治12年(1879)の出羽三山碑および、行者蓮利(文化5年没)の日本廻国塔が並んでいる。万延元年(1860)に亡くなった住職成憲の墓は筆子中で建立したもので、成憲が寺子屋を開いて近隣の子弟(筆子)たちに読み書きを教えていたことが分かる。数か所ある墓地の入口には江戸中期の如意輪観音や享保19年(1734)の六地蔵、参道入口に安政2年(1855)の六地蔵があり、いずれも女人講によるもの。ほかに文化13年(1816)の手水石、安政2年の水向などもある。上段の無縁墓地には館山藩士夏目敬愛の墓(明治8年没)がある。本堂前の手水石は文化7年(1810)のもの。

(7) 平和祈念の塔

 開校50周年の平成3年(1991)6月に、館山海軍砲術学校跡地の一画にかつて学校があったことを示すために建てられた記念碑。碑は砲身をかたどっている。四一式山砲や20センチ・ロツ弾ほか硫黄島の遺品などが展示されている。多数掲げられた標識は戦地を示している。

◆ 佐野川のオオウナギ<市指定天然記念物>

 ニューギニア・インド洋・アフリカ南東部・オーストラリア・台湾・朝鮮などに分布する熱帯性のウナギで、体長2mにも達する。佐野川は水量が安定し、清浄なことから、オオウナギの生息地最北限かつ最東限とされる。大きなものでは昭和33年6月に、体長118cm、胴囲26.7cm、体重4.3kg、生後5年とされるオオウナギが採捕された。その後昭和36年に50cmと1m程度のウナギが最後の目撃となっている。

藤原エリア

 藤原の集落は、そのむかし運動公園に近い谷藤原の集落から、神社や寺がある丘陵端の現在地へ出てきたと伝えられている。

(8) 藤原神社

 藤原地区内の荒神社・山王宮(日枝神社)3社・山神2社を合祀した神社。毎年8月10日の例大祭では、伊勢神楽の流れをくむ獅子神楽が行われ集落を巡舞する。館山市無形民俗文化財。境内にある手水石は文政6年(1823)に氏子が奉納した。記念碑は平砂浦の開墾記念碑で、明治43年(1910)建立。平砂浦砂丘の飛び砂に悩まされ、砂と戦いながら田畑を維持してきたこの地域の人々の苦労を伝えている。江戸時代の絵図では、隣村佐野集落の谷の奥に砂山が描かれているほど。撰文は安房郡長太田資行、文と題字の書は神戸村長岡崎孝右衛門である。

(9) 藤栄寺

 藤林山藤栄寺といい、不動明王を本尊とする真言宗の寺院。本堂の観音像は安房郡札辰年観音の第22番札所で、ご詠歌は「老いの身に 苦しき沙の藤原や 遠き歩みも 後の世のため」。地蔵菩薩坐像は膝前で着衣を垂らす法衣垂下のスタイルで、室町時代末の作。安房国108か所地蔵巡りの第95番札所でもある。本堂向拝正面には、金剛宥性が安房国地蔵尊108か所を開いた明治5年(1872)に、地元の人々が奉納した額があり、ご詠歌は「めぐり来て 見ればたなびくむらさきの 雲にゆかりの 藤原の寺」とある。手水石は文化7年(1810)に奉納されたもの。石灯篭は嘉永2年(1849)の奉納で、楠見の石工田原長左衛門の作。

(10)  観音堂跡墓地

 天下泰平と村内安全を祈願する天保3年(1832)の供養塔があり、文化13年(1816)の光明真言塔も村内安全を祈願している。文化7年(1810)の馬頭観音もある。また両親菩提と子孫繁栄を祈願して光明真言と念仏を百万遍唱えた文政5年(1822)の供養塔が個人の墓地にある。

(11) 館山海軍砲術学校化学兵器実験施設

 平砂浦は砲術学校の演習地であったが、学校から離れたこの場所では化学兵器科による毒ガス戦の訓練が行われたといい、化学兵器科には理工科系の学生が多く配属されたという。残されているコンクリートの施設は化学兵器の実験施設とみられている。隣接して近年までガス講堂と呼ばれる赤レンガ建物があった。

(12) 平砂浦砂防林造成記念碑

 砲術学校演習地として砂丘に戻っていた平砂浦は、戦後、西岬・神戸両村が砂防林保護組合を結成して現在の姿の砂防林に造成した。県との協力で昭和24年(1949)から10年の歳月をかけて昭和33年に完成し、南房パラダイス前のフラワーラインに記念碑が建てられている。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

小塚大師

小塚大師とは(概要)

嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれているわけです。関東厄除三大師のひとつとして、毎月21日のお大師様の縁日には参詣者があり、特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。

(1)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印陀羅尼経という経文を納めた塔で、中国ではじまった。日本では平安時代末から供養塔・墓塔として建てられ、その後江戸時代になるとお寺の境内にも作られるようになった。ここの境内にある塔は、三十一世住職伝海を発起人に、地元の高木吉右衛門と近隣の村々の光明講が中心となって、文化14年(1817)に建てられた。石工は北条村新宿の加藤伊助・金助・伊兵衛である。

(2)手洗石(ちょうずいし)

 参拝者が手や口を清めるために水を湛えておくもの。文政10年(1827)に神余村の住吉屋徳兵衛を中心に、安房国内の51か村130人以上が協力して奉納した。石工は長須賀村の鈴木伊三郎で、正面に浮彫りされた二匹の獅子が見事である。

(3)佐野翁紀徳碑(さのおう、きとくひ)

 この石碑は明治34年11月、神戸村の人佐野吉左衛門の農業改良に対する多大な業績を記念して建てられたもので、安房郡農会長吉田謹爾・神戸村農会長岡崎孝右衛門が発起人である。吉左衛門は長年、開墾や植林・潅漑などに従事しながら、博覧会や共進会に参加し、農業技術の開発と普及につとめた。明治26年(1893)2月には緑綬褒章を授与されている。翌年、73歳で没した。

(4)石灯籠(いしどうろう)

 天保6年(1835)11月、布良を中心に近在の人々によって奉納された。正面に常夜灯とあり、夜間の歩行などの安全が目的である。

(5)阿加井(あかい)

 正式には閼伽井と書く。仏前に供える水を汲み取るための井戸で、むかし、弘法大師がその井戸に自分の姿を映して木像を彫ったという伝えがある。相浜の有力者石井嘉右衛門が井戸の整備をしている。

(6)出羽三山碑(でわさんざんひ)

 出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)を参拝した大作場(白浜町)・犬石村・南竜村(館山市)の人たちが、文政11年(1828)に建てた記念碑。日本には古くから山を聖地と考える山岳信仰があり、山形県にある出羽三山は山岳修行の場「七高山」のひとつに数えられている。碑には、この時の参拝者の名が刻まれている。

(7)福原家の墓

 福原家は松岡(現竜岡)の旧家で、幕末に医師有斎や漢学者有琳がでた。有琳の四男として生まれた福原有信は、江戸へ出て医学を学び、医薬分業を提唱して調剤薬局としての資生堂を創設した人である。また朝日生命を創始した実業家でもある。大正13年(1924)没。77歳。

(8)福原陵斎(りょうさい)の墓

 資生堂創始者の福原有信の長兄。天保9年(1838)に松岡村に生まれ、文久元年(1861)に江戸へ出て、織田研斎から医学を学ぶ。翌年、奈良奉行山岡備後守景恭に仕えたが、文久3年に奈良で病死した。26歳。碑銘は安房郡山本村(館山市)の医師高木芳斎によるもの。

(9)四国霊場八十八か所めぐり

 弘法大師の旧跡の地をめぐる四国八十八か所を模した小霊場めぐりは日本各地に点在している。ここ小塚大師では、三十四世の住職田村亮月の発案で、境内の裏山に八十八か所の霊場が移された。明治31年(1898)に近隣の村(布良・竜岡・大神宮など)の住人が中心となって、八十八個の石碑が建てられたのである。各石碑には福井県出身の絵師寺田?石によって弘法大師の姿が描かれ、また各石碑の施主は現在の館山市全域・富山町・白浜町・千倉町南部に、半径10kmの広域にわたって広がっている。ちなみに石工は竜岡の早川粂吉と真田栄治。ただし第33番の石碑は元館山藩士松下翠幹が描き、長須賀の吉田亀吉が刻んでいる。
 手ごろで気軽にお遍路ができるように工夫されたミニチュア巡礼施設である。

(10)雉子塚(きじづか)

 安永4年(1775)に、安房の俳人沂風が建てた松尾芭蕉の句碑。「父母の しきりにこひし 雉子の声」とあり、『笈の小文』などに見える句。裏面に江戸の俳諧師大島蓼太による銘がある。芭蕉の流れをくむ雪中庵三世で、芭蕉顕彰に熱心だった。この二年前は芭蕉の80回忌だったが、芭蕉復古の熱が全国的になっていた時期で、この時代に生きた与謝蕪村は芭蕉を尊崇し、復古運動の中心にいた。

小塚大師周辺の弘法大師の伝説

●小塚大師(神戸地区大神宮)

 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げた。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられている。この地に祀った像はもちろん小塚大師の本尊である。

●爪彫り地蔵(神戸地区竜岡)

 小塚大師のすぐ近くの竜岡に爪彫り地蔵(または岩屋地蔵)という崖面に彫られたお地蔵さんがある。これは弘法大師が爪で彫ったものだと伝えられている。

●巴川の塩井戸(豊房地区神余)

 老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。

●芋井戸(白浜町青木)

 老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。


作成:平成12年度実習生
監修:館山市立博物館

洲崎神社・養老寺

洲崎神社(すのさきじんじゃ)と養老寺(ようろうじ)の概要

洲崎神社は館山市洲崎字神官免(じんがんめん)にあります。東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。祭神は天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(アメノフトダマノミコト)の后神(きさきがみ)です。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れたときには当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したことは有名な話。中世には品川・神奈川など東京湾内の有力な港町にも祀られました。例祭は8月21日。中世には修験が7か寺あったといい、江戸時代には社務所の県道寄りに別当寺を務めた吉祥院があって、神社の社領5石を管理していました。

 養老寺は神社に隣接する真言宗寺院で、正式には妙法山観音寺といい、江戸時代まで洲崎神社の社僧を勤めていました。養老元年(717)に役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖として創建されたと伝えられ、本尊は洲崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩です。境内にある石窟と独鈷水(どっこすい)は役行者との関係を伝え、曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台としても知られています。また洲崎に多い頼朝伝説は当寺にも伝えられています。

(1)御神石

 浜に祀られている長さ2.5mの丸みを帯びた細長い石は付近の岩石と異なる。竜宮から洲崎大明神に奉納された二つの石のひとつとされ、もうひとつは三浦半島に飛んでいったという。それは浦賀の西にある安房口神社にあり、先端に円い窪みがあることから「阿形(あぎょう)」にたとえられ、洲崎の石が口を閉じたような裂け目があることから「吽形(うんぎょう)」となり、狛犬のように東京湾の入り口を守るように祀られている。

(2)社名碑

 「一宮洲崎大明神」とあるのは、二殿一社とされる式内社の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)神社が、洲崎神社を拝殿として一宮、洲宮神社を奥殿として二宮とされてきたことにより、別称「安房一宮」として尊崇されてきたことによると考えられている。碑は文政3年(1820)に吉祥院の別当(べっとう)賢秀が設置した。

(3)鳥居の大注連縄(おおしめなわ)

 高さ約15mの神明鳥居に、長さ13mの大注連縄(しめなわ)が掛けられている。当地では毎年1月8日の朝に神社へ集まり、神賀会(じんがかえ)という仲間で大鳥居に掛ける注連縄をつくる。その注連縄の中央につける木札には「久那戸大神(くなどおおかみ)」とある。巷(ちまた)に立って災禍を防ぎ庶民を守る道祖神であると伝えている。

(4)敬神風化の碑

 関東大震災(大正12年=1923)と昭和大津波(昭和11年=1936)の両度の大災害にも屈せず、地区民が一丸となって、洲崎神社と栄ノ浦(えいのうら)・間口(まぐち)2漁港の復旧に尽力したことの顕彰碑である。総高3.5mの粘板岩。題字は玄洋社社主頭山満(とおやまみつる)の筆、撰文と書は明治大学教授で伝説学者の藤沢衛彦(もりひこ)。昭和12年建立で、発起人10人と漁業組合員47人の名が刻まれている。

(5)石灯篭

 随身門(ずいしんもん)前に一対で置かれている。火袋(ひぶくろ)は日月型に開けられている。表面の剥落(はくらく)が著しいが、台座に寛政2年(1790)7月建立を示す文字が見える。

(6)厄祓坂(やくばらいざか)

 148段の急勾配の石段のこと。階段の中段と最上段の両脇にある2対のコンクリート柱は、御浜出する神輿が急勾配の石段を昇降する際に、神輿を支える危険防止の支柱である。坂の名は、急峻な石段を敬虔な気持ちでのぼり参詣することで、厄落としが出来るとして命名されたそうである。

(7)拝殿

 正面の扁額「安房国一宮洲崎大明神」は文化9年(1812)の奉納。房総の海岸警備の任にあった白河藩主松平定信の書である。拝殿内には潮の難所での航海安全を祈願して奉納された「潮のみち」の絵馬がある。

(8)本殿

 神社建築としては唐様三手先(からようみてさき)の組物を用いているのが珍しい。木鼻や欄間の彫刻も見事で、江戸初期の本蟇股(かえるまた)も見られる。延宝年間(1673~1680)の造営とされるが、その後の大規模改修がみられる。市指定文化財。

(9)稲荷神社

 祭神は宇迦之御霊命(うかのみたまのみこと)で、五穀豊穣の神とされている。鳥居の右手に勧請の由来を記した石碑があり、安永元年(1772)に伏見稲荷大社の分社として別当の吉祥院が請来したことがわかる。

(10)洲崎神社の自然林

 本殿裏の御手洗山(みたらしやま)には、スダジイ・ヤブニッケイ・タブノキ・ヒメユズリハなどの常緑樹が自然林を形成している。昭和47年に県の天然記念物に指定されている。

(11)一本すすき

 観音堂前の一群のススキのことである。源頼朝が洲崎神社へ参詣したおり、昼食時に箸(はし)の代用にしたススキを地に挿し、「わが武運が強ければここに根付けよ」というと、のち数茎に根付いたという伝承があり、土地の人は「一本すすき」と呼んでいる。

(12)森田三餘(さんよ)行徳(ゆきのり)の墓

 森田行徳(ゆきのり)は洲崎の人で、三餘(さんよ)はその号である。江戸末期から明治の初めにかけて自宅で寺子屋を開き、地域の子弟の教育に情熱を捧げた人。この墓は師匠の徳を偲んで、教え子たちが昔塾中として、明治28年(1895)に建立した。三餘の法名は楽誉水山仁寿居士。

(13)筆塚句碑

 「菅(すげ)の間の 蝶や二葉を 植し棕櫚(しゅろ)」とある。作者「素水」は洲崎の渡辺家に生まれ、館山の医師鈴木正立家を継いだ人。文政5年(1822)に筆塚として建立した。

(14)独鈷水(どっこすい)

 観音堂の左裏手の山すそに、役行者の霊力で湧いたという独鈷水という湧水があり、旱天(かんてん)にも涸れることがないといわれている。

(15)手水石

 上面がひょうたん型に刳(く)りぬかれている。施主は「吉郎兵衛・清五郎・九蔵・堅秀」とあり、安永7年(1778)4月の奉納。

(16)観音堂

 鬱蒼とした樹林を背に屋根に金色の宝珠が輝き、下見部分が朱塗りの観音堂。本尊の十一面観音は安房国札観音の三十番札所で、ご詠歌は「観音へ のぼって沖をながむれば 上り下りの 船ぞ見えける」。向拝に後藤義光の師後藤三四郎恒俊の彫刻が施されている。

(17)子育て地蔵

 右手に幼い子を抱き、左手に宝珠を捧げ持つ半跏(はんか)地蔵尊。台座に願主・世話人各2人の名があり、寛政9年(1797)の建立とある。この「子育て地蔵」が「子育保育園」の名前の由来である。

(18)光明真言(こうみょうしんごん)百万遍塔

 光明真言は真言密教の呪文で、これを何万回も唱えると一切の罪業(ざいごう)が消滅するという。この塔は文化8年(1811)に近間孝治が百万遍を達成した記念のもので、裏面に「観音の きせい(祈誓)をここに立置て なむ阿弥陀へと 廻るすす玉(じゅずだま)」という歌がある。

(19)役行者(えんのぎょうじゃ)の岩屋

 境内の岩肌に掘られた岩窟に役行者の石像が祀られている。奈良時代の人で修験道の開祖。妖術で人を惑わすとして伊豆大島に流罪になった。社伝では、養老元年(717)に大地変がおき境内の鐘ヶ池が埋まって鐘を守っていた大蛇が災いをおこしたとき、祈祷をして大蛇を退治したのが役行者だとしている。海上歩行や空中歩行の神通力を持つことから足の守護神され、岩屋の前には多くの履物が奉納されている。八犬伝では、役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝悌の八字が浮かぶ数珠を授けるという場面に登場する。

洲崎踊り

 8月21・22日の例大祭に奉納される踊りで、弥勒(みろく)踊りと鹿島踊りからなる。前者は左手に榊と幣束をつけたオンベ(御幣)と呼ばれる棒、右手には日の丸の扇をもち、太鼓や唄にあわせて踊るもの。後者は扇だけで踊る伝統芸能で、豊作豊漁・悪霊退散を祈願して行われる。昭和36年(1961)に県の無形民俗文化財に指定され、昭和48年には文化庁の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選定されている。


 <作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
石井道子・井原茂幸・岡田喜代太郎・加藤七午三・中屋勝義>
監修 館山市立博物館 

なたぎり

なたぎり神社とは

 なたぎり神社はふたつある。山側(南)の浜田区にあるのを船越鉈切(ふなこしなたぎり)神社、海側(北)の見物 区にあるのを海南刀切(かいなんなたぎり)神社という。船越鉈切神社の本殿は洞穴の中に建てられ、海神の御子・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀る。海南刀切神社の本殿は、高さ約10mの真っ二つに分かれている異様な形の巨岩の前に建てられている。この巨岩が二つに割れていることについては、対岸相模から来た神による大蛇退治の伝説などが伝えられている。 両社は鉈切大明神の上之宮と下之宮として一社一神とみなされ、互いに分かちがたく、海の神・海上安全の守護神として船乗りたちに崇敬されてきたようである。例祭は両社ともに毎年7月14日・15日に執り行われる。

海南刀切(かいなんなたぎり)神社

(1)石灯篭(いしどうろう)

 長須賀村の石工鈴木伊三郎が、天保7年(1836)に彫ったもので、見物村の氏子が奉納した。

(2)日露戦争記念碑

 西岬村から日露戦争に出征した人たちの名を刻んだ記念碑で、元帥大山巌の揮毫文字。陸軍118名、海軍16名の名がある。関東大震災で倒れて大正15年に建て直したが、昭和7年の暴風雨で再度倒れ、昭和10年に在郷軍人会と国防婦人会の西岬分会が再建している。

(3)力石(ちからいし)

 その昔、見物村の屈強の若者達がこれを持ち上げて力くらべをし、諸願成就を祈願して当社に奉納したもの。船越鉈切神社入口にも3つある。

(4)手水石(ちょうずいし)

 神に参拝する前に口や手を清めるための手水舎がある。流水を満たした水盤は文化9年(1812)に奉納されたものである。

(5)狛犬(こまいぬ)

 天保10年(1839)、楠見村(館山市館山)の石工田原長左衛門が江戸京橋の彫工兼吉とともに彫ったもので、神社の魔よけとして見物村若者たちが奉納。台座には左の狛犬に白虎と朱雀、右の狛犬に青龍と玄武の四神も彫られている。

(6)拝殿(はいでん)

 礼拝するための拝殿の周囲には、たくさんの彫刻がほどこされている。竜や獅子のほかに、天岩戸開きの図やヤマタノオロチ退治の図、孝子の図などもある。作者は北条村の後藤忠明一派で、明治16年頃のもの。

船越鉈切(ふなこしなたぎり)神社

(1)石灯篭(いしどうろう)

 常夜灯として参道入り口の両側に1対で奉納されている。文化10年(1813)霜月吉日に、浜田村の江川与七らが願主として中心になり、館山湾岸から太平洋岸の北朝夷(千倉町)に至る50以上の海付の村々と漁師たちの寄進によって建てられた。石工は北条の加藤伊助。

(2)鎌田万次郎君之碑

 明治33年(1900)の義和団事件(北清事変)で北京に出兵し戦死した、西岬村坂田出身の鎌田万次郎の記念碑。海軍二等水兵。享年23歳。碑は伯爵万里小路通房の篆額、安房郡長江口英房の撰文。書は元長尾藩士で書家の熊沢直見。明治34年に建てられた。

(3)やぐら

 鎌倉や房総半島で、鎌倉時代中期から室町時代にかけて数多くつくられた武士階級の墓である「やぐら」がふたつ並んでいる。一方には宝塔の形が浮き彫りにされていて、地元では長者夫婦の墓と伝えられている。

(4)手水石(ちょうずいし) 

 安政2年(1855)に、名主竜崎善兵衛らを世話人にして、地元の若者たちにより納められた。

(5)石灯篭(いしどうろう)

 元禄6年(1693)に、浜田村領主の旗本石川八兵衛尉政往が奉納したもの。1対の片方だけが残されているが、火袋がなくなっている。

(6)鉈切洞穴(なたぎりどうけつ)

 およそ2万年前に自然の営みでつくられた海食洞穴。館山湾に面した標高約25mの海岸段丘にあり、洞穴の入口は高さ(最高所で)4.2m、幅5.85m、奥行36.8mと大きい。縄文時代に洞穴住居として使用されていたことが発掘調査でわかっている。古墳時代には一部が墓所として利用されていた。その後は海神を祀る神社として地元漁民の信仰をあつめ、現在に至る。県指定史跡。

その他の文化財

★ 独木舟(まるきぶね)

  館山市指定文化財。この舟が当社に奉納されていることは、すでに水 戸徳川光圀の大日本史に記載され、明治27年に歴史家の岡部精一が調査したのをかわきりに、西村真次・松本信広ら戦前の研究者も調査しており有名である。しかし出土品でないため年代の断定がむずかしく、由来についても古来より諸説紛々である。長さ219cm。

★ 鰐口(わにぐち)

 館山市指定文化財。刻まれた銘文から、元禄10年(1697)に紀州栖原の鯛網漁師で房総に出漁していた芦内佐平次らによって寄進されたことがわかる。作者は江戸神田鍛冶町の鋳物師中村喜兵衛。

★ かっこ舞

 館山市指定文化財。毎年7月14日・15日の例祭の日に両神社で奉納される獅子舞で、雨乞いのための儀式とされている。ちなみに見物の獅子頭は赤で、浜田の獅子頭は黒。


平成15年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館

洲宮・茂名

古くからの特色ある神事が現在も伝承されている洲宮と茂名。路傍の石宮や石仏など、地域の人々に信仰されてきたさまざまな神仏にも目を向けながら田園風景を歩いてみましょう。

洲宮(すのみや)

(1)洲宮神社

洲宮の鎮守。安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)である天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀る神社。元日の朝にその年の豊作を願って行われる御田植(みたうえ)神事は、市の無形民俗文化財に指定されている。拝殿向かって左の社は子安神社で、手水鉢(ちょうずばち)は文化元年(1804)に洲宮村の友野吉助が奉納したもの。本殿の脇には3基の石宮が祀られており、中央と右端の石宮は旧社地である魚尾山(とおやま)から移動させたもの。左端の小さな石宮は、山の上に祀ってあったものを移動させた「山の神」。境内には2つの力石があり、大きい方には「四拾五貫目」(約169kg)とあり、「当所若者中」が奉納したことが刻まれている。

(2)薬王院

洲宮神社の隣にある真言宗のお寺で、大明山薬王院という。縁起には、洲宮神社の祭神天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)の子孫で神主家の人物が僧となり、永正元年(1504)に薬師如来像を彫刻して庵を結んだのが当寺の始まりと記されている。石段の左に馬頭観音3基が祀られており、中央は天保10年(1839)9月、右端は明治12年(1879)に建立されている。境内にある手水鉢は慶応2年(1866)7月に洲宮村の人びとによって奉納されたもので、願主である川口清右衛門・渡辺六良右衛門のほか施主19名の名が刻まれている。3基並んだ僧侶の墓のうち右端は薬王院中興2世の隆中という僧のもの。刻まれた履歴によれば隆中は竹原村須田氏の出身で、字(あざな)を英浄といった。16歳で仏門に入り、京都の智積院(ちしゃくいん)で修業した後、24歳で地元に戻った。高井の善浄寺の僧となった後、当寺に移ったが、病を患い亡くなったという。墓は明治27年(1894)の建立で、隆中が読んだ漢詩が刻まれている。

(3)不動堂と墓地

墓地の傍らに建つお堂で、不動明王像と両脇侍(わきじ)が祀られている。江戸時代に薬王院の東側にあった不動堂を移転させたものか。以前は茅葺きのお堂で中に土間があったが、平成16年(2004)に建て替えた。不動明王像は明治33年(1900)に修理されており、黒塗りの厨子はそのときに渡辺太右衛門が自ら製作し奉納したもの。渡辺太右衛門は洲宮村の宮大工で、藤原義重とも名乗った。不動堂の脇に置かれた手水鉢は慶応2年(1866)に「当村中」(洲宮村の人びと)が奉納したもの。墓地には、大工渡辺太右衛門が明治24年(1891)に自ら建てた墓があり、履歴が刻まれている。棟梁として多くの弟子を抱え、社寺や民家の建築を行い、彫刻の技も優れていたという。墓に刻まれた肖像画は、沼出身で館山藩に仕え、明治以降は安房神社の神官になった絵師の川名楽山が描いている。墓地の入り口には、江戸池之端の直心法師(俗名吉兵衛)の姿を刻んだ天明8年(1788)の石像がある。

(4)魚尾山(とおやま)

「どうやま」とも呼ばれる。洲宮神社はかつてこの山の上に鎮座しており、鎌倉時代の文永10年(1273)の火災で焼失した後に現在地へ移転したと伝わる。魚尾山の袋畑遺跡からは古墳時代の土製模造品が出土しており、祭祀の場であったことが分かる。

(5)子守り地蔵

民家の前にあるお地蔵様。昔、お婆さんが子供を連れてよくお参りに来ていたとの話が伝わっており、子守り地蔵と呼ばれている。

(6)浅間様(せんげんさま)

山の上に石宮が置かれており、浅間様と呼ばれている。現在、山開き行事は行われていないが、毎年7月の第1日曜日に地元の人々が草刈りを行っている。石宮は明治12年(1879)に洲宮村講中の人々によって建立されたもの。

(7)明神山(みょうじんやま)

毎年8月に行われる洲宮神社の祭礼の際、神輿がこの山に登り、浜降(はまくだり)神事(お浜入り)が行われる。かつては藤原の獅子神楽も同時に奉納された。

茂名(もな)

(8)下のお墓

江戸時代にお堂があった跡地で、現在は墓地のみが残っている。入口付近に古い石碑が並んでおり、最も大きい如意輪(にょいりん)観音像は貞亨4年(1687)に建立されたもの。左端の「才兵衛殿墓」は、脇に「この墓を参詣する者、その家繁昌」と刻まれている。

(9)成願寺(じょうがんじ)

真言宗のお寺で、普門山(ふもんざん)成願寺という。掲げられているご詠歌の額は、安房国八十八か所弘法大師巡礼のもので、「皆人(みなひと)の まいりてやがて 成願寺 来世の道を たのみおきつつ」と記されている。元文元年(1736)に根本の僧智円らが奉納したもので、当寺は第9番札所であった。お堂の裏手には、江戸の東叡山(とうえいざん)寛永寺の役僧になった石井良左衛門が文化10年(1813)に六十六部廻国巡礼を行ったことを記念した供養塔がある。建立は明治8年(1875)とあり、その子孫が建てたものであろうか。境内には力石が置かれている。

(10)要害道(ようがいみち)

茂名から館山地区の沼へ山越えして、宮城へと抜ける山道。里見氏が館山城を居城としていた時代に、布良で獲った鮮魚を城まで運ぶ際にこの道が使用されたことから、「魚買道(うおかいみち)」とも呼ばれる。館山城への鮮魚の運搬に苦労したことから、茂名の人々は里見氏が転封となった際に喜んだという話が伝わっている。

(11)上のお墓

共同墓地の入り口に、江戸時代の石仏などが並んでいる。1番左の地蔵は、享保12年(1727)正月に茂名村の「順礼講仲間」が建立したもの。中央は文化7年(1810)9月の建立で、「四国西国秩父坂東百八十八番供養塔」と刻まれている。行者の藤右衛門が、四国の弘法大師88か所と西国33か所・秩父34か所・坂東33か所観音の合計188か所の巡礼を終えた記念に奉納したもの。右隣に建つ安永5年(1776)の廻国供養塔には越後国蒲原郡下条(げじょう)村(新潟県加茂市または阿賀野市)の三助という俗名とその戒名(家山興国信士)が刻まれており、巡礼の途中に茂名村で亡くなった人物を供養するために建てられたものである。

(12)十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)

茂名の鎮守。毎年2月の祭礼は里芋祭りと呼ばれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。階段上の灯籠一対は天保3年(1832)9月に村内の矢田太郎右衛門・和田吉良兵衛・矢田安右衛門・石井弥五右衛門を世話人として奉納されたもので、他に願主21名が名を連ねている。なお、火袋(ひぶくろ)には大正12年(1923)の大震災で倒壊した際に修繕した旨が刻まれている。拝殿向かって左の社は金毘羅社で、村内の他の場所から移したもの。その右には岩壁をくり抜いて石宮が祀られ、下には正方形の手水鉢が置かれている。手水鉢は文化2年(1805)に村内の石井藤右衛門・同谷右衛門が奉納したもの。その脇には明治25年(1892)に氏子らが社殿の修復を行った際の石碑がある。

(13)荒神様(こうじんさま)

2つの石宮が並んでおり、荒神様と呼ばれている。荒神は屋内で火やかまどの神として祀られるほか、山の神などとして屋外で祀られることも多い。現在も毎年3月に宮司を呼んでお祀りをしている。


館山市立博物館(2016年11月6日作成)
館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

布沼・小原

太平洋に面した平砂浦砂丘の奥、小さく開けた谷にも古代から近世にかけて営まれた人々の生活の痕跡がある。太平洋と東京湾が分岐する場所 平砂浦の昔の姿を思い浮かべてみよう。

布沼(めぬま)エリア

(1) 薬師堂

 戦国武将里見義堯の流れをくむ布沼の郷士の家の薬師堂。寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔型の墓石がある。お堂の天井には竜の絵が描かれている。本尊は薬師如来で、ご詠歌には「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたことがわかる。「大石」とは海岸の弁天様のことで、この郷士の家が弁天様の祭祀に大きく関わっていたらしい。

(2) 深田やぐら

 ゴリンサマという室町時代の「やぐら」がひとつある。中には15世紀から16世紀頃と思われる五輪塔と宝篋印塔を組み合わせた塔が3つ建てられているが、もとは宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基はあったはずである。布沼の谷田を地盤にした有力な武士の墓であろう。

(3) 大久保墓地

 東光寺の墓地。無縁に寄せられた墓石のなかに、寛政8年(1796)の出羽三山碑がある。出羽三山は山形県の羽黒山・月山・湯殿山のことで、山岳修験の中心地。正面の大日如来像は湯殿山を象徴する仏様である。房総の人々は講グループでこの三山に登山してくると、記念の石塔をつくった。墓地の裏には石積みアーチ式の石橋が架かっている。この道が昔の県道だった。

(4) 東光寺・大久保遺跡

 曹洞宗のお寺で、16世紀初頭の記録にみえる。本尊の釈迦如来像も16世紀の室町時代後期の作。裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片や17世紀の丹波焼の破片が出土している。また縄文土器・弥生土器、古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、大久保遺跡と呼ばれている。歴代住職の墓域には中世五輪塔の一部とみられる石もある。境内には寺子屋師匠で慶応2年(1866)に没した住職芳明東禅大和尚の墓(筆道の門人が建立)や明治36年(1903)の酒樽形の墓(酒翁盛呑信士)が並んである。また裏参道には、文化14年(1817)から農業が機械化される直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が、年代順に16基並んでいる。

(5) 厳島神社

 島状の高台に鎮座する布沼の鎮守で、境内には文化7年(1810)の手水石がある。社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するという。

(6) 大石弁天

 元禄(1703)の大地震での隆起がおこるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所。寛政5年(1793)の記録によると、旧暦の6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼をおこない、弁天様にお神酒を上げて一日遊んだという。里見氏末裔の郷士の家で享保7年(1722)に作った、雨乞いのかっこ舞をするための獅子頭が残されている。境内には寛政12年(1800)の手水石と享和2年(1802)の石鳥居が奉納されている。数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていた。

小原(こばら)エリア

小原(こばら)の集落は中央の道を挟んで、右(東)が神戸地区の布沼、左(西)が西岬地区の坂井に属する。10世紀(平安時代)の書物に出てくる「安房国安房郡麻原(おはら)郷」は、この周辺だろうといわれている。

(7) 翁作(おきなさく)古墳跡

 昭和42年(1967)、ホテルの工事中に発見された古墳。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に覆われていた。ホテルのオープン直前に確認されたため、古墳はすでに消滅し、規模も明らかではない。確認位置は正面アプローチの左下で、地表下2mから人骨・須恵器・剣・刀子・圭頭大刀・環刀大刀が取り出された。葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央の大和王権に近い安房地域屈指の豪族だったと考えられている。東京湾入口のこの地が大和王権にとって重要な地だったことがわかる。大刀は市立博物館に展示されている。

(8) 蛇堰(じゃぜき)横穴墓

 砂山手前の池を蛇堰(じゃぜき)といい、その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあるという。そのうちのひとつから人骨や刀、勾玉・管玉が出土した。玉類は市立博物館に展示されている。蛇堰の東側の山を蛇堰山あるいは座席山という。安房神社の神様(天太玉命)と后神である洲宮神社の神様が、どこに鎮座しようかと相談するための宴会したときの座席になったという伝説がある。

(9) 小原やぐら

 薬師堂の裏山の山頂ちかくに「やぐら」がひとつある。なかには五輪塔と宝篋印塔の石の一部がはいっている。この小さな谷の周辺にも室町時代に有力な武士がいたのだろう。

(10) 船頭(ふながしら)遺跡

 小原橋下流の小原川の川底から、古墳時代の土師器や祭祀土器が出土している。小原集落の奥の谷では縄文土器が出る。


監修 館山市立博物館

鷹の島

高の島

 元は海に浮かぶ島だったが、館山海軍航空隊基地の埋立て造成により、今のような陸続きの地形になった。
 安房の表玄関である館山港を見下ろす高の島にある鷹之島弁財天は、平安時代に祀られたと伝えられ、昔から漁師や船乗りたちの信仰を集めている。歴史的には「高の島」と書くが、文学的に「鷹の島」と表現された文字が、現在では通用している。

(1)鳥居

 神社の参道にあって神域入口を示す。これは昭和54年10月のもの。

(2)植樹記念碑

 鷹之島弁天閣は、平安時代の嘉保年間、当時国守だった源親元によって祀られたが、長い間荒廃していたのを残念に思った館山湾沿岸の網主たちが、再び信仰を深めるために、大正10年、マテバシイ300本、杉50本を植えたことを記念して建てられた記念碑。この樹木は漁師にとって魚付林の役目を果たした。

(3)石燈籠

 明治33年に建てられた。夜間の歩行安全を目的としたもの。

(4)波切不動尊手水石

 神社や寺を参拝するとき身を清めるために置かれる。明治33年に奉納されたもので、裏側の銘文には、11人の盲人中によって奉納されたことが刻まれている。

(5)碇(いかり)

 危険な航海において、漁師や船乗り達の間で「碇を下ろす」ことによって、無事にまた帰ってこられるようにと願う信仰でもあったのだろうか。脇にある「浮きで作られたカエルのような置物」も、無事に「かえる」ようにと作られたのだろうか。不思議な奉納物がある。

(6)波切不動尊

 波切不動尊とは、航海の安全を祈る不動明王である。ここの不動様は戦前に洞窟の中に倒れているのを発見され、見つけた人が毎日お参りしたところ、戦争で命が助かったというエピソードがある。その後、昭和26年5月に現在の場所に移された。

(7)狛犬

 神様を守護するもの。元々エジプトの神殿や墓、インドでは仏像の前に置かれたライオンが原形で、中国に渡って獅子となり、日本で狛犬に変化した。この狛犬は昭和11年当時に、館山海軍航空隊に所属していた海軍大尉の親族が奉納した。

(8)大正地震記念碑

 関東大震災(大正12年9月1日M7.9)で大きな被害を受けた館山湾周辺の人々が、震災被害を永遠に人々の記憶に残すために、大正15年に建てた高さ4mの巨大な石碑。題字は貴族院議長で大震災善後会の会長を務めた徳川家達、撰文は千葉県知事の元田敏夫。

(9)戦没者慰霊碑

 第二次世界大戦中、全国の高等工業学校専門学校及び大学理工系卒業後の若者達が、館山の洲ノ埼海軍航空隊に入隊した。海軍兵器整備予備生の教育訓練課程就業期間を卒業すると、任務地に赴くが、武運に恵まれることなく多くの若者が戦死した。平成2年に兵器整備予備学生の同志達がこの碑を建立した。89名の戦没者名が刻まれている。

(10)飛行機の彫刻がある手水石

 側面に航空機の彫刻がなされているこの手水石に使われた石の由来にはこんな話がある。江戸初期、江戸城外堀の石垣用として海路24個の大石を積んで江戸に運ぶ途中の千石船が暴風に遭い、高の島の島陰に逃れたが、不幸にも大波に呑まれて沈没してしまった。昭和5年に館山海軍航空隊創設の際、海中から引き揚げられた。昭和10年奉納。

(11)狛犬

 昭和32年に行われた大祭の時、市内に住むとある女性が納めた狛犬。

(12)玉垣(たまがき)

 瑞垣(みずがき)ともいって、神聖な領域を区分するため、特に神社の周りに巡らせた垣根のことを言う。現在ある玉垣は、昭和34年5月に作られたもので、石柱面の文字は、当時の県議高橋祐二の協力で、柴田県知事が筆をふるっている。沼の栄洗寺住職藤田日志(昭和24年弁財天復興者の一人)を中心に、地元の漁師や茨城・伊豆・三重、遠くは宮城・土佐の漁師等からの寄進によって建てられた。海上の守り神として、地元だけでなく遠方からの信仰も受けていたことが伺える文化財である。

(13)岩舟

 向かって左側の狛犬の所に石の船が置かれている。これは岩舟と呼ばれるもので、安房地方の漁業者の間では海上安全と大漁祈願の対象として信仰されるものである。

(14)鷹之島弁天閣

 平安時代、安房守源親元がお寺を建てる土地を探していたところ、老翁が夢の中に現れ、「獅吼山が良いでしょう」と告げられた。後に親元が館山の柏崎を通った時、獅子の頭に似た岩を見て、夢で見た場所はここだ!と寺を建て、獅吼山視眼寺と名づけた。夢に出てきた老翁は宇賀神の神霊であったというので、御礼のために沖の島に宇賀明神、高の島に弁財天を祀ったというのが始まり。昭和初期に、高の島の一部が航空隊の用地となったために、参拝者の出入りが不便になり、昭和10年4月に北下台の公園に社殿を造営し遷座した。再び現在の高の島に戻って来たのは、終戦後の昭和24年5月15日のことである。その際、社殿向拝の龍の木鼻がつけられた。

(15)水産講習所(現:東京水産大学)高の島実験場跡

 明治42年に建てられたが、昭和5年、旧海軍の基地造成のため小湊町に移転した。魚のふ化やプランクトンの研究がされていた農商務省の施設。一般の市民も気軽に見ることができた。

館山航空隊について

 昭和2年、館山町字宮城・柏崎の海岸と、高の島・沖の島との間に海軍の航空隊が設置されることとなり、同年4月1日起工式をして、昭和5年完成に至る。その後保養地館山は、全国から空の勇士を志願した若者たちの常駐する軍都となった。


平成13年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館

伊戸・坂足・小沼・坂井

太平洋沿いに走るフラワーラインから一歩入ると、そこには地域の歴史を感じさせてくれる寺社や石造物を数多く見ることができます。冬でも温暖な平砂浦の村々をめぐりましょう。

伊戸(いと)エリア

(1)富士登山碑

入り口付近には大日如来坐像の他、享保2年(1717)の銘記がある台座や、中世の五輪塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部などが積み重なっている。その奥に「富士一山二十八度大願成就」と書かれた山包講の富士登山碑があり、明治7年(1874)に亡くなったと思われる清行参伸が先達で28度の富士登山をなしとげた。その上には「南汀斉千広」という俳人の墓がある。地元ではこのあたりを「みおうどう」もしくは「みようどう」と呼んでいる。

(2)根本青年館(ねもとせいねんかん)

元は新福寺という寺院であったが、現在は伊戸の根本区の青年館になっている。入口に宝永2年(1705)の地蔵尊があり、台座には賽の河原で石を積んでいる子供が地蔵に救いを求める彫刻がある。その隣には寛政6年(1794)の廻国供養塔がある。また敷地内には昭和13年(1938)に日中戦争で亡くなった陸軍歩兵伍長の墓がある。

(3)御嶽神社(みたけじんじゃ)

祭神は日本武尊。文化3年(1806)に若者中が奉納した手水鉢があるほか、天保9年(1838)に黒川忠兵衛と田中屋伝兵衛が奉納した石灯篭がある。拝殿向拝彫刻は、左右の獅子は安西次郎右衛門、正面の鶴は黒川金兵衛が奉納したもの。本殿左側には滝が落ちており、滝の左上部に石仏(不動明王か)が安置されている。かつて行者が修行をした滝だろうか。

坂足(さかだる)エリア

(4)長江山照浪院(ちょうこうざんしょうろういん)(波切不動)

地元では「波切不動」と呼ばれているお堂で、境内には寛政10年(1798)に江戸日本橋本船町の魚問屋米屋嘉兵衛が奉納した手水鉢のほか、文化12年(1815)の六地蔵が残されている。かつては大漁、海上安全のご利益があるとして多くの信仰を集めていた。
本堂は元々茅葺だったが、平成10年に現在の本堂に新築した。昭和20年頃まで守一庵という庵があり住職もいたが、現在は庵があった場所は集会所になっている。

(5)蛭子神社(ひるこじんじゃ)

平成13年頃、嵐で社殿が倒壊した。神輿は残っていたため、平成15年に現在の建物をつくり、神輿を安置している。木造の鳥居があったが、五十年ほど前に焼失している。蛭子は「えびす」とも読み、兵庫県の西宮神社を総本社としている。

小沼(こぬま)エリア

(6)如意山宝安寺(にょいさんほうあんじ)

曹洞宗の寺院。本尊は木造虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、南北朝期から室町時代にかけての作と考えられている。大正時代に住職をしていた岩永益禅(昭和27年没)が西岬地区に花づくりを広めたことで知られており、墓地の奥にある歴代住職の墓にその名が刻まれている。本堂正面には昭和8年(1933)の西岬消防組第六部の半鐘がかけられている。また境内には寛政5年(1793)に安心房という人物が奉納した地蔵のほか、享保年間の廻国塔がある。

(7)諏訪神社(すわじんじゃ)

祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。諏訪神社は山の中腹(小沼)と平坦地(坂井)の2ヵ所にある。長野県の諏訪大社を意識して上諏訪、下諏訪として祀ったものであろうか。境内には 氏子中が奉納した文化10年(1813)の手水鉢がある。

(8)稲荷様

稲荷四体と石宮が祀られている。10年ほど前までは「ふんどし祭り」と呼ばれる初午(はつうま)が行われており、13歳になった地元の子供たちがお参りしていた。初午とは、毎年2月の初午の日にお参りする行事のこと。

坂井(さかい)エリア

(9)地蔵尊

道路から階段を上がったところに大きな地蔵尊をお祀りしている。隣に青面金剛の庚申塔があり、その右に明治7年(1874)の二十三夜塔がある。庚申塔は庚申講を行った際に建てられるもので、二十三夜塔とは、二十三夜の月が出るのを待って飲食や念仏をする月待行事に関連して建てられる碑のこと。

(10)日露戦役戦没者碑(にちろせんえきせんぼつしゃひ)

明治39年(1906)に日露戦役で戦死した陸軍近衛工作上等兵の碑。

(11)地蔵堂(坂井青年館)

松寿山地蔵堂。かつては安房108箇所地蔵巡礼の97番目の札所であった。境内には天明4年(1784)、寛政10年(1798)、文化元年(1804)、文政元年(1818)の出羽三山碑があり、三山信仰が盛んだったことがわかる。出羽三山とは現在の山形県にある湯殿山、羽黒山、月山のことで、ここに参拝した人々が建てた碑が出羽三山碑である。また、境内には嘉永2年(1849)、元冶2年(1865)、安政6年(1859)、明治7年(1874)の馬頭観音が並び、中世の五輪塔の宝珠がみられる。

(12)日光大権現(にっこうだいごんげん)

境内には文政4年(1821)に村人が奉納した手水鉢のほか、文政11年(1828)に山田仁助・文七が奉納した狛犬がある。日光大権現は、下野国日光の二荒山神社の日光権現を勧請したもの。

(13)居原台(いはらだい)墓地

墓地の奥に宝暦6年(1756)の廻国塔があるほか、大日如来坐像が祀られている。

(14)諏訪神社

祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。小沼の山の中腹にある諏訪神社と元々は一体であったと考えられる。境内には明治28年(1895)の手水鉢がある。

(15)弁天様

坂井川沿いにある祠。昔は塩水をくんで供えていた。現在も正月にはお供え物をしている。

(16)稲荷様

地元で「稲荷様」と呼ばれている祠。現在も初午行事が行われている。祠の周囲の木を切ると、腕が痛くなると伝えられている。


館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

洲崎

東京湾の入口で、漁業と航海の神として信仰されてきた洲崎神社があり、源頼朝伝説があふれる里「洲崎」。外房と内房の境界に位置する洲崎を歩いてみましょう。

笠掛(かさげ)エリア

(1) 洲崎神社

 東京湾の出入口を見下ろすこの神社は、古代から漁師にとっての漁業神であり、船乗りにとっての航海神だった。祭神はアメノヒリノヒメノミコトといい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神アメノフトダマノミコトの后神(きさきがみ)とされている。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房に逃れたとき、当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したのは有名な話。中世には東京湾内の有力な港町にも祀られるようになり、品川神社や横浜駅近くにある洲崎神社の祭神になっている。8月21日の祭礼では、県指定の無形民俗文化財になっているミノコ踊りが舞われ、神輿が勇壮に階段を駆け下りてくる。境内にある「一宮洲崎大明神」の社号標は文政3年(1820)のもの。拝殿の額は、文化文政期に房総の海岸警備を担当した元老中松平定信が、文化9年(1812)に書いたものである。本殿は江戸前期の建築で市の指定文化財。背後の山は県指定の自然林になっている。隋神門脇の大きな記念碑は、大正の地震で被害を受けた栄の浦と洲崎港ふたつの港の復旧記念碑。

(2) 御神石

洲崎神社の浜の鳥居から海へ真っすぐ下りた岩場に横たわる黒っぽい石は、正月や例祭のときにはシメナワがはられる。長さ約2m30cm、幅80cm、厚みが65cmから1mほどあり、口を真一文字に結んだような裂目がある。神社の山にあった池が崩れて落ちてきたとの伝承がある。三浦半島にも同じような大きさの石があり、竜宮から洲崎神社に奉納されたふたつの石のひとつが飛んできたと伝えている。その石は横須賀市上吉井(浦賀の西)の明神山のうえに祀られ、安房口神社と呼ばれている。正面に丸いくぼみがあり、洲崎の石とは東京湾をはさんで「阿吽(あうん)」で対になるという。

(3) 富士講行者碑

 富士山を信仰して登山を繰り返し、昭和8年(1933)に八十八回目の登山を達成した人物が、記念に建てた碑。洲崎の富士講先達をしていた鈴木伊右衛門といい、94歳のときのこと。行者名は伊行宝海という。洲崎では現在でも富士講が続けられていて、毎年8月21日の朝に、この碑の前と洲崎神社の社殿前で富士山の方を向いて「おがみ」を行なう。

(4) 養老寺

 真言宗のお寺。正式には妙法山観音寺という。安房国札観音巡礼の三十番札所で、十一面観世音菩薩が本尊。江戸時代までは洲崎神社の管理をしていた修験の寺で、役行者(えんのぎょうじゃ)という修験道の開祖が開いたと伝えられている。境内には行者の石像を祀る岩屋があり、本堂の後ろには行者の霊力で湧いたという独鈷水という井戸がある。また洲崎は源頼朝伝説が多いところで、本堂正面には頼朝が箸に使ったカヤを挿して出たという一本薄(いっぽんすすき)というカヤが生えているほか、頼朝から綿鍋という名字をもらったと伝える旧名主綿鍋家の墓地がある。本堂前には寺子屋師匠の森田三余の墓がある。明治28年没。

(5) サンノウ様

 山王様と書く。祠の中には三猿を刻んだ石宮が祀られている。猿は山王権現という神様の使いだが、申の日に行なわれる庚申信仰と結びつき、江戸時代前期には山王権現を祀って庚申信仰が行なわれていた。この石宮も江戸前期の寛文10年(1670)に建てられたもの。現在は1月20日と6月9日にオビシャと称してサンノウサマの集まりが行なわれている。

漂(みよ)エリア

(6) 地蔵堂墓地

 墓地の最上段にあるのが地蔵堂。入口に明治37年(1904)の子安地蔵があり、向かいに弘化4年(1847)6月の水難者14名の供養塔がある。内房と外房の境界にあたる洲崎の沖合には、「潮の道」とよばれる急流地帯があり、経験深い漁師にとっても危険地帯だという。水難者の霊が集まって出られなくなる場所だともいい、船幽霊の迷路という伝説がある。

(7) 矢尻の井戸

 源頼朝が伊豆から安房へ逃れてきたときの上陸地は鋸南町勝山地区の竜島だが、洲崎に上陸したという説もある。それがこの下にある臥島(ガジマ)だといい、臥竜島・竜島の別名もあるという。矢尻の井戸は、上陸した頼朝が飲み水がないため、岩間に矢尻を突き立てたところ清水が湧いたという伝説の場所である。また洲崎の頼朝伝説は、ほかに頼朝の上陸を助けた漁師に平島の名字を与えたというものや、頼朝に鍋の穴を綿で塞いで食事を供して綿鍋の姓をもらったという伝説がある。地名でも、洲崎神社に参詣した頼朝が、笠を松に掛けて「あれ見よう笠掛けて」といったことから、頼朝が見た集落を「見様(みよ)=漂」、立っていた集落を「笠掛(かさげ)」というようになったという伝説がある。

(8) 水上特攻艇格納壕

 太平洋戦争中に館山周辺は軍事基地が集中的に作られていたが、洲崎の栄の浦には、水上特攻艇「震洋」の格納壕がいくつかあった。震洋は五mほどのベニヤ板張りのモーターボートで、爆薬300キロを積み、フィリピンや沖縄で実戦に投入された有人の特攻兵器。安房地方には鋸南町岩井袋を本部に1700名で構成された突撃隊があり、勝山・波左間・洲崎などに50隻が配備された。

(9) コウシン様

 漂(みよ)の庚申講の人々が祀った庚申様。庚申信仰の本尊は青面金剛で、帝釈天の使者である。そのため、ここの庚申様は柴又の帝釈天で授与されたもので、毎月8日の帝釈天の縁日にお籠もりをしている。大漁祈願をする人や、赤ん坊ができてお参りする人もあるという。むかしは「オカノエサマ」といって、ひと月おきに集まったという。庚申講はもとは、60日に一回ある庚申の日の夜に、徹夜をして過ごす風習だった。

(10) 洲ノ崎灯台

 庚申山のうえに、大正8年(1919)12月に建設された。航路標識管理所技手の斎藤新治郎による設計。この建設以前には、東京湾へ入る船は白浜の野島崎灯台を目標に進んでいたため、暗夜などには布良崎を洲崎と誤認して平砂浦に座礁することがあった。

(11) 洲崎御台場跡と台場の石

 江戸時代の終わり頃、鎖国の日本に異国船が頻繁に現れるようになり、東京湾入口の安房や三浦には多くのお台場が築かれ、大砲が設置された。文化7年(1810)に奥州白河藩主松平定信が警備を担当して、洲崎には5門の大砲が据えられた。その後武蔵忍藩、備前岡山藩に担当が移り、安政5年(1858)に日米通商条約が締結されると、砲台は廃止された。「下の浜」には、二艘の船が警備の御用を勤めるために待機させられていた。お台場の石垣に使われていた石が、近くの民家の石塀に利用されている。

(12) サンヤ様

 井戸のとなりにある石宮はサンヤ様とよばれている。「三夜様」と書き、二十三夜の月の出をまって拝む「月待(つきまち)」という風習がもとのかたち。二十三日に講の人々が集まって飲食をともにするもので、全国的におこなわれていた行事である。


監修 館山市立博物館

坂田・波左間

古くからの漁村であるとともに、太平洋戦争以前、東京湾防衛の要地となり、数々の戦争遺跡が残る坂田と波左間。海水浴場としても毎年賑わう海に面した集落の歴史を探訪しましょう。

坂田(ばんだ)エリア

(1) 弁天様・ジュウニフナサマ

 坂田漁港脇の小高い丘に赤い鳥居が2つある。海のほうを向いているのが弁天様で、石宮の中には安永9年(1780)の庚申塔がある。弁天様の脇には鶏の絵馬と大黒天のお面が奉納されている。絵馬は毎年家庭のお勝手(おかみ様)に祀り、新年にここに奉納するという。もう一つはジュウニフナサマと呼ばれていて、船の仕事に関わる人々の信仰を集めていたのかもしれない。

(2) 洲崎第2砲台跡

 この地域は東京湾の入口にあたり、古くから東京湾防衛の要地で、大正時代の末から昭和初期にかけては各種施設が建設され、軍事上の重要地帯となった。洲崎第2砲台は大正13年(1924)に起工し、昭和2年(1927)に竣工した。砲台の付近にはトンネル状の弾薬支庫や砲側庫などがあり、橋や井戸、兵舎跡と思われる建物の基礎部分が残されている。バス停近くの門柱は砲台の入口を示すもの。

(3) 実蔵院

 不動明王を本尊とする真言宗の寺院。熊野神社の別当をつとめていた。境内にある宝篋印塔は36歳で亡くなった隆教の菩提のために師の隆基が建てたもの。天明3年(1787)のもので、鋸山日本寺の千五百羅漢の作者である木更津出身の石工大野甚五郎英令の作。

(4) 熊野神社

 熊野神社は坂田地区の鎮守。境内には稲荷様と浅間様が祀られている。鳥居前の手水石は文政3年(1820)12月のもの。他に「卍」が刻印された石宮がある。また、別当寺の実蔵院に稲荷明神像が所蔵されている。

(5) 西方寺

 曹洞宗の寺院。本堂内に安置されている虚空蔵菩薩坐像は室町時代の作。本堂脇の墓地には、江戸時代後期に房総沿岸警護のために築かれた波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が3基残されている。西方寺に近い旧名主家には、江戸時代の文書などが多数残されていて、当時の人々の生活や漁の様子を伺うことができる。

(6) 共同墓地

 この墓地にある魚籃観音とは三十三観音の一つで、手に魚の入った籠を持つ姿で作られ、海や魚の信仰と関連がある。そのほか文化11年(1814)に坂田の行者大翁壽圓が建てた廻国搭があり、上段の墓地にも寛政2年(1790)に坂田の法心という行者が建てた廻国搭がある。

波左間(はさま)エリア

(7) 浅間様・金比羅様

 戦前までは富士講があり先達もいたが、戦争が始まり講はなくなった。雨の少ないときには浅間様の前で雨乞いを行っていたが、田んぼがなくなってからはやっていない。浅間様に向かう途中には金比羅様があり、船の安全を守っている。

(8) 観音堂

 本尊の十一面観音像は安房郡札辰年観音の第27番札所で、ご詠歌は「あまてらす 月ははさまに かげそへて ふねにたからを 積むはどうざき」。境内にある天保3年(1832)の大乗妙典納経供養塔は行者兵三郎のもので、脇願主は平磯村の寛従。また、観音堂右脇を抜け漁協の裏にまわると3つの石宮があり、それぞれ「リョウゴサマ(竜宮様)」と呼ばれている。

(9) 第59震洋隊滑り台跡

 「震洋」と呼ばれる水上特攻艇は,上陸用船舶の撃沈を目的とし、昭和19年(1944)から終戦までに約6200隻が建造され,房総半島の他,伊豆半島,四国,九州の米軍上陸予想地点に配備された。東京湾口地帯にも震洋隊が配置されたが、その一つが「第59震洋隊真鍋部隊」で,終戦間近の昭和20年(1945)7月14日,波左間を基地とした。後背山手の格納壕には、50隻以上の震洋が配備されたという。現在、波左間海岸に震洋搬出路跡が残っている。

(10) 諏訪神社

 波左間地区の鎮守で、建御名方命(タケミナカタノミコト)を祀る。毎年7月1日に行われる祭礼では国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納される。拝殿には明治12年(1879)渡辺雲洋作の「仁田四郎猪退治図」や、昭和15年(1940)寺崎武男作の「素戔嗚尊図」がある。境内には砲弾が奉納され、神社周辺にも多くの防空壕が残されている。手水石は弘化2年(1845)江戸本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が奉納したもの。

(11) 光明院

 青龍山光明院といい、不動明王を本尊とする真言宗の寺院。本堂の地蔵菩薩坐像は膝前で着衣を垂らす法衣垂下のスタイルで、室町時代末の作とされている。本堂向拝正面には、後藤利兵衛橘義光の彫刻が施されており、裏面額の銘文により明治元年(1868)に制作されたことがわかる。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残されている。

(12) 稲荷様・熊野様

 稲荷神社では以前2月の初午の際にミノコオドリが奉納されていた。熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っている。稲荷神社参道の左側は明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところ。

(13) 共同墓地(地蔵堂跡)

 安政5年(1858)の出羽三山供養塔があり、天保12年(1841)の出羽三山と西国秩父坂東百観音の供養塔もある。また道路を挟んだ向かい側には、明和4年(1767)の廻国塔と酒樽の形をした墓がある。ここは以前安房国108か所地蔵巡りの第98番札所である地蔵堂があったところで、ご詠歌は「朝まだき はさまが浦に こぐふねは いずくに慈悲の つりやたるらん」。

◆ 波左間のミノコオドリ<国選択記録無形民俗文化財>

 ミノコオドリは、館山市波左間と洲崎、南房総市千倉町川口に伝承され、それぞれ地元の神社における祭礼時などに境内や地区内で踊られる。波左間では小学生から中学生の女子が踊り手で、右手に扇または団扇を持ち、左手にオンベと呼ばれる御幣のようなものを肩に担ぎ、十人前後で輪になって、右回りに踊る。この時、年配の大人4~6人が、歌、太鼓などの演奏をする。南房総地方のミノコオドリは、相模湾西岸に分布する「鹿島踊」と共通点がある一方で、南房総地方独自の地域的特色も見られる。

◆ 波左間陣屋と白河藩士

 寛政の改革で知られる老中松平定信(白河藩主)は、江戸湾警備の担当となり、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き江戸の防衛にあたった。波左間の陣屋は松ヶ岡陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたったという。交替で台場の勤番にあたり、江戸湾に侵入する異国船を見つければ追い払うというのが任務だった。松ヶ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間だった。今でも陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺(見物)には、白河藩関係者の墓が残されている。


監修 館山市立博物館