那古・川崎

那古は坂東観音札所の古刹那古寺の門前町として賑わった。海に面した砂丘上に続く浜方の村を、川崎まで歩いてみましょう。

那古寺門前(なごじもんぜん)エリア

 那古寺の門前町として栄えた那古の町は、江戸時代は那古寺が支配した寺領と呼ばれる地区と、旗本が支配した東領と呼ばれる地区に分かれていた。今の寺赤・宿・芝崎が寺領で、東藤・辻・大芝などが東領である。

(1) 浜弁財天

 この辺りは、江戸時代の元禄16年(1703)の地震で隆起してできた土地。弁天様は漁業神・水の神として親しまれている。境内にある文政7年(1824)の手水石は江戸問屋中が願主として奉納したもので、おそらく那古の漁師や運送業者と取引をしていた魚問屋だろう。社前に力石が2個奉納されている。社殿内には宇賀弁財天像が祀られている。通りに面して寛政9年(1797)に念仏講で造立した地蔵像と、天保6年(1835)に浜町と寺町の大師講中で建立した南無大師遍照金剛の名号塔がある。

(2) 那古町道路元標(げんぴょう)

 釜屋の前の交差点の路端に那古町の道路元標(みかげ石)がある。大正頃のものだろうか。市内では船形町・富崎村・西岬村でも同じ時のものがある。道路の路線の起点・終点そ示すもので、各市町村に1個ずつ置かれた。

(3) 芝堂

 那古寺の境外仏堂で、芝崎にある寺領区域の墓地。墓石の屋号をみると、いかにも街場らしく、全国各地から商人が集まったようで、「駿河屋・上総屋・大津屋・淡路屋・越後屋・鹿島屋・大和屋」などが見え、その他にも「伽羅屋・米屋・飴屋・鍋屋・釜屋・丸屋・丸角屋・喜寿屋・三増屋・田村屋・坂本屋・宮沢屋・酒井屋・和国屋」など、商店の屋号が並ぶのが興味深い。また江戸初期の浄土宗の僧雄誉霊巌の書を彫った、幕末の嘉永5年(1852)の名号碑がある。

辻・川崎エリア

(4) 金毘羅(こんぴら)神社

 那古の浜集落である大芝の漁業従事者が四国の金毘羅さんを祀ったのだろう。金毘羅様は海難救済と豊漁の神として漁業者の信仰する神様。昭和40年頃まではこの場所は塚のようになっていて、ウオミヅカ(魚見塚)と呼んでいたそうだ。またオカノエサマとも呼ばれていて、社殿の中に金毘羅様の石祠と並んで庚申塔がある。オカノエサマとは庚申の庚が「かのえ」の日の信仰であることからの呼び名である。青面金剛像を彫っているのが仏教系の庚申塔で、猿田彦大神の文字のある塔が神道系の庚申塔。

(5) 御霊(ごりょう)神社

 御霊大権現は厄病神で、疫病などの流行を鎮めるために祀られた。村はずれに祀られることが多い。ここは那古の辻に位置するようだが、じつは正木の川崎地区の飛び地にあり、川崎の人々の信仰をあつめる神様である。天保12年(1841)に地引の網元五左衛門と引子の若者中が奉納した手水石があり、浜で生活する人々の信仰があったようだ。

(6) 安房堂(あんぼうどう)

 正木の川崎地区の堂。嘉永7年(1854)の百八十八カ所供養塔がある。四国霊場と西国・坂東・秩父の各観音霊場を巡礼した記念の塔である。そのほか出羽三山碑や明治31年(1898)の線刻六地蔵碑、寺子屋の師匠だった徳誉教善の筆子塚がある。筆子塚は文政9年(1826)に筆弟子26人と念仏講の仲間が建てたもの。また川崎では、昭和20年(1945)5月19日に空襲を受けて27人がその犠牲となっており、その記念碑が建てられている。

(7) 八雲(やぐも)神社

 正木の浜集落である川崎の鎮守。拝殿の正面には明治19年(1886)の鳥居形銭額が奉納されている。境内の狛犬は江戸京橋の石工藤兵衛の弟子包吉の作。弘化4年(1847)。石灯籠は文政8年(1825)。社殿のなかには日清・日露戦争への従軍者が当八雲神社へ参拝する姿を描いた絵馬などがある。

(8) 念仏供養塔

 寛文5年(1665)に念仏講で建立した石の阿弥陀像がある。石灯籠は天保11年(1840)のもの。右手前には室町時代頃の宝篋印塔の基礎石が残っている。

(9) 神明神社

 辻の神社。手水石は弘化2年(1845)、氏子の奉納。力石もある。境内地からは奈良・平安時代頃の土師器片などが出土する。

(10) 薬王院

 辻堂と呼ばれる。昭和8年(1771)の出羽三山碑や安政7年(1860)の百万遍念仏塔、日蓮宗の題目「南無妙法蓮華経」を刻んだ馬霊塔・馬頭観音・庚申塔などがある。墓地のなかには、那古の富士講先達で誠行重山こと秩父屋与兵衛が、明治17年(1884)に48回目の富士登山を達成した記念碑がある。明治21年に85歳で没した。また天保水滸伝で有名な銚子の五郎蔵は那古の出身で、その兄で同じく侠客になった神花(じんが)の初五郎の墓がある。天保3年(1832)没。

東藤(ひがしふじ)エリア

(11) 車地蔵

 藤ノ木の交差点にある延命地蔵で、那古と川崎の人々によって宝暦4年(1754)に建立された。水向(みずむけ)の正面に「右清澄へ九里、左大山へ四里」とあり、道標になっているが、バイパス工事によって位置が南へ10mほど移動している。傍に昭和10年に再建された後生車(ごしょうぐるま)がある。死後によい世界に生まれ変わるため、参拝者がこの車を回転させるのである。

(12) 白岩弁財天

 この弁天の池の奥は鍾乳洞(しょうにゅうどう)になっていて、白岩の名は鍾乳石のことをいうらしい。 徳川家光の頃に津波があり、その時小川をさかのぼってきた白蛇がこの池に入ったため宮を建てたそうだ。むかしこの池の水は目薬などにされたという。力石が2個奉納されている。手水石は天保11年(1840)のもの。裏山の中腹には、那古にあった富士講の「山三」講中で建てた浅間様の石宮がある。

(13) 横穴墓

 字天ノ脇のバイパスに沿ったところに古墳時代の横穴墓(よこあなぼ)が1基ある。

 ◆ 那古寺◆

養老元年(717)に僧行基が建てたとされる。江戸時代に元禄大地震で倒壊したが、安房全域におよぶ万人講勧進によって再建された。坂東三十三番札所の結願寺として知られ、本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、多宝塔など多くの文化財がある。寺の裏山は自然林が保存され、山頂からは市街や伊豆半島がよく見わたせる。


監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL.0470-23-5212

崖観音

文化財ガイド 崖の観音 概要

「崖の観音」で有名な大福寺は船形山の中腹にあります。断崖の途中に張り付いて見える赤い舞台造りの観音堂に、「崖の観音様」はいらっしゃいます。

 お寺の由緒では、「崖の観音様」は養老元年(717)に行基がこの地へ来たとき、崖に刻んだと伝えています。その姿からは平安時代中頃に造られたと考えられているようです。船底を臥せた形をしている船形山の観音様は、漁師などが海上安全の守護仏として信仰しています。また安房三十四か所観音霊場のひとつとしても知られています。

 隣には船形の鎮守諏訪神社が鎮座していて、江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていました。

大福寺エリア

(1)大福寺本堂 昭和2年(1927)

 関東大震災で倒壊して、4年後に再建したもの。正面には獅子と龍の向拝彫刻がある。昭和3年、国分(館山市国分)の彫工後藤義房の作品。

(2)南無大師遍照金剛塔 明治17年(1884)

 陽宜の書。弘法大師の1050年遠忌に、船形の醍醐新三郎が先祖供養のために建てた碑。

(3)弘法大師供養塔 文政5年(1822)

 台座に10名の法名が刻まれていて、海難事故の被災者と考えられる。その供養を祈念している塔で、高野山の木食観正に書いてもらった正面の「遍照金剛」とは弘法大師のこと。

(4)川名宗寿墓表 明治40年(1907)

 船形町川名の素封家で、俳人だった川名惣十郎(俳号:梅窓・宗寿)の碑。明治36年没。69歳。撰文は安房中教師の斉藤東湾で、俳句の弟子たちが建てたもの。

(5)日露戦争記念碑 明治39年(1906)

 船形地区から日露戦争に出兵した人の名前を記した碑。出征者87名、戦病死者5名の名前が刻まれている。

(6)延命地蔵尊 寛延3年(1750)

 弘法大師を信仰する船形の大師講の人達(女性が中心)によって作られた丸彫りの像。

(7)津波被災者供養塔 元禄16年(1703)

 津波による被災者の供養塔。言い伝えによると、元禄16年11月23日の大地震のとき、船形浦の海上で船を仮泊していて、津波の犠牲になった乗組員7人の供養塔。7人のうち4人 は西宮(兵庫県)出身者である。それぞれの出身地が刻まれている。

(8)廻国供養塔 安永5年(1776)

 日本全国を修行して廻る行者だった船形の顕阿蓮入が、日本廻国を達成して建てた供養塔。

崖の観音堂エリア

(9)石段親柱 明治28年(1895)

 船形の小林小平治が中心になり、神社の氏子中によって神社の階段が整備されたときの親柱。もとは神社にあったと思われる。

(10)石段記念碑

 東京魚河岸有志・船形町魚商組合によって石段が寄進されたときの碑。この地域は漁業に関わりが深いので、海上安全と豊漁を祈願し感謝するためであろう。

(11)石燈籠 明治34年(1901)

 船形の魚商座古六が発起人となり、東京魚河岸の魚問屋によって寄進されたもの。

(12)手水石 文政元年(1818)

 手水石とは神仏を拝むとき、手や口を清める水の入っている石である。船形中宿の6人の女性たちが中心となって寄進したもの。

(13)観音堂 大正14年(1925)

 崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、大正地震のあとも同じように再建された。観音堂内には、明治39年に船形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年に船形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品 の俳句、享保15年(1730)に長狭の佐生勘兵衛によって寄進された御詠歌(船形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望におさめ、伊豆大島・天城の山々がそ びえる海は、実に風光明媚な眺めである。

諏訪神社エリア

(14)古峯神社 明治14年(1881)

 船形の古峯講の人達によって、火伏せの神(火の用心の神様)として祀られた。石宮は地元船形の石工大和地新兵衛が製作。

(15)諏訪神社

 この神社は、船形地区の総鎮守で、船形住民の氏神としてあがめられている。各町内の住民は、自分の町内の神社のほかに、ここにもお参りに来る。言いかえれば、船形住民のシンボルであり、地区民の連帯意識を支える重要な役割を果たしている。船形地区で神主さんがいるのはここだけで、各町内の祭典は諏訪神社の神主が儀式を司る。社殿は関東大震災後の昭和2年の再建で、向拝の彫刻も後藤義房による大正15年の作。神号額はその師匠の後藤義信の作。

(16)手水石 元治元年(1864)

石段の下に置かれていたが、関東大震災後の昭和3年10月10日、ここに移された。

(17)狛犬 安政2年(1855)

 板屋助三郎・柴田平七が本願主となり寄進された。安房の名工と謳われた元名村(鋸南町元名)石工の武田石翁の作とする棟札が保存されている。傑作と伝わる。

(18)石灯籠 文政10年(1827)

 江戸と内房の魚問屋が奉納した石灯籠で、獅子などの彫刻もある。元名村(鋸南町元名)の金蔵という石工の作品。


平成14年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館

八幡・湊・鶴ヶ谷

古代には安房国の主要港「淡水門(あわのみなと)」があり、中世以降は安房国総社鶴谷八幡宮を中心に開けた地域。八幡宮と鶴ヶ谷の陣屋跡を中心に、槙の生垣に囲まれた地域の歴史を探訪しよう。

八幡(やわた)エリア

(1) 鶴谷(つるがや)八幡宮

 安房国の総社とされ、例祭の9月14・15日には安房国内から古社10社の神輿が渡御して八幡の祭がおこなわれる。もとは安房国府が所在した三芳村府中に鎮座していたとされ、鎌倉時代に頼朝か現在地に遷したという説と、室町時代の里見義実によって遷されたという説がある。八幡の祭は府中にある元八幡神社でお水取りをしてから始ることになっている。里見氏の篤い信仰によって保護をされ、政治的にも利用された。江戸時代の社領は171石余で、別当の那古寺が管理していた。<境内奉納物の詳細は「鶴谷八幡宮マップ文化財ガイド」参照>

(2) 千灯院 

 真言宗の寺院。江戸時代には八幡宮の領地から6石の配当を受け、社僧が住して仏事で八幡宮に奉仕した寺。八幡宮の別当を務めた那古寺の配下でもあった。境内には廻国修行者の鈴木七兵衛が建てた寛政5年(1793)の廻国供養塔や、八幡村の念誦講で光明真言を一億回唱えたことを記念して建てた天保12年(1841)の一億万遍念誦塔がある。

(3) 槙の生垣

 神社周辺の古い集落地域では、屋敷の周りが背の高い槙の生垣で囲われ、毎年八幡の祭礼前に行なわれる刈り込みによって常に美観が保たれている。ホソバと呼ばれる槙は千葉県の県木で、房総半島が自生の北限である。塩に強く砂地にも適した木で、密集した枝によって防風・防火にも効果的であることから、海が近い安房地方では生垣によく使われている。八幡はとくに迫力のある歴史的集落景観が保たれている。

(4) 阿弥陀堂 

 現在は八幡地区の墓地のお堂になっているが、明治になるまでは八幡神の本来の姿である阿弥陀如来を祀る本地堂であり、鶴谷八幡宮の付属施設として社殿の隣にあった。仏が人々を救うために神の姿を借りて現れるという本地垂迹説では、八幡神の本地は阿弥陀如来である。また堂内には、かつて八幡宮一の鳥居と二の鳥居の間にあった弁天社に祀られていた弁財天像も祀られている。戦国期末の里見時代のもの。

湊(みなと)エリア

(5) 薬師堂 

 寛永21年(1644)に薬師堂へ奉納された鰐口がある。山下郡湊村と書かれた江戸初期のもの。参道入口には順礼講中間で寄進した地蔵像が祀られている。墓地には正徳元年(1711)の北条藩万石騒動の際に刑死した三義民のひとり湊村名主秋山角左衛門の墓や、元文6年(1741)に明神丸乗船中に遭難したと思われる7人の供養碑がある。

(6) 六地蔵の道標 

 正木寄りの三叉路に、年号はないが「右正木 左やわた」と刻んだ道標がある。むかしは道の中央に建っていたそうである。北条と湊の境の十字路にも「北まさき 東こくぶん寺 西やわた」と刻んだ同様の道標がある。ともに四角柱で子どもの戒名を刻んだ六地蔵になっている。はやり病で死んだ子どもたちの供養のために建てられたと伝えられている。

(7)子安神社 

湊の鎮守。天正18年(1890)には子易大明神として記録されている。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしていた。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されている。境内には「青面金剛」の文字を刻んだ庚申塔がある。寛政12年(1800)の庚申の年に湊村の庚申講で建立したもの。手水石は文政13年(1830)に相州西浦賀の鈴木弥吉という人物が奉納している。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名づけられている。

鶴ヶ谷(つるがや)エリア

(8) 稲荷遺跡(北条)

 この周辺は古墳時代から奈良・平安時代の土師器などの土器が出土する遺跡。北条村北町中で奉納した稲荷の石宮を祀っている。

(9) 庚申塔(八幡)

 安房高の生垣のなかに、青面金剛の像を刻んだ庚申塔が祀られている。安永5年(1776)の申年に八幡の彦右衛門が建立したもの

(10) 稲荷神社(北条鶴ヶ谷)

 長尾藩の陣屋が鶴ヶ谷につくられた際、旧領地の駿河国田中(静岡県藤枝市)の城内から移されてきた。稲荷は藩主本多氏の鎮守で、廃藩後も旧藩士が葵恩会を結成して神社を維持してきた。境内には大砲の碑や明治3年に横須賀の大工松蔵が奉納した手水石がある。

(11) 長尾藩陣屋跡(北条鶴ヶ谷)

 安房高校周辺から六軒町の諏訪神社までの地域に、明治3年(1870)、長尾藩4万石の陣屋がおかれ藩士たちの居宅も建設された。稲荷神社の向かいに藩主邸、その海寄りのほぼ陣屋中央に藩の役所がおかれた。藩庁があった場所は正方形に区画されており、幕末には海岸警備の任にあたった武蔵忍藩や岡山藩が陣屋をおいていた場所である。<詳細は「長尾藩ゆかりの地マップ」参照>

(12) 長尾藩士共同墓地(八幡)

長尾藩士の墓地として開発されたところで、長尾藩家老の遠藤俊臣、勘定奉行熊沢菫、藩校日知館の監察雨宮信友などの藩重役はじめ、剣術師範小野成顕・成命父子など50家におよぶ藩士の墓がある。そのほか西南戦争で戦死した八幡の小林真吉の碑もある。また安房高校寄りには八幡地区の墓地があり、八幡の村用掛として明治初期の地租改正に尽力した岩崎彦右衛門の墓碑などがある。


監修 館山市立博物館

船形西部

船形の人々は昔から漁業を生業とし、崖の観音に安全を祈願して暮らしてきました。西行伝説も残る古い土地で、現在も多くの人が暮らす漁業の町・船形の歴史を探訪しましょう。

柳塚(やなぎづか)エリア

(1)岩船地蔵尊

左側の岩船地蔵尊は石でつくった舟に乗っている。はじめは念仏をして疫病除けを祈願する信仰だったが、そのうち大漁祈願や海上安全が祈られ、新造船の安全祈願や船酔い防止の祈願に変わっていった。右側には明治6年(1873年)と大正2年(1913年)の馬頭観音がある。

(2)西行寺

浄土宗のお寺で光勝山西行寺という。その昔、西行法師の妻「呉葉の前」が夫を探して船形へ来て死んだ後、里人が葬ってその塚に柳を植えたので、この地を柳塚といい、後日訪れた西行がこれを聞いて西行寺を建てたという伝説がある。墓地に永禄7年(1564)正月8日に死んだ人の宝篋印塔があるが、この日は市川市で有名は国府台合戦があった日。寺の裏山は戦国時代の船形城跡で、安西氏がいたという。円光大師第7番札所、安房国48ヶ所薬師巡礼西2番礼所。

(3)民内翁碑と大井戸

幕末に村民の民内作右衛門が宇田川の改修や農業改良に努めて、明治元年(1868)に長尾藩主から表彰されている。記念碑は明治31年(1898)に建設されたもの。記念碑前の大井戸は、飲み水に困っていた人のために、作右衛門が屋敷内に掘ったもの。

堂の下(どうのした)エリア

(4)大福寺

崖観音で有名な真言宗のお寺で、船形山大福寺という。本堂は関東大震災で倒壊して、4年後の昭和2年(1927)に再建した。富浦(南房総市富浦町)の彫工後藤義房作の向拝彫刻は翌昭和3年のもの。境内に元禄16年(1703)の大地震の津波で犠牲になった。摂津西宮(兵庫県西宮市)の人々の供養塔がある。高野山の木食観正が正面の字を書いている。文政5年(1822)の弘法大師供養塔にも海難事故の被災者と考えられる人々の名がある。安永5年(1776)の船形村行者による廻国供養塔のほか、明治39年(1906)の日露戦争記念碑、明治40年に建てられた二代目船形村長川名宗寿翁碑などがある。

(5)崖観音

本尊は平安時代末期の作とされる磨崖仏の十一面観音立像で、海上を行き来する人々から見やすい位置にあり、漁民や海運など海上に生活する人々の信仰を集めてきた。崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、関東大震災のあとも同じように再建された。観音堂内には、享保15年(1730)に長狭の佐生勘兵衛によって寄進された御詠歌(船形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額、明治39年(1906)に船形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年(1958)に船形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品の俳句、地元民奉納の天井絵などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望できる。安房国札観音巡礼の第3番札所。

(6)諏訪神社

崖観音に並んである諏訪神社は船形地区の総鎮守で、船形住民の氏神としてあがめられている。社殿は関東大震災後の昭和2年(1927)の再建で、向拝の彫刻は後藤義房による大正15年(1926)の作。神号額は初代義光の弟子で国分(館山市国分)の後藤義信の作。狛犬は安政2年(1855)、元名村(鋸南町)の名石工武田石翁の傑作。石段下には文政10年(1827)に江戸と内房の魚問屋が奉納した石灯籠があり、彫刻は元名の金蔵という石工の作品。7月の第4土曜・日曜に諏訪神社の例祭が行われる。

(7)渋沢栄一磨崖碑

船形学園は明治42年(1909)に東京市養育院安房分院として開設された。それを記念して大正6年(1917)に建設された記念碑。16mの崖を削って、高さ10m、幅6mのなかに一文字30cm四方の大きさで由来が書かれている。書は初代院長で明治の大実業家渋沢栄一、撰文は二松学舎を創設した三島中洲による。戦後は文字が摩滅していたが平成9年(1997年)に復元された。

(8)旧丸山公園

海に突き出した岬のようになった岩場で、伊豆半島や大島・鏡ヶ浦を一望できる。大正時代には公園になっていて、松が30本ほどもあったという。昭和27年(1952年)の遭難者を供養する六地蔵や、漁の神様の海神宮などが祀られている。

(9)芝堂

西行寺の境外仏堂。船形で魚の仲買いをしていた大仲間が六人の霊を弔った安永5年(1776)の供養塔や大漁祈願の魚藍観音を描いた昭和11年(1936)の石碑、明治38年(1905)5月24日の動物供養の墓などがある。

浜三(はまさん)エリア

(10)安政築堤

磯崎湊とよばれていた場所に江戸時代末の安政2年(1855)につくられた堤防。一度台風で崩れて明治6年(1873)に再建したようで、大正12年(1923)の関東大震災で現在の場所まで上がってしまった。この堤防の東側が現在の船形港でいちばん古いところ。

(11)正木清一郎胸像

船形村最後の名主正木貞蔵の長男で、船形町長を長く勤め、千葉県の水産業の発展に尽くし、水産翁とよばれた。館山の北下台に父貞蔵の顕彰のため「正木灯」を建てた。胸像は昭和5年(1930)に建てられたが、戦時供出され、現在の像は昭和59年(1984)に再建されたもの。

(12)山神社(山之神神社)

大山咋命を祀っている神社で、明治30年(1897)の絵馬が奉納されている。江戸時代には、祭礼に出るお船がここで飾り付けを行っていた。

大塚(おおつか)エリア

(13)庚申塔群

享保13年(1728)・文政4年(1821)など江戸時代の庚申塔が7基ある。手前には明治2年(1869年)の手水石がある。

西行伝説

船形の西行寺に伝えられている『西行因縁記』には、西行とその妻「呉葉の前」の悲しい伝説が書かれている。西行は鳥羽上皇の北面の武士として活躍し、呉葉の前を妻としたが、ほどなく出家し、諸国行脚の旅に出る。呉葉の前は2人の子どもと寂しい日々を送っていたが、子ども達も病気で亡くしてしまい、自らも出家し旅に出た。やがて安房に入った呉葉の前は、船形に庵を結んで念仏を称える日々を送っていたが、若くして亡くなる。村人たちが呉葉の前の死を悼み、塚を築いて一本の柳の木を植えたので、この地を柳塚というようになった。その後西行がここを訪れ、呉葉の前の菩提のために西行寺を建てたという。


館山市博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5121

根岸・川名・小原

港を持つ漁村船形の後背地にあたる根岸と川名の岡集落と、さらに谷奥の小原。鎌倉道といわれ明治時代までの脇往還として多くの人びとが行き来した木の根道周辺の、豊かな文化を探訪しましょう。

根岸(ねぎし)エリア

(1) 船形藩陣屋跡

 元治元年(1864)から慶応4年(1868)まであった船形藩の陣屋だった場所。若年寄の平岡丹波守道弘が1万石で船形藩をおこした。陣屋の建設途中で明治となり、他の大名にさきがけて領地を奉還して船形藩は廃藩となり、平岡道弘は徳川宗家の静岡藩家老になった。

(2) 名主古屋敷

 船形村の世襲名主の古屋敷で、石垣が残っている。元禄大地震後に現在地へ移転するまでの屋敷地。地震で海岸に隆起地ができると、どんどん川の河道に古川新田を開発し、宝永3年(1706)に領主から屋敷地を拝領して海に近い現在地へ移転した。名主家は里見氏家臣の後裔とされ、江戸時代は川名村の名主を兼ねることも多かった。船形は川名から分かれた村とされている。

(3) 木の根道切通し

 房総半島をめぐる中心的な往還の一部で、千葉方面から内房を通って館山へいたる道。岩井の市部から八束の丹生(にう)へ出る木の根峠を経て那古へ至り、館山や府中へ向かう。船形藩陣屋や名主古屋敷がこの道に面しているのも、重要な街道沿いという立地条件からで、かつて大街道と呼ばれていた。切通しは明治40年に切り下げ工事が行われたもので記念碑がある。もとはわずかながら峠になっていた。

(4) 根岸三荒神(御霊神社・大六天神社・竃神社)

 根岸区の御霊神社(高皇産霊神(たかみむすびのかみ))・大六天神社(午頭天王(ごずてんのう))・竃神社(奥津彦之神(おくつひこのかみ))の三社を根岸三荒神(こうじん)と呼んでいる。御霊神社にある明治45年の水神宮は、船形陣屋跡地に祀られていたという。また、かつて三宝荒神と呼ばれた竃(かまど)神社には嘉永元年(1848)の馬頭観音がある。

(5) 里程標

明治26年(1893)の里程標(りていひょう)。東京や千葉県庁・佐倉、近隣町村などとの距離を表示している。当時の町村ごとに建てられたもので、これは船形町の里程標。船形と那古を結ぶ道と木の根道との交点に建てられたもの。この近辺は古川新田として元禄地震の翌々年宝永2年(1705)に開発された。このとき、どんどん川の流路は岩山を削って東寄りに付け替えられている。川名の町場は新町といわれるが、この地震での隆起以後に人が住めるようになった。

川名(かわな)エリア

(6) 金比羅神社

 四国から来た漁師が江戸時代に建てたと伝えられている。手水石は、天保15年(1844)のもの。

(7) 等覚院跡

 那古寺への古い参道に沿ってあった修験(しゅげん)寺院の跡。現在は安永4年(1775)に川名の行者秀善が四国八十八か所を巡礼した供養塔や、3基の庚申塔<石宮形・文化6年(1809)の青面(しょうめん)金剛の文字塔・文政11年(1828)の青面金剛像>、安政4年(1857)・慶応2年(1866)の馬頭観音像、明治42年(1909)の牛頭(ぎゅうとう)観音、明治6年(1873)の牛供養塔、そのほか出羽三山碑、明治5年(1872)の石宮があり、高台には天保14年(1843)の山三(やまさん)講の浅間祠(せんげんし)が祀られている。

(8) 千日堂

 修験等覚院の隠居所として戦国時代初期に建てられたという。船形村名主家の墓所に、江戸初期の寛永年号の古い墓もある。本尊は江戸時代初期の地蔵菩薩坐像。入口に享保18年(1733)の三界万霊塔、文政8年(1825)の弘法大師供養塔がある。

(9) 長勝寺

 釜沼山普門院長勝寺といい、真言宗の寺。釜沼山は寺の裏山で野高と呼ばれ、かつて寺領の水田があり、水田の中央には弁天様が祀られていたという。現在は本堂左手の池に移されている。本尊は地蔵菩薩で、南北朝期の木造坐像。明治5年(1872)に金剛宥性(ゆうしょう)が選定した安房百八地蔵尊の第10番札所で、ご詠歌の額が掲げられている。里見氏から1石の寺領を与えられていたが、徳川氏からは認められなかった。墓地には中世の五輪塔の笠石が残されている。

(10) 日枝神社

 川名の鎮守で、山王権現と呼ばれていた。那古寺の旧本堂から東北に位置して、那古寺の鬼門除けであったといい、那古寺の境内にある日枝神社はこれを分祀したものという。石灯篭1組は似た形をしているが、文化14年(1817)と明治4年(1871)のもの。

小原(こばら)エリア

(11) 若一神社<若一王子明神>

 小原の鎮守。「若一王子明神」は紀州熊野大社に祭られる神で、「にゃくいちおうじ」と読むことが多い。本来は「わかいちおうじ」と読む。中世に熊野権現が各地に祀られるようになり、天照大神を祭神とすることが多いが、ここではその父イザナギを祭神にしている。房総に多い熊野信仰のひとつだが、若一王子を中心に祀るのはこのあたりでは少ない。別に「若女一王子」「若宮王子」「若王子」などとも呼ぶ。八束地区に多い若王子の名字は、この信仰と関係があるのかもしれない。境内に安政4年(1857)の手水石と日露戦役の従軍記念碑がある。小原からの従軍者は11人。

(12) 菅ノ入横穴墓群

 ふたつに分かれた丘陵先端部にあり、西側の丘陵先端に28基、東側の丘陵先端に6基ある。古墳時代の横穴墓で、西側には「人王六十五代天王■代天神七代」の文字が刻まれている横穴や、複室形式につくった特殊な形のものがある。

(13) 稲原貝塚

 那古小学校の裏山にある。昭和27年に発掘調査が行われて、縄文早期の土器や外洋性の貝類、鏃(やじり)として使われた黒曜石が刺さった状態のイルカの骨などが出土している(市立博物館で複製を展示)。「かいがらばたけ」と呼ばれる場所もある。

(14) 山口路米句碑

 個人墓地にある。路米(ろべい)は房州の俳諧宗匠(そうしょう)として知られた雨葎庵(うりつあん)四世で、本名は山口茂兵衛といい、小原村名主でもあった。明治34年(1901)の句碑は70歳の古希記念のもので、「出てみれは 出てよき日なり 長余なり」とある。また弘化4年(1847)の先祖供養碑には、「逢ひかたき 御法(みのり)の流れ 山口の 行すへ永く 住むよしもかな」という歌が刻まれている。

(15) 稲荷神社

 若一神社の末社。境内に文政9年(1826)の庚申塔、文政10年の金毘羅講供養塔、明治13年(1882)の古峯講の供養塔などがある。

(16) 稲原弁天

 水をたたえた洞窟に祀られている弁天様。那古小裏の白岩弁天の池とつながる洞窟といわれている。傍らの碑は、日露戦役で中国の松樹山(しょうじゅさん)攻撃で戦死した歩兵山根長吉の忠魂碑である。明治40年(1907)の建立で、題字は北条にいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房(みちふさ)の筆、文章は安房中教師で『安房志』の著者斎藤顕忠(東湾)の作である。


監修 館山市立博物館