西岬地区香・塩見

平城宮跡で発見された古代の荷札に、1250年ほど前に奈良の都へアワビを運んだ賀宝(かほ=こう)と塩海(しおみ)の人々がいたことが書かれていた。古代から海とかかわってきたこの土地の歴史を歩こう。

香(こうやつ)エリア

(1) 浅間(せんげん)神社

 香の鎮守で、富士山の神が祀られている。毎年5月31日が「お山」と呼ばれる山開きで、山頂の奥の宮にはだしで登る風習がある。参道には嘉永元年(1848)の石灯篭があり、社前には地元で地引網を営業していた田村網の弥惣兵衛が寛政13年(1801)に奉納した手水石と、田村網で働いていた若者たちが天保12年(1841)に奉納した手水石がある。裏山山頂には奥の院が祀られ、天保11年(1840)の手水石がある。また浜には神社へ向いた鳥居と文政10年(1827)の石灯篭がある。

(2) 祭面(まつりめん)の庚申塔(こうしんとう)

 「庚申青面金剛童子」の文字と三猿が刻まれている庚申塔。享保3年(1718)のもので、与兵衛夫妻はじめ8軒の夫婦で建立した。むかしは南側の高台にあったが、穴から落ちてしまったので、与兵衛屋敷の現在地に立て直したものだという。昔は「お猿さんのお籠もり」という庚申講が行われていた。

(3) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)と要害(ようがい)

 市指定文化財になっている応永8年(1401)の宝篋印塔をふくめて、2基の宝篋印塔と5基の五輪塔がある。裏山中腹のヤグラにあったが、戦時中に軍の施設建設が行われて下ろされた。里見の武将5人の墓という伝説がある。裏山はヨウガイ(要害)と呼ばれ、里見の出城と伝承される戦国時代の城跡。里見家落城のとき2人の武士が逃げてきて切腹したという伝説をもつ中世の五輪塔が、別のお宅の庭の崖にも据えられている。

(4) 金剛寺

 真言宗で大明山という。寛政11年(1799)と文化元年(1804)の光明真言塔が目に付くが、無縁仏のなかに香谷村女念仏仲間19人が建立した如意輪観音像がある。元禄前後のものであろう。

(5) 地蔵堂(上の堂)

 墓地には念仏講による元禄13年(1700)の地蔵尊像や、同講の女性12人が元禄7年(1694)に建立した如意輪観音像がある。如意輪観音像には香村を「かう村」と書いているのが注目される。ほかに寛政8年(1796)の出羽三山碑がある。

(6) 下の堂

 宝永4年(1707)に地元の鈴木七右衛門(蓮求)が日本廻国を成し遂げた記念の廻国塔があり、三界万霊塔・名号塔を兼ねている。また明和5年(1768)に大坂の人が廻国中に建てた廻国供養塔や、豊後国国崎郡(大分県)の人のために地元の弥惣兵衛らが建てた文政11年(1828)の「南無阿弥陀仏」の名号塔がある。

(7) 香掩体壕(えんたいごう)跡

 館山海軍航空隊の航空機格納庫としてつくられた施設で、宮城から香にかけては40か所ほどあったという。現在もはっきりと残されているのは、ここと宮城地区の赤山裏だけである。

塩見(しおみ)エリア

(8) ナナツボラ(横穴墓・ヤグラ)

 坊山の南側にナナツボラと呼ばれる7つの横穴が並んでいる。ボラとは洞(ほら)穴のこと。古墳時代の横穴墓としてつくられ、南北朝から室町時代頃にヤグラとして改造され再利用されたもの。一番左のヤグラには3基の五輪塔が陽刻され、ほかのヤグラにも五輪塔の痕跡が残るものがある。中央部には窟堂として利用された痕跡もみられる。

(9) 善栄寺

 真言宗で、安養山という。本尊はあざとり阿弥陀として信仰される阿弥陀如来。門前の石造地蔵尊は寛政元年(1789)の厄除地蔵、その向いにある万延元年(1860)のお百度石は楠見の田原長左衛門作。阿弥陀様へのお百度参りのために建てられたもの。終戦後に地区内にあった真言宗の宝蔵寺を合併している。安房百八か所地蔵の第九十九番札所で、明治6年(1873)の御詠歌額が松の堂に残されている。

(10) 御嶽(みたけ)神社

 日本武尊を祀る塩見の鎮守。本殿の彫刻は後藤三四郎作とあり、千倉の彫刻師後藤義光の師匠である江戸の後藤恒俊と思われる。境内にある岩はご神体岩と伝えられている。山王権現などの石宮の周囲には倒壊した文政11年(1828)の鳥居が残されている。

(11) カナクライシの橋

 一般的にはビーチロックといい、サンゴ礁が発達する海で潮間帯に多く見られる石。炭酸カルシウムによるセメント作用で海の堆積物が固まったもので、板状の石灰質砂礫岩である。短期間で固まるので櫛などの人工物が混ざっていたりする。わが国の約200地点に分布しているビーチロックのうち93%はサンゴ礁の発達海域にあるそうだ。塩見ではカナイシ・カナクライシと呼び、切り出したものを二か所で橋として使っていたが、一か所は大水で流されてしまった。

(12) 大屋敷墓地

 地蔵堂の墓地。無縁墓のなかに廻国納経修行塔がある。広島県中野村の女性の墓石で、明治43年(1910)に37歳で没している。巡礼中にこの村へ滞在して亡くなったようで、明治29年(1896)に亡くなった弟妹と思われる二人の少年少女の法名もある。

(13) 松の堂

 江戸時代の幕府老中で奥州白河藩主の松平定信が訪れ、臥龍松と名づけた巨松があった観音堂。安房郡札観音の三十番札所で、「霧の海 霞に浮かぶあま人の むりの願いも浜の観音」が御詠歌。松は東西に50mも枝を広げていたが、大正の大震災頃から枯れはじめ、戦争中に消滅した。名勝として知られていた。跡地には旧道から松の堂への入口に建てられていた道標が移設されている。明治26年(1893)のもの。墓地には文化7年(1810)、尾張国日間賀島(愛知県知多郡)の八幡丸船員の墓がある。この地で亡くなったのだろう。

(14) 中原淳一詩碑

 少女雑誌の編集や人形作家・挿絵画家、またファッションデザイナーなど多彩な活躍で知られる中原淳一が、かつてここ塩見で療養していた。昭和36年(1961)に初めて訪れ、昭和58年(1983)に館山で永眠した。70歳。詩碑は平成14年に建立された。

(15) 出羽三山碑

 同じ家3軒で建てた出羽三山碑が2基あり、大日如来像が乗る方は寛政6年(1794)のもの。ほかに念仏講による文政7年(1824)の「南無阿弥陀仏」の名号塔と、文化4年(1807)頃の子育地蔵尊が並んでいる。地蔵菩薩は子供を抱き、その足元に賽の河原で石を積む子供の姿があるもので、子供を救う地蔵尊の姿が刻まれている。

浜田(はまだ)エリア

(16) 高性寺(こうしょうじ)

 真言宗のお寺で、智福山高性寺という。本尊は虚空蔵菩薩。むかしは浜田の鎮守船越鉈切神社の別当寺だった。神社の祭礼の時には鞨鼓舞の行列がこの寺から出発していた。

(17) 弁天祠

 水神としての弁財天を祀る塚で、この場所は堰から流れる川沿いに位置していた。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

宮城・笠名・大賀

かつては沖ノ島・高ノ島を眼前にした名勝として知られ、昭和になってからは軍事施設が建設されて景観が一変した地域。古代の遺跡から近代の戦跡まで、様々な時代の歴史を探訪しよう。

宮城(みやぎ)エリア

(1) 赤山地下壕跡

 高ノ島との間を埋め立てて昭和5年(1930)に開設した館山海軍航空隊が、太平洋戦争中の防空壕としてつくった施設。全長1.6kmにおよぶ大きな壕で、航空隊の主要部門がこの壕に入る予定だった。治療施設や発電所が備えられていた。

(2) 頼忠寺

 里見忠義の家老だった堀江能登守頼忠が開基した寺で、曹洞宗。頼忠は里見忠義に従って倉吉に赴き、3年後の元和3年(1617)に没して倉吉の大岳院に墓が建てられている。頼忠寺にも供養塔があるが、そばに古い宝篋印塔の石がある。本堂には頼忠の木像も祀られている。墓地に嘉永元年(1848)の三山碑がみられ、旧山門付近にあるナギの大木は安房郡内で確認されているなかでもっとも大きいもの。

(3) 熊野神社

 宮城の鎮守。境内には、幕末の名主で明治初期には戸長を勤め、地租改正に尽力した宮木久左衛門の碑や、上総大堀で海苔養殖を学び、明治時代に宮城の産業に育てあげた蛯原久五郎の碑がある。また境内に奉納されている向拝の彫刻や鳥居・狛犬・手水石などはすべて明治44年(1911)のもので、この年に丘陵部から現在地に移転したという。境内右手の高台には浅間様が祀られている。

(4) 宮城掩体壕(えんたいごう)跡

 館山海軍航空隊・洲ノ埼海軍航空隊の航空機格納庫としてつくられた施設で、宮城から香にかけて40個ほどあったといわれている。はっきりと残されているのは、ここと香地区の浅間山下だけである。

(5) 薬師堂跡

 頼忠寺持ちの薬師堂があった。宮城村の名主家の墓地には、室町時代から戦国時代にかけての宝篋印塔・五輪塔の一部がある。

笠名(かさな)エリア

(6) 洲ノ空射撃場跡

 笠名から大賀にかけての原に、昭和18年(1943)、航空兵器の整備訓練機関として洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)が開設された。ここはその施設のひとつで、戦闘機の機銃調整の試射を行なった全国的にも珍しい施設である。正面にある5基の壕の内部に砂を盛って斜面とし、標的にしたもので、壕周囲のレンガ面には機銃痕が残っている。

(7) 天神山

 かつて天神宮が祀られていたが、洲ノ空開設によって神明神社に合祀された。この山には洲ノ空で利用した防空壕があるが、洲ノ空の指令部が使用する予定だったという。山の東側には昭和16年7月30日設置の東京湾要塞第一区地帯標があり、山の南側にはコンクリートで覆われた半地下式の防空壕も残されている。なお館山海上技術学校の正門横に洲ノ空の記念碑が建てられている。

(8) 神明神社

 笠名の鎮守。境内に31貫・38貫・28貫と刻んだ力石がある。隣に真言宗の長泉寺がある。

(9) 安楽寺

 浄土宗の寺。江戸時代前期の1680年代に笠名村の領主石川八十郎が念仏道場として創建した。境内に天保3年(1832)の出羽三山碑、宝暦4年(1754)と宝暦13年(1763)の日本廻国供養塔がある。参道にある大きな石のお地蔵様は、念仏講が享保14年(1729)に寄進して建てたもの。

大賀(おおか)エリア

(10) 天王山横穴墓

 かつてこの上に天王様を祀っていた。洲ノ空開設によって積蔵院の北側に移されたが、今も天王講が続けられている。岩山の北面に洲ノ空の防空壕に使われた壕があるが、古墳時代の横穴墓を再利用して広げたものである。

(11) 御滝神社

 大賀の鎮守。宝篋印塔と五輪塔を重ねた石蔵様(セキゾウサン)と呼ばれる塔が祀られている。里見の侍が遭難して建てられたと伝えられていたが、洲ノ空の開設によって大賀の原の中からここへ移されてきた。ほかに念仏講が寄進した万治2年(1659)の山王大権現、享保12年(1727)の庚申塔が祀られているほか、天保9年(1838)の手水石がある。境内のタブノキも大きなもの。

(12) 積蔵院(しゃくぞういん)

 真言宗の寺。江戸時代の後期に寺子屋を開いていた住職祐敝の筆子塚がある。天保10年(1839)に没し、弟子たちによって建てられた。県道沿いには天明2年(1782)の出羽三山碑、文化6年(1809)の西国・坂東・秩父百観音巡礼塔があるほか、境内にも文政12年(1829)の百観音巡礼塔がある。

(13) 従軍慰安婦の碑

 かにた婦人の村に入所していた元従軍慰安婦の意思により、深津牧師が敷地内の山頂に昭和60年に建設した。また同敷地内には洲ノ空中島分隊が昭和19年8月に建設した戦闘指揮所の壕もある。


監修 館山市立博物館

岡沼・柏崎

沼地区周辺は、明治時代に豊津村と名付けられた。豊かな港になろうという意味。海とともに歩んだ沼地区の歴史を歩こう。

岡沼エリア

(1) 十二天神社

 千葉県で最大のビャクシンの木がある。推定樹齢 800年。幹の周りは7.45m、高さ17m。枝は東西20m、南北24mに広がり、11本に枝分かれしている。ハゼノキ・イヌビワ・シロダニ・マサキ・トベラなどが着生している。社殿の向拝にある龍の彫刻は、館山藩の絵師だった川名楽山が明治時代に奉納したもの。作者は安房を代表する彫刻師の後藤義光。

(2) ヒカリモ・沼サンゴ層

 ヒカリモは、この一帯の山裾の洞窟に点在している。黄金色に輝く藻。ミクロ単位の小さなもので、水中に浮かび、気候の条件によって水面に膜をはる。ヒカリモ自身が光を出すのではなく、外の光が細胞の奥で反射され、細胞の色素によって美しい黄金色に輝く。沼サンゴ層もこの一帯にあり、県の天然記念物。75種類のサンゴ化石がある。約6000年前の縄文海進のときに育っていたサンゴが、土地の隆起によって標高20mのところで化石になったもの。「キクメイシ」と呼ばれたりしている。香や南条・出野尾などでも見ることができる。

(3) 薬師堂

 むかしは真言宗の広徳院といった。墓地のなかに中世の石塔や残欠や享保元年(1716)の西国巡礼の塔がある。堂のなかには沼の絵師勝山調が描いた「スサノオの図」の額がある。

(4) 天満神社

 平安時代の国司源親元が建てたとされている。境内には地元の絵師川名楽山の記念碑(明治33年)や枇杷山開拓者法木翁の碑(昭和44年)、溜池竣工記念碑(昭和28年)があるほか、書家小野鵞堂が揮毫した明治35年の菅公一千年祭記念碑、北条にいた伯爵万里小路通房が題額を書いた拝殿改築記念碑(大正8年)などがある。菅原道真の歌を書いた明治35年の植樹記念碑もある。

(5) 石塚のヤグラ

 上の台地には墓地があり、むかしは地蔵堂だった。南側の道にそって中世のヤグラがあり、その壁面には4基の五輪塔が浮き彫りされていた跡がわかる。鎌倉時代から室町時代のこの地域の武士の墓だろう。

(7) 総持院

 真言宗の寺院。平安時代の国司源親元が永長2年(1097)に建てたと伝えている。里見時代の古文書が伝わっていて、里見義康が天正19年(1591)に寺領を寄進したものと、里見忠義が慶長11年(1606)に寺領を与えたときのもの。境内には、沼の絵師で狂歌師だった勝山調の辞世の狂歌碑がある。寺の北側にある観音堂には、山調の娘クラ女の墓がある。

(8) 大寺山洞穴

 標高25mにある海食洞穴。高さ3m、奥行25m。古墳時代に墓として利用され、発掘調査で人骨・土師器・須恵器・大刀・短甲二種類・丸木舟などが出た。ヤマト王権と結びついたこの地域の実力者のもの。近年の調査では棺につかったたくさんの丸木舟が出ており、海の道を支配した安房の海人の墓とされている。保存のため、現在は立ち入りは禁止。

柏崎エリア

(6) 浄閑寺

 浄土宗の寺院。墓地のなかに、天保13年(1842)に建てられた鯨漁の供養塔がある。また本堂横には山の神と思われる金太郎の石像がある。

(9) 国司神社

 平安時代の1096年~1100年まで、安房国の国司だった源親元を祭神にしている。仏教を通して安房の政治を行い、人々に慕われた人物。勤めを終えて京都に帰るとき、柏崎から船で出発したが、その時別れを惜しむ人々に着物の袖を与えた。親元の死後屋敷跡に袖を祀ったのが神社の始まりだとされている。神社横の広場は、むかし国司神社を管理していた泉光院という寺の跡。境内には天保3年(1832)の石鳥居と石灯籠や、豊津村の日露戦争碑があり、階段下には宝暦5年(1755)の廻国供養塔がある。

(10) 鈴木家住宅

 江戸時代に盛岡藩(岩手県盛岡市)南部氏の廻米を扱う御穀宿という船宿だった。南部屋と呼ばれて、藩から赤門を建てることを許されていた。高の島湊へ藩の船が風除けに避難してくると、積荷の保護や乗員の世話などをした。明治時代になって医者になり赤門病院と称した。住宅は大正の大地震直前に建てられた本格的な洋館。

(12) 西の浜青年館(西の浜)

 大正3年(1914)に館山町で建てた道路元標がある。もとは西の浜と上須賀の境のバス通りに建っていた。ちなみに館山地区公民館に、明治26年(1893)に豊津村が建てた道路元標もある。もとは宮城の豊津ホール入口にあったもの。

(13) 地蔵尊(上須賀)

 見留橋のたもとにある地蔵尊。江戸の法心と千葉の浄心という日本廻国の行者が、江戸時代中期の享保年間に建てたもの。右にあるのは文化9年(1812)に十九夜講で建てた如意輪観音。十九夜講は、女性たちが安産祈願をする子安講のこと。

鷹の島エリア

(11) 鷹島弁天閣

 高の島の弁天様は、平安時代の嘉保年間に源親元が勧請したといい、漁師の信仰をうけてきた。大正10年(1921)には湾内12の網主が、魚付林としてマテバシイ 300本、杉50本を植樹している。境内には大正15年に建てた大正地震紀念碑がある。題字は貴族院議長の徳川家達、撰文は千葉県知事の元田敏夫。社殿前の手水石は館山海軍航空隊が奉納したもの。社殿周囲の玉垣は地元の人ばかりでなく宮城県や茨城県などの船主も寄進している。波切不動もあり、海で生活する人々の信仰の様子を伝えている。


監修 館山市立博物館

城山とその周辺

戦国大名里見氏最後の居城・館山城。城山とその周辺を歩いて、城跡をたどってみましょう。

(1) 館山神社(たてやまじんじゃ)

 関東大震災で倒壊した館山町内の神社を合祀して、昭和5年(1930)に新しく建てられた神社。合祀されたのは、新井と下町の氏神だった諏訪神社と、中町と上町の氏神だった諏訪神社、上須賀にあった稲荷神社と八坂神社、楠見の厳島神社、城山南麓の御屋敷にあった稲荷神社。境内には、地元出身の大相撲力士錦岩が奉納した文政9年(1826)の手洗石がある。また文政11年(1828)に江戸深川の鈴木某が奉納した鳥居の脚が槙の植樹記念碑に再利用されている。狛犬は楠見の石工・俵光石の作で、大正6年(1917)の銘がある。光石は東京美術学校で高村光雲の指導を受け、石彫科助手を勤めたことがある。

(2) 城山(しろやま)

 現在、地名になっている「館山」は、もともとこの城山のことをさしていた。戦国大名里見氏の居城跡だが、明治時代に山麓から里見氏以前のものである中世の五輪塔や陶磁器が掘り出されており、古くから武士の城館だった。里見氏が慶長19年(1614)に移封された後は、江戸時代後半に稲葉氏が館山藩をたてて、城山南麓に陣屋を築いた。太平洋戦争中に高射砲陣地となり、山頂や周辺がかなり破壊されたが、戦後は城山公園として整備された。(城山内の文化財については、別刷のマップ 「城山の文化財にふれよう!」をご覧ください)

(3) 熊野神社(くまのじんじゃ)と熊野堂(くまんどう)

 神社とお堂がある山が熊野山と呼ばれている。熊野堂には、中世の宝篋印塔の笠石部分がみられる。熊野山の南西の水田はかつて沼だったところで、館山城の城崖跡とみられる切岸が残っている。

(4) 慈恩院(じおんいん)

 曹洞宗のお寺で、館山城主里見義康の菩提寺。もとは歴代の持仏堂として城内に創建されていた。慶長8年(1603)に没した義康の墓所がある。墓地には、市内ではあまり例をみない中世の陽刻五輪塔がある。また幕末から明治にかけて活躍した沼出身の絵師・川名楽山や、東京高等商業学校長だった坪野南洋の墓などがある。館山藩士の墓も多い。入口付近には、里見義康のときに構築された鹿島堀に関する由来碑がある。「鹿島堀」の名は、義康が加増をうけた常陸国鹿島の領民が普請したとのいわれによる。堀の遺構として現在見ることができるのは、泉慶院跡の池と、御霊山・天王山をめぐるように残された堀跡だけ。発掘調査などから、城山の東南から北側にまで、ぐるりと水堀がとりまいていたと推定されている。(別刷のマップ「慈恩院の文化財解説」をご覧ください)

(5) 妙音院(みょうおんいん)

 高野山金剛峯寺の直末のお寺で、古義真言宗。天正7年(1579)に里見義康が高野山から僧を招いて創建したと伝えられる。境内には中世宝篋印塔の一部が残る。裏山には、四国八十八ヶ所の霊場をうつした「安房高野山八十八ヶ所」がある。縁起によれば、明治28年(1895)に上総の老婆がやってきて霊場をつくるように説いたという。石工の俵光石など、地元の人々が88体の弘法大師の石像を奉納して完成させた。その後桜の名所として有名になったが、昭和20年に戦災を受けて本堂が焼失した。鐘楼堂の焼け跡が、戦災の様子をいまも伝えている。

(6) 泉慶院跡(せんけいいんあと)

 ここに曹洞宗の寺院があった。開基は智光院殿という。この人は、足利義明の娘で青岳尼といい、鎌倉太平寺の尼僧だった。寺を捨てて安房へ渡り、還俗して里見義弘の妻になっている。開山は淳泰和尚で、義弘の息子梅王丸のこと。梅王丸は義弘の死後に兄義頼と家督を争って敗れ、出家させられた人物。梅王丸の母は義弘の後室で足利晴氏の娘。青岳尼ではない。里見氏の時代には160石もの寺領を与えられて保護されていたが、江戸時代は7石となり衰退した。墓地に開基と開山両人の供養塔がある。池は館山城の鹿島堀の一部。泉慶院を含めた館山城跡の東南一帯は寺院が多い。このあたりは館山城の外郭としての役割があったと考えられている。

(7) 大膳山跡(だいぜんやまあと)

 大膳とは、上総小田喜城を本拠地とした里見氏の重臣・正木氏の家督を継いだ二代目正木大膳亮時茂(時堯の名で知られる人)のこと。二代目時茂は里見義康の弟で、忠義の時代には実質的に里見家をきりもりした。その居住地として大膳山・大膳屋敷などの名前が残されている。

(8) 御霊山(ごりょうやま)・天王山(てんのうやま)

 城山だけでなく、この御霊山・天王山のあたりまで、館山城の城郭であった。両方の山をめぐるように、山の腰に堀の跡がはっきりと残され、北から東にかけては切岸になっている。発掘の結果、水堀であったことが確認されている。

(9) 宗真寺(そうしんじ)

 市内で唯一の真宗の寺院。里見氏の移封後に館山の領主になった旗本の石川八左衛門が、現在の境内地に創建した。檀家は関西方面から江戸時代に移住してきた家が多い。もとは館山城の馬屋があったと伝えられる場所である。

(10) キリスト教共同墓地(きょうどうぼち)

 明治年間に医療伝道のため来日した、イギリス出身のコルバン夫妻がここに眠っている。コルバン医師は、自身の療養のため明治末から大正にかけて市内八幡に住み、結核療養所を開いた。コルバン医師の没後、夫人は安房各地で伝道を行って教会を建て、南三原・和田・鴨川などに幼稚園も開設した。コルバン夫人は昭和15年(1940)に亡くなり、コルバン医師の眠るこの墓地に葬られた。


監修 館山市立博物館

館山城下町

館山城を居城とした里見氏は、館山の町の基礎を築きました。
今回は、里見氏がつくった城下町、楠見、上町、仲町、新井、上真倉を中心に巡ってみましょう。

(1)枡形

「ますがた」と呼ばれる場所で、城郭の入り口にあたり、出陣の際、兵の集まる所でもあった。

(2)上仲公園

仲町上町の諏訪神社があった場所。大正12年(1923)の関東大震災後に館山神社になったため、現在は公園になっている。

(3)仙台藩役所跡

仙台藩の廻船役所があったところ
藩の年貢米などを輸送する船や改めや、船が難破した際の世話をするところで、藩士2人が詰めていた。

(4)食い違い道

道路を直交させないでわざとずらして交差させた道を「食い違い」という。
碁盤の目をような道路が便利だが、あえて食い違いにすることで、敵の侵攻を妨害する効果がある。

(5)源福院跡

明治21年(1888)の館山の大火で焼失した小谷山源福院の跡地。三福寺の隠居寺だった。浄土宗。
明治11年(1878)に71歳で亡くなった中興開山の信蓮社順誉上人(鳥取出身)の墓がある。前面左側には「ちる蓮で すくひためへや 南無佛」という辞世の句がある。

(6)長福寺

普門山長福寺。真言宗の寺院。寛政元年(1460)創建。新井浦の名主だった嶋田三郎兵衛家が大檀那だった。
中世の石造六地蔵尊が祀られている。千葉家、高梨家などの館山藩士や館山藩医宮川元斎の墓があるほか、戊辰戦争の際箱根に出陣した館山藩関係者の供養塔「寄子万霊塔」、遭難した仙台藩士の墓などがある。

(7)三福寺

観立山三福寺。浄土宗の寺院。文明3年(1471)創建。
里見氏の時代に城下町の商人頭だった岩崎与次右衛門家(のちの館山仲町名主)が大檀那だった。
館山藩儒者で郡奉行の新井文山の墓と記念碑がある。
里見義康が三福寺住職の望みを聞いたところ「河流を寺領として貰いたい」と言ったとされる。河流を寺領にするということは、汐入川河口を利用する権利を指すものと思われる。三福寺が流通に関わりをもち、土地の代わりに汐入川の利用権をもっていたのではないだろうか。

(8)諏訪神社

新井と下町の諏訪神社があった場所。館山神社に合祀されたため、現在は新井集会所と下町コミュニティホールがある。
「新井のお船歌」は平成20年(2008)に市の無形民俗文化財に指定されている。

(9)菱沼跡

長須賀の小字で「菱沼」という人工的な台形をした土地。
江戸時代中期の元禄までは汐入川の遊水地として菱沼があったのだろう。
里見氏の時代に船溜として使われていたと思われる。

(10)本蓮寺

光海山本蓮寺。日蓮宗の寺院。開山は日泰という。天正2年(1574)創立。
館山下町の商人中山六右衛門家(里見氏の時代の連雀司(れんじゃくのつかさ)=商人頭だった中山彦五郎の縁者か)が開基檀那。下総中山(市川市)から来たという伝承がある。

(11)妙台寺

長樹山妙台寺。日蓮宗。文亀元年(1501)、日台が創立したという。館山藩士などの墓がある。
明治13年(1880)の題目塔、明治28年(1895)の手水鉢がある。

(12)鹿島掘

里見義康の時代に関ヶ原の戦いの功労で鹿島(茨城県)三万石を加増されたあと、鹿島領民が構築したものと伝えられている。
天王山の下は近年まで水田があった場所で、井戸を掘ったところ、その底には地固め用の割栗石が敷き詰められていたという。
城山駐車場でも水堀跡が発掘されており、慈恩院(19)の前の泉慶院の池も鹿島掘と伝えられている。

(13)御霊山

館山城の東方500mにある山。中段の周囲に鹿島掘がある。
現在では消滅しているが、昭和50年(1975)頃には、堀跡が麓から大膳山に向かって延びているのが、航空写真でもはっきり確認できる。

(14)宇和宿

「うわじゅく」と読み、「上宿」のこと。
北西にある刑場跡付近を「下宿(しもじゅく)」と呼んでいた。里見氏以前からの市場機能を持つ中世の宿が置かれていたとされる。かつて下宿から汐入川を渡って青柳と往来できた。

(15)神明神社

建長元年(1249)に安西八郎が伊勢大神宮より勧請したという。真倉村の鎮守。
境内には上真倉の集会所がある。

(16)真楽院

小河山真楽院。曹洞宗の寺院。由緒書には里見義頼の娘が正木家に嫁いで初産の時、東条家の家臣だった戸倉玄安が調薬を任され、母子とみに安泰であったと伝え、玄安が安産守護の三神を祀った寺。

(17)泉慶院墓地

曹洞宗の寺院で、元亀2年(1571)に里見義弘によって創建された泉慶院があった。開基は義弘室の智光院殿(青岳尼)。
本堂はなくなったが、墓地には開山塔と開基塔がある。

(18)妙音院

光照山医王寺妙音院。古義真言宗の寺院。
天正7年(1579)に里見義頼の命により、高野山妙音院の快算法印が開基になった。安房高野山と称される。

(19)慈恩院

藤谷山慈恩院。曹洞宗。里見義康の弟である玉峯和尚が天正9年(1581)に創建したと伝えられる。
もとは城山の頂上にあった義康の持仏堂で、館山城築城の際に現在の場所に移したとされる。
里見義康の菩提寺で墓所がある。門前には鹿島掘の由来碑がある。

(20)大膳屋敷跡

館山城域内にはかつて大膳山があり、そのふもとに里見家一門衆の頭、正木大膳の屋敷があったと伝えられる。

(21)采女の井戸

江戸時代に、稲葉氏の館山藩の陣屋があった場所を「御屋敷」とよぶが、里見氏の時代には重臣屋敷があったと伝えられる。
里見忠義の重臣印東采女の屋敷の井戸を、今も「采女(うねめ)の井戸」という。

(22)館山城切岸

切岸(きりぎし)とは、山の斜面を垂直に削って人工的に作った城壁のころ。城山の周囲をぐるりと巡っている。


〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

北条(南町・新宿・長須賀)

安房の中心地として、多くの人々が行き交う北条地区。南町・新宿・長須賀エリアには、古くからの建築物が多く残っています。いつもの道をゆっくり眺めて、町の歴史を味わってみましょう。

南町(みなみちょう)エリア

(1)蛭子(ひるこ)神社

南町の鎮守で、江戸期の別当は北条北町の不動院が務めていた。「蛭ヶ島権現(ひるがしまごんげん)」とも呼ばれることから、この地はかつて、島状になった川の中州だったと考えられる。境内には、安政6年(1859)に当村(北条村)の釜屋茂兵衛・山田金助が奉納した手水鉢(ちょうずばち)や、無銘の力石がある。また、明治38年(1905)に石垣を築いた際の寄付者51名と世話人3名(稲向儀兵衛・川名惣吉・渡辺恒三郎)の名を記した石垣の一部が残る。

(2)金台寺(こんたいじ)

浄土宗のお寺で、海養山龍勢院金台寺という。文明8年(1476)の創立と伝えられ、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭昌誉順道上人を迎えて開基とした。4世豪誉上人は里見義康の伯父であり、寺領60石を与えられるなど、里見氏の厚い保護を受けていた。江戸時代も朱印地60石を引き続き認められている。墓地には、正徳元年(1711)に北条藩の領民が決起した万石騒動で領民側にたって処刑された代官行貝(なめがい)弥五兵衛親子の墓や、明治の初めに打ち首となった義賊赤忠(あかちゅう)の墓がある。また本堂裏手には、明治36年(1903)から30余年の間、北条に住み、安房中学校で水泳・柔道を指導した本田存(ありや)先生の墓もある。金台寺は、大正2年(1913)に六軒町にあった浄円寺(じょうえんじ)を合併しており、同寺にあった板碑形五輪塔2基も伝えられている。

新宿(しんじゅく)エリア

(3)神明神社

新宿の鎮守で、神明町の神明神社(大神明(おおじんめい))に対して「小神明(こしんめい)」呼ばれていた。狛犬は大正9年(1920)に新宿区の女性9名と富浦村岡本の女性1名の計10名が奉納したもので、彫刻師は千倉の3代後藤義光、石工は長須賀の石勝である。境内には力石や戦国時代のものと思われ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠石がある。神社裏手が一段低くなっており、砂丘上に位置していることが分かる。

(4)海蔵寺(かいぞうじ)

長新山海蔵寺といい、かつては真言宗のお寺だった。延亨4年(1747)建立の幸福地蔵、天保9年(1838)奉納の手水鉢、安政5年(1858)奉納の永夜塔がある。墓地には幕末の寺子屋師匠・田井義明の石碑や、関東大震災の被災者を弔うために北条町青年団新宿支部が建立した「恭用震災殃死(おうし)者諸民之霊」碑がある。

長須賀(ながすか)エリア

(5)安房高等女学校跡

現在、千葉県職員住宅がある辺りには、昭和6年(1931)まで安房高等女学校(後の県立安房南高校)の校舎があった。同校は明治40年(1907)に安房郡立技芸学校として開校した後、同42年に群立安房高等女学校となり、翌年この地に校舎が落成した。大正10年(1921)に同校が県立となった後も引き続き使用されたが、関東大震災で倒壊したため、北条に新校舎を建設し移転した。

(6)八石三斗(はっこくさんど)

「八石三斗」という小字(こあざ)で、里見氏の時代に製塩が行われていたところ。ここが北条の飛び地になっているのは、この場所での製塩の権利を北条村の人々が持っていたためである。周辺には長須賀の塩場があり、「塩焚(しおたき)」の小字が残っている。江戸時代には六軒町の浜に新塩場ができているが、元禄地震以降、製塩は行われなくなった。

(7)来福寺(らいふくじ)

真言宗寺院で海富山来福寺という。里見氏の時代から江戸時代まで引き続き下真倉(しもさなぐら)に寺領12石を与えられていた。薬師堂には室町時代中頃の木造薬師如来立像が祀られている。境内には彫刻師である初代後藤義光の米寿を祝って建てられた寿藏碑(じゅぞうひ)がある。また、手水鉢は文久3年(1863)に、池田屋金七・糀谷(こうじや)源平など長須賀の有力商人ら14名が世話人となって奉納したものである。安房郡札観音巡礼第21番霊場。

(8)紅屋商店

金物などの専門店である紅屋商店は、明治26年(1893)に和田(南房総市)から移転し長須賀で開業した。現在の店舗は関東大震災に耐えて残った蔵を利用しており、国の登録有形文化財。

(9)小谷(おだに)商店

潮留橋から東に延びる通りは、館山汽船場を利用した物資流通に便利な位置にあり、明治11年(1878)に東京・館山間に汽船が就航した後、問屋街として繁栄した。通りに建つ小谷商店は、おもに車の燃料用や食用の油を扱う問屋で、他に砂糖やメリケン粉も扱っていた。現在の建物は大正7年(1918)頃のもので、関東大震災後に補強と落ちた瓦の葺(ふ)き直しを行っている。昭和40年(1965)頃まで食用油や雑貨・荒物の問屋として営業していた。

(10)稲荷

南長須賀町内ホール前に建つ稲荷社は、昭和40年(1965)頃にホール(旧青年館)を建設した際に建てたもの。それ以前は現在ホールがある場所にあった建物の中に祀られており、「お稲荷さんの集会所」と呼ばれ利用されていた。安政4年(1857)奉納の手水鉢と明治34年(1901)奉納の線香立がある。

(11)表町・裏宿

長須賀のうち表町と裏宿は、里見氏の時代に造成された館山城下町の一部であった。北条の北町からこの辺りまで通り沿いに町家が連続しており、一旦途切れた後、汐入川(しおいりがわ)から城の方向へ城下町が広がっていた。

(12)地蔵跡

現在長須賀の屋台小屋がある場所には、昭和初期まで道沿いにお地蔵様が置かれており、隣の種屋鶏肉店は「ジゾウミセ」と呼ばれていた。この地蔵は現在、(14)熊野神社と宝積院の入口左脇に移されている。

(13)酒のあきやま

寛政年間(1789~1801)創業。以前は秋山酒造店といい、清酒「長楽」やジュース類を製造していたが、現在は小売のみを行う。文政8年(1825)建築の住居が関東大震災でも倒壊せずに残っていたが、昭和32年(1957)に現在の住居に立て替えている。

(14)熊野神社

長須賀の鎮守で、かつては来福寺に鎮座していたと伝えられる。隣接して真言宗の神明山宝積院(ほうしゃくいん)が建つ。入口左の地蔵と佳ぢあの三神社は、(12)の場所にあったものを移したと伝えられる。手水鉢は安政6年(1859)に氏子中が奉納したもの。また、三神社の手水鉢は寛政7年(1795)に奉納されたもので、正面に薬師堂と書かれている。神社裏手に架かる幸橋は、明治26年(1893)建造の石橋。

(15)境橋

新宿と長須賀の間に架かる橋。中世には新宿は北条郷、長須賀は真倉郷に属しており、両郷の境を流れる川が境川と呼ばれた。現在の橋は昭和14年(1939)竣工のもの。


館山市立博物館(2014年11月9日作成)
館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

諏訪神社

正木諏訪神社の概要

 館山市正木の諏訪山の頂上にあります。延喜(えんぎ)元年(901)の創建で祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。大国主命(おおくにぬしのみこと)の第2子と言われ、下宮(しものみや)には大国主命が祀られています。創建当時、諏訪山の麓の集落は白浜郷と呼ばれ、村人は半農半漁の生活を営んでいましたが、しばしば大荒波に襲われその被害に苦しんでいたそうです。延喜元年正月8日の夜に、ある村人の夢に信濃国の諏訪大社の神様が現れ、村人たちが一心に祈ったところたちまち大荒波は静まったので、以来、村人たちは霊験あらたかな諏訪の神様をこの郷にお祀りして、産土神(うぶすながみ=氏神様)として千百年余り崇拝してきました。里見氏・徳川氏からも社領3石を安堵され、明治6年には郷社に列せられるなど、この地区(岡・本郷・川崎・西郷(にしごう))では最も由緒深いお社です。9月27日の例大祭に川崎の八雲神社の御輿が渡御するほか、3人の雅楽師による雅楽が奉納されます。江戸時代にはかっこ舞も奉納されており、三匹獅子の頭(かしら)や文政9年(1826)の銘がある太鼓の胴が残されています。

(1)社名碑

 参道から大鳥居に向かう右側に「郷社諏訪神社」の社名碑がある。関東大震災の復興に約10年間を要し、実施された事業内容が「貯水池工事・下宮新築工事・参道下水コンクリート工事 延長75間・階段コンクリート工事195段・制札場工事・大鳥居新築工事・裏参道改築工事延長105間、昭和7年7月27日竣工」とある。

(2)参道用地寄付記念碑

 大鳥居の右側に、参道及び大鳥居付近の拡張のために土地を寄付した6名の氏名と寄付坪数が記された昭和7年(1932)7月27日建立のコンクリート製の碑(50cm×41cm)がある。

(3)二の鳥居

 御影石で大正12年(1923)9月に建立とある。台座には前面に「奉納」、後面に「那古町正木・平野○○・石井○○・鈴木○○」とかすかに判読できる。関東大震災の年月に建立されていること、倒壊等による損傷痕が見当たらないこと等から、倒壊しなかった強運の鳥居か、建立準備中だったものだろうが、定かではない。

(4)大塚山古墳の石宮

 東屋近くの椎の根本にある石宮は、正木岡地区の大塚山古墳(ひょうたん塚)の頂上にあったもので、昭和30年の中ごろに参道横に移転し現在地に安置された。祭神等の詳細は不明である。

(5)伊勢参宮資本金奉納記念碑

 「奉納永代資本金30円 当区岡伊勢参宮一行」の記念碑がある。裏には同行者30名の氏名と、「明治40年(1907)4月、熊澤直見書(長尾藩藩士(12)項参照)」と記されている。伊勢参宮は、熊野参宮と同じように全国的に人気の高いお参りで、江戸後期頃から講を作っての伊勢参宮が盛んになったといわれている。

(6)金精様(こんせいさま)

 灯篭に「講中」と記され、その奥に金精様と呼ばれる石宮がある。金精様の信仰は、子孫繁栄を願い、性器をかたどった石や木を祀る民族神信仰といわれている。現在、当宮に石棒(せきぼう)は残っていない。また、ここが浅間様と呼ばれていたという証言もある。

(7)富士講祠(ふじこうし)

 明治18年(1885)4月、正木村内の富士講社(山三講と思われる)の人達が建立したもので、社長(先達(せんだつ))・世話人・村内講中の23名の名前が刻まれている。石祠を通してその向こうに富士山が望見できる向きで建てられているが、現在は自然林に阻まれている。

(8)芭蕉句碑

「此(この)神も いく世か経なむ まつの花 芭蕉翁 文酬(ぶんしゅう)敬書」とある。裏面には、文久3年(1863)3月に建立とあり、地元の宗匠雨葎庵(うりつあん)三世・高梨文酬が率いる正木村の丘連(おかれん)中の俳人、諏訪神社の神主関風羅(ふうら)を含む18名の俳号が記されている。

(9)手水石(ちょうずいし)

 神社に参拝する前にお清めの手洗いをするために作られたもので、多くは手水屋(ちょうずや)という建物に覆われている。寛政11年(1799)に奉納された手水石で、前面には「奉納」、裏面には11名の世話人の名前が右より、「篠瀬藤蔵・平野左五兵衛・遠藤安兵衛・鈴木忠蔵・戸倉忠七・黒川喜平次・羽山常七・羽山長八・佐野半七・戸黒又四郎・嵯峨屋武兵衛」と刻まれている。

(10)石灯篭

 文化7年(1810)、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の各名主が、一対で奉納したもの。左基礎裏面には、「江戸芝切通 富山町 石工与七」の名がある。当時すでに伊豆石などの石材は江戸に集められ、全国に発送できるシステムができていた。石工も江戸に開業して各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していった。

(11)狛犬(こまいぬ)

 二匹一対で阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の形で廟の守護神として置かれる。阿形の前面には「奉納」、左面に「明和9年(1772)壬辰2月吉祥日」とある。吽形の前面には「宝前(神前の意)」の文字が、後面には谷田(ヤタ)の「平助・長兵ヘ」の名が刻まれている。

(12)震災復興記念碑

 大正12年9月1日の関東大震災の災害から、氏子一同が諏訪神社復興に尽力したことを記念して、昭和2年(1927)に建立された。記念碑の篆額(てんがく)・撰文(せんぶん)・書ともに、旧長尾藩出身の書家・熊澤直見(なおみ)である。長尾藩の前身である田中藩のころ、祖父は幕府の最高学府である昌平校で学んだ人物。父猶竜(ゆうりゅう)は武芸の師範であり、明治時代に大成した書家小野鵞堂(がどう)に多くの影響を与えた書家でもある。その子が直見で新しい近代社会で活躍した。

(13)諏訪神社自然林 市指定天然記念物 (平成14年指定)

 標高74mの諏訪山山頂にある社殿を取りまく諏訪神社自然林は、鎮守の森として保護されてきた。この自然林のスダジイは、幹回り約3m30cm・樹高約20mのものをはじめ、板根(ばんこん)が大きく張り出したものや、幹周り3m・樹高25mに届きそうな巨木が多い。このほかオガタマノキやヒメユズリハなど樹種が多く、鳥類・昆虫類も豊富で、房総半島を北限とする暖地性植物が多いことが特徴である。

(14)狐塚(きつねづか)の石

 昔、諏訪神社と那古寺がケンカしたときに、諏訪神社が那古寺に向けて投げつけたが途中で落ちた石だという伝説が語り継がれている。もとは山寄りに位置していたが、圃場(ほじょう)整備のため現在地に移転安置された。近くの那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が投げた石もあったという。狐塚とは農業神である田の神の祭場として信仰される場所につけられた呼び名だとされている。

裏参道周辺

 社名碑にある裏参道は「女坂」と呼ばれ、二の鳥居から車道中間の法面(のりめん)の高い所までその一部が残っている。周辺には、「かんじん様」と呼ばれる江戸時代までの神主さんの墓所や、屋敷跡が残っている。現在、「女坂」は車道整備の際に分断されたため通行できない。車道が出来るまでは、神輿は表参道の階段を上り、帰りは裏参道を下りていた。


<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>
監修 館山市立博物館 

那古山

文化財ガイド 補陀洛山那古寺

養老元年(717)に僧行基が建てたとされる。江戸時代に元禄大地震で倒壊したが安房全域におよぶ万人講勧進によって再建された。坂東三十三番巡礼札所の結願寺として知られ、本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、多宝塔など多くの文化財がある。寺の裏山は自然林が保存され、山頂からは市街や対岸がよく見わたせる。

 (※補陀洛:観音信仰の中心地で、眺望がよく、海に臨み、花咲き鳥囀る極楽の境地)

本坊エリア

(1)大蘇鉄

 嘉永7年(1854)に、茨城出身の江戸の力士、一力長五郎が石垣を奉納している。本坊に向かって左側の方に、長五郎の名前が彫られた石がみえる

(2)日露戦争記念碑 明治39年(1906)

 那古から日露戦争に従軍した人の名前を記した碑。表の題字は、陸軍大将の大山巖の書。

(3)三尾重定先生墓 明治43年(1910)

 三尾重定は尾張出身の漢学者で、『房陽奇聞』を著した人。その弟子たちによって建てられた墓。晩年は鏡ケ浦の景色を好み、那古山の式部堂によく立ち寄ったという。

多宝塔エリア

(4)巡拝記念碑 昭和46年(1971)

 那古寺は、観音札所坂東三十三カ所の結願寺。この碑は、東京や横浜、青森などの人が奉納したもの。

(5)庄司雅二郎君之稗 昭和5年(1930)

 豊田村の村長を務めた。安房政友同士会を創設し、明治末から鉄道敷設に力を尽くした。

(6)阿弥陀堂

 県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。この阿弥陀像は、鎌倉時代の作とされる。

(7)多宝塔

 県指定文化財。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、地元の大工たちが再建した。

(8)力石

 昔の人が力比べのために持ち上げた石。一番重いのは、左にある那古の森田治兵衛と江戸湯島の内田金蔵・佐助が奉納した75貫(約281kg)のもの。

(9)石灯籠

 元禄7年(1694)に、那古の人が両親の供養のため建てた。

(10)石灯籠

 江戸時代の延享2年(1745)に奉納されたもの。

(11)百万遍念仏塔 天保7年(1836)

 百万遍とは、大勢で念仏を唱えながら大きな数珠を回す風習のこと。この塔は、唱えた念仏の数があわせて百億回に達したという記念に、正木村や那古村の仲間が建てたもの。

観音堂エリア

(12)手洗石 天保15年(1844)

 上総国勝浦の人が願主となって奉納したもの。

(13)針塚 昭和41年(1966)

 使い古した針を納める針供養のための塚。全和裁団体連合会・安房郡市和裁教授会ほか、約百もの団体や個人によって奉納されている。

(14)納札塚 大正4年(1915)

 観音霊場を巡礼する東京納札会によって奉納されたもの。

(15)観音堂 宝暦8年(1758)再建

 那古寺の本堂にあたる県指定文化財の建物で、銅造千手観音立像(重要文化財)がある。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書によるものである。

(16)白衣観音 寛政6年(1794)

 本堂の修理が終わったことを記念して建てられた。修理に関わった地元の世話人や大工の名前が記されている。

(17)地蔵菩薩 宝暦4年(1754)

 地元の念仏講中が奉納したもの。像のみが宝暦の作で、その他は寛政3年(1791)に再建された。

(18)芭蕉の句碑 文政6年(1823)

 「このあたり 目に見ゆるもの みなすずし」という松尾芭蕉の句が記されている。

(19)岡本純考墓

 明治8年(1875)に17歳で病死した元多田良村名主家の人の墓。

(20)岩船地蔵

 漁業の安全祈願のために、那古の人たちが奉納したもの。約50個の岩船がある。

(21)八大龍王碑 安政3年(1856)

 仙台石の碑で、石巻の高橋屋作右衛門らが那古の船仲間とともに廻船の海上安全を願って奉納したもの。

(22)日枝神社

 安永4年(1775)奉納の石燈籠などがある。

(23)手洗石

 寛政5年(1793)に奉納されたもの。

(24)石段袖石

 石段の右側は明治22年(1889)に作られ、左は大正6年(1917)に改築されたときのもの。神社をとり囲んでいる玉垣は大正11年に作られた。

(25)廻国巡礼塔

 全国を廻る修行者六十六部が建てた供養等。

(26)芭蕉の句碑 明治22年(1889)

 松尾芭蕉の二百回忌を追悼して、館山周辺の俳句仲間が建てた。記されているのは「春もやや 気色ととのふ 月と梅」という芭蕉の句。

(27)和田翁記念碑 明治25年(1892)

 農業の振興につくした地元の和田信造をたたえた碑。

(32)閼伽井(あかい)

 仏様へ供える水を汲む井戸のこと。元禄地震で倒壊した那古寺が再建されていた宝暦11年の石組みが使われている。となりは弁天様。

式部エリア

(28)紫式部供養塚

 紫式部の墓があるという伝説が残る。ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったところだといわれる。

(29)富士講祠 文化14年(1817)

 富士講とは、富士の神様を信仰する仲間のことで、江戸時代の末に江戸を中心に大流行した。これは地元の山三(ヤマサン)講が祀ったもの。

(30)和泉式部供養塚 明治32年(1899)

 平安時代の女流歌人、和泉式部の墓といわれる。こうした伝説の地は全国各地にあるが、明治32年頃にここで病気が治ったとのうわさが広まり、大勢の参詣者が来るようになった。塚は、中世の宝篋印塔の基礎を積み上げてつくったもの。

(31)小式部供養塚 明治32年(1899)

 和泉式部の娘、小式部の供養塚。(30)の和泉式部供養塚と同時に建てられた。

(33)和泉式部塚道しるべ

 潮音台の和泉式部塚への参拝が増えていた明治34年のもの。船形から登る道にも道しるべがあった。


制作:平成9年度博物館実習生
監修 館山市立博物館

亀ヶ原・西郷・府中

古代には安房国の国府がおかれ、中世に至るまで安房地方の中心地だった亀ケ原・府中・西郷に刻まれた歴史を歩いてみよう。

府中(ふちゅう)エリア

(1) 宝珠院

 真言宗のお寺で、金剛山宝珠院といい、江戸時代までは安房国にある真言宗寺院の支配所であり、学問所でもあった。広い境内にいはま本堂(本尊地蔵菩薩立像)と左手の観音堂・清滝権現がある。観音堂は安房国札観音巡礼の第23番札所で、十一面観音菩薩を本尊とする。鎌倉時代の徳治2年(1307)のお像で、もとは西光院という子院の本尊だった。西光院は尼寺と呼ばれ、御詠歌にも「あまでらへ 参るわが身も たのもしや はなのお寺を 見るにつけても」とあり、享保15年(1730)の御詠歌の額が残されている。観音堂はもとの仁王門を改修した建物で、欄間の龍は初代武志伊八郎による寛政2年(1790)の作品。境内には里見義康の家臣岡本左京亮頼元が慶長11年(1606)に、死後の冥福を願って建てた逆修塔がある。宝珠院周辺が安房国府の推定地とされているが、発掘調査では確認されなかった。

(2) 八坂神社

 府中の鎮守。むかしは宝珠院の子院である徳蔵院が別当を勤めていた。本殿の左側に並ぶ石祠のなかに、午頭天王(ごずてんのう)とあるのは八坂の神様のこと。山包のマークは浅間様で、明治8年(1875)に建てられている。道祖神は疫病などが村へ入らないように境を守る神で、この地方では道陸神(どうろくじん)と称することが多い。なお昭和62年に社殿の裏側で発掘調査が行なわれ、古墳時代の円墳が削られて埋没しているのが確認されている。

(3) 元八幡神社

 安房国府が府中周辺にあったころ、安房国の総社とされる鶴谷八幡宮がこの場所にあったと伝えられている。そのため元八幡神社と称している。江戸時代には八幡宮の神主がこの神社周辺の土地を将軍家から与えられていた。また毎年「やわたのまち」のときには、ここの井戸で水を汲むことから祭りがはじまっており、八幡宮にとって由緒ある場所といえる。

(4) 閻魔堂(えんまどう)

 府中の台という集落にある閻魔王像を祀っているお堂。境内入口に並ぶ石塔や無縁の石塔のなかに、諸国巡礼の記念塔である廻国塔が多く見られる。古いものは正徳2年(1712)に能登国長福寺の弟子川名多次兵衛が建てたもので、四国八十八か所と坂東・秩父・西国の百観音を巡礼している。ほかにも宝暦5年(1755)・文化7年(1810)・天保3年(1832)の塔がある。墓地の奥には、千倉の円蔵院・真言院・真野寺と府中の佐野由蔵の四人が明治29年に四国遍路をしたときの記念碑がある。

(5) 庚申塔

 塔の三面に三猿の像を刻んだ庚申塔。年代は刻まれていない。西郷にも「サンノウサマ」と呼ぶ石宮があり、天明8年(1788)と文政7年(1824)の年号が刻まれた庚申塔である(5-2)。

西郷(にしごう)エリア

(6) お地蔵さま

 府中と那古を結んだ主要街道に沿った場所にある。地蔵尊像は天保7年(1836)のもので、他に文化15年(1818)の馬頭観音と文政4年(1821)の出羽三山碑がある。

(7) 姫宮様

 田のなかに複数の中世の石塔の石がまとまって据えられている。五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えている。むかしは一段低い田のなかにあった。

(8) 六所神社

 六所神社は一般に、古代国府に付随しておかれたもので、国内の主要な神社の神を国府に集めて祀ったものをいう。ここも安房国府に関連した六所神社と考えられている。神社が所在する西郷は、里見氏の時代に現在の府中を東国府と称したことに対する、国府の西側という意味であろうか。境内右手には西郷の川上新次郎を社長とする山三浅間講社が建てた、明治18年(1885)の浅間祠が祀られ、左手にはクジラの骨を祀った祠がある。社殿には明治20年の俳句額が掲げられている。

亀ケ原(かめがはら)エリア

(9) 新御堂(にいみどう)

 元来は、真言宗の秀満院境内地である。秀満院は大正震災で倒壊していたため、昭和42年に亀ケ原北方の青木根から新御堂が移転してきた。新御堂は安房国三十三観音霊場の第二番の札所として知られ、本尊は聖観音立像。堂内には明治3年につくられた大きな大黒天像もまつられている。境内の宝篋印塔は明和5年(1768)のもの。なお、この周辺を蔵敷(ぞうしき)といい、律令時代の国衙などの下級役人「雑色(ぞうしき)」を意味する称が地名となったものであり、安房国府との関連が考えられる地域。

(10) 八幡神社

 江戸初期の元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されている。境内には四十八貫目(180kg)と刻んだ力石や文化10年(1813)の手水石、文政11年(1828)の灯籠がある。灯籠には籠り所や灯籠の油代の費用にあてるために、田が寄進されたことが記されている。入口にある昭和天皇の御大典記念碑は、八幡に引退してきていた高級官吏の檜垣直右(ひがきなおすけ)の揮毫。

(11) 六地蔵

 道の角に建てられた六地蔵。正徳4年(1714)10月24日に還誉生愚が建て替えたもので、それ以前には宗春という人物が建てたものがあったと刻まれている。六地蔵は辻や村の入口・墓地の入口・寺の入口など、この世とあの世の境といわれる場所に建てられる。地蔵は、生きものが輪廻(りんね)する六つの世界の入口にいて人々を救うとされている。

(12) 新御堂旧地

 青木根の中腹にある墓地は新御堂の旧地で、御詠歌に「にいみどう 見上げてみれば 峯の松 くびこい鶴(汲み越えつる)に亀井戸の水」と歌われている井戸が山裾にある。亀井戸が「亀ケ原」の地名の由来といわれ、また文化年間の火災までは、お堂へかぶるように峯の松があったと伝えられている。跡地には正徳4年(1714)の石造地蔵菩薩立像が立ち、辻の六地蔵と同時につくられたものである。また、鏡ケ浦にかけて「人も見ぬ春や鏡の裏の梅」と刻んだ芭蕉句碑がある。宝暦11年(1761)以前のものであることが確認されている。天明5年(1785)の灯籠は、「武州崎玉郡八条領青柳村」(埼玉県草加市)の高橋氏と三蔵院・東覚寺(ともに真言宗)が施主となって建てたことが書かれているが、由緒は不明。

(13) 横峯(よこみね)堂

 山田家の墓地に幕末の剣士山田官司の供養碑がある。北辰一刀流の剣豪千葉周作の高弟で、理論派として知られる。幕末には安房の人々にも剣術指南をしているが、出羽庄内藩が指揮した新徴組に参加して、肝煎取締役という指導的立場についた。戊辰戦争の際に、旧幕府方の庄内藩と行動をともにして戦ったが、銃弾をうけた傷がもとで翌年に死亡した。墓は山形県鶴岡市にある。


監修 館山市立博物館

那古地区正木

館山平野の北部、海を臨む丘陵には縄文遺跡や古墳が分布し、平野部には戦国武将正木氏の伝承や諏訪神社の民話が残る土地。信仰深い人々が残したたくさんの石碑を見て歩こう。

正木岡(まさきおか)エリア

(1) 谷田(やた)の出羽三山碑

 谷田集落のカワッパナという場所で、安永8年(1779)に谷田の文内ら9人が登拝したときの出羽三山碑と、文政年間の出羽三山碑がある。大日如来像は宝暦6年(1756)のもの。丸石に阿弥陀三尊を刻んだ塔は文政9年(1826)の西国三十三観音の巡拝塔。地蔵尊は延享3年(1746)に念仏講で建てたもの。かつて酪農が盛んだったことから、正木岡乳牛組合によって昭和29年(1954)に牛魂碑が建てられている。

(2) 八幡神社

 社伝では、延元2年(1337)に再建され、戦国時代の里見義弘のときに家臣正木大膳の祈願所になったと伝えている。手水石は天保12年(1841)、石灯籠は天保14年(1843)のもの。

(3) 大日さま

 中央に大日如来を祀る岩屋。本尊の石仏は峯岡の蛇紋岩で中世のもの。上半身が欠けた同質の像もある。中世の五輪塔の笠もあり信仰の古さを伝えている。地元ではお産の神様とされ、そこの抜けた袋が安産祈願で奉納されている。また文政元年(1818)建立の光明真言塔の塔身があり、元名の石工吉五郎作。享和元年(1801)に没した了覚法印の供養塔になっている。

(4) 切通しの巡拝塔と庚申塔

 稲原集落との境の切通し。中央は青面金剛を刻んだ庚申塔、左右に地蔵像がある。左の地蔵尊は秩父34か所と坂東33か所の観音順礼塔で、浄心という人が安永10年(1781)に建てたもの。

(5) 寒念仏塔

 丸彫りの延命地蔵尊を乗せた寒念仏塔で、正木村中沼集落の若者たちが享和3年(1803)1月に建立した。寒念仏は、寒中に30日間巡回しながら念仏を唱えて功徳を得る修行のひとつ。北東の高台はヨウギ山(要害山)と呼ばれ、戦国時代の砦跡と考えられる。ここは那古・正木から平久里へ抜ける街道沿いであり、交通路を監視する位置にある。

(6) 御狩(みかり)の出羽三山碑

 弘化4年(1847)の出羽三山碑。正木村御狩集落の久兵衛など5人と上堀村の3人が登拝した記念碑。横に祀られている新しい石宮は眼の神様。

(7) 観音堂

 墓地に入ってすぐの場所にある馬頭観音像は伝蔵・あさ夫妻によるもので、江戸時代の百観音(西国・秩父・坂東札所)の巡拝塔。地蔵菩薩を乗せる塔も同じ百観音を供養するもので、清蔵が文化4年(1807)に建立した。ほかに諸国順礼をしていた石見国浜田(島根県浜田市)の覚道が安政5年(1858)に建てた廻国塔で、右面を地元の清造ら3人が四国八十八か所と百観音を巡拝した供養塔にする石塔があったが、今は見当たらない。裏山の山頂に前方後円墳とされる塚があり、大塚山古墳と呼ばれている。

(8) 諏訪神社

 平安時代の中頃、たびたびの津波に村人が困っていたところ、延喜元年(901)に信濃国諏訪社の御霊が現われ祈願をすると波が治まったことから、村の鎮守にしたという伝説がある。旧郷社。里見氏からは3石の社領を与えられていた。境内の石灯篭は文化7年(1810)に上・下・向の三組が奉納したもので、石工は江戸の与七。狛犬は明和9年(1772)、手水石は寛政11年(1799)のもの。文久3年(1863)の芭蕉句碑「此神も いく世か経なむ まつの花」は、地元の宗匠高梨文酬が組織する俳諧グループ丘連(神主の関風羅ほか17名)が建立した。そばの石宮は浅間様で地元の富士講グループである山三講のもの。社殿右には関東大震災の復興記念碑があり、書は元長尾藩士の熊沢直見による。

正木本郷(まさきほんごう)エリア

(9) 外輪堂(亀ヶ原下台)

 亀ヶ原区下台集落の共同墓地。入口に天保2年(1831)の出羽三山碑がある。伝蔵ほか16人が登山した記念碑。代参講の人々と忠蔵が一両ずつ出して修覆を行ったことも彫られている。墓地には中世の五輪塔の笠や宝篋印塔の笠があり、古い集落であることがわかる。

(10) 西光寺

 曹洞宗で、山号は正木山という。江戸初期の里見忠義のときに本山の真倉慈恩院に寺領の一部として与えられていたことが古文書にみえる。山門をくぐってすぐ丸彫りの地蔵尊がある。嘉永5年(1852)に名主鈴木甚左衛門が願主となって奉納したもので、作者は安房の代表的な石工武田石翁。ほかに年不詳の出羽三山碑、元禄8年(1695)・寛政1年(1789)の六地蔵がある。墓地には長尾藩士木村慶寿(明治18年没)の墓がある。ほかに台湾征討に参加して明治28年(1895)に台北で戦死した近衛野戦砲兵生稲良吉(22歳)、明治37年に日露戦役で出征し清国田義屯で戦死した陸軍歩兵一等卒木村昇蔵(24歳)・病死した陸軍騎兵二等卒山下平助(22歳)、大正13年に日本海越前海岸で座礁殉難した特務艦関東の海軍一等機関兵庄司喜一(21歳) の4基の忠魂碑がある。

(11) 熊野神社

 江戸初期の元和元年(1615)に再建されたと伝えられる。かつて近くに修験の医王山峯野院があり別当として管理していた。手水石は文久3年(1863)のもので、社殿の向拝龍彫刻は峯野院と医師戸倉玄雄の奉納、獅子は地元の吉津屋・辰巳屋・川名の加渡屋の女性たちが奉納している。峯野院跡には念仏講中の男女22名によって建立された万治2年(1659)の念仏講供養塔がある。

(12) 日露戦役戦没者忠魂碑

 正木出身の陸軍歩兵上等兵庄司久蔵の忠魂碑。日露戦役に出征して戦地の伝令として活躍し、明治37年(1904)10月の清国沙河の会戦のとき、指揮官の江橋中尉を介抱中に戦死したとある。文はその江橋中尉が書いている。

(13) 狐塚の石

 この石は、そのむかし諏訪神社と那古寺がケンカをして、諏訪神社が那古寺に向かって投げた石が途中で落ちたものだそうである。耕地整理のため元の場所から西へ移動してしまっている。那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が諏訪神社に向かって投げた石があったという。

(14) 薬師道の道標

 天保6年(1835)建立の道しるべ。「横山やくしみち」とあるのは正木の谷奥にある横山の薬師堂への順礼道を示している。方向をさし示す指は薬師様の手だという。横山の薬師堂跡には同じ年に建てられた石造の十二神将像が6体残されている。また堂跡には鉱泉が湧く井戸があり、明治の初め頃には肌に塗ると腫れ物に効くといわれ、大正時代には湯治場として賑わっていた。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子