城山とその周辺

戦国大名里見氏最後の居城・館山城。城山とその周辺を歩いて、城跡をたどってみましょう。

(1) 館山神社(たてやまじんじゃ)

 関東大震災で倒壊した館山町内の神社を合祀して、昭和5年(1930)に新しく建てられた神社。合祀されたのは、新井と下町の氏神だった諏訪神社と、中町と上町の氏神だった諏訪神社、上須賀にあった稲荷神社と八坂神社、楠見の厳島神社、城山南麓の御屋敷にあった稲荷神社。境内には、地元出身の大相撲力士錦岩が奉納した文政9年(1826)の手洗石がある。また文政11年(1828)に江戸深川の鈴木某が奉納した鳥居の脚が槙の植樹記念碑に再利用されている。狛犬は楠見の石工・俵光石の作で、大正6年(1917)の銘がある。光石は東京美術学校で高村光雲の指導を受け、石彫科助手を勤めたことがある。

(2) 城山(しろやま)

 現在、地名になっている「館山」は、もともとこの城山のことをさしていた。戦国大名里見氏の居城跡だが、明治時代に山麓から里見氏以前のものである中世の五輪塔や陶磁器が掘り出されており、古くから武士の城館だった。里見氏が慶長19年(1614)に移封された後は、江戸時代後半に稲葉氏が館山藩をたてて、城山南麓に陣屋を築いた。太平洋戦争中に高射砲陣地となり、山頂や周辺がかなり破壊されたが、戦後は城山公園として整備された。(城山内の文化財については、別刷のマップ 「城山の文化財にふれよう!」をご覧ください)

(3) 熊野神社(くまのじんじゃ)と熊野堂(くまんどう)

 神社とお堂がある山が熊野山と呼ばれている。熊野堂には、中世の宝篋印塔の笠石部分がみられる。熊野山の南西の水田はかつて沼だったところで、館山城の城崖跡とみられる切岸が残っている。

(4) 慈恩院(じおんいん)

 曹洞宗のお寺で、館山城主里見義康の菩提寺。もとは歴代の持仏堂として城内に創建されていた。慶長8年(1603)に没した義康の墓所がある。墓地には、市内ではあまり例をみない中世の陽刻五輪塔がある。また幕末から明治にかけて活躍した沼出身の絵師・川名楽山や、東京高等商業学校長だった坪野南洋の墓などがある。館山藩士の墓も多い。入口付近には、里見義康のときに構築された鹿島堀に関する由来碑がある。「鹿島堀」の名は、義康が加増をうけた常陸国鹿島の領民が普請したとのいわれによる。堀の遺構として現在見ることができるのは、泉慶院跡の池と、御霊山・天王山をめぐるように残された堀跡だけ。発掘調査などから、城山の東南から北側にまで、ぐるりと水堀がとりまいていたと推定されている。(別刷のマップ「慈恩院の文化財解説」をご覧ください)

(5) 妙音院(みょうおんいん)

 高野山金剛峯寺の直末のお寺で、古義真言宗。天正7年(1579)に里見義康が高野山から僧を招いて創建したと伝えられる。境内には中世宝篋印塔の一部が残る。裏山には、四国八十八ヶ所の霊場をうつした「安房高野山八十八ヶ所」がある。縁起によれば、明治28年(1895)に上総の老婆がやってきて霊場をつくるように説いたという。石工の俵光石など、地元の人々が88体の弘法大師の石像を奉納して完成させた。その後桜の名所として有名になったが、昭和20年に戦災を受けて本堂が焼失した。鐘楼堂の焼け跡が、戦災の様子をいまも伝えている。

(6) 泉慶院跡(せんけいいんあと)

 ここに曹洞宗の寺院があった。開基は智光院殿という。この人は、足利義明の娘で青岳尼といい、鎌倉太平寺の尼僧だった。寺を捨てて安房へ渡り、還俗して里見義弘の妻になっている。開山は淳泰和尚で、義弘の息子梅王丸のこと。梅王丸は義弘の死後に兄義頼と家督を争って敗れ、出家させられた人物。梅王丸の母は義弘の後室で足利晴氏の娘。青岳尼ではない。里見氏の時代には160石もの寺領を与えられて保護されていたが、江戸時代は7石となり衰退した。墓地に開基と開山両人の供養塔がある。池は館山城の鹿島堀の一部。泉慶院を含めた館山城跡の東南一帯は寺院が多い。このあたりは館山城の外郭としての役割があったと考えられている。

(7) 大膳山跡(だいぜんやまあと)

 大膳とは、上総小田喜城を本拠地とした里見氏の重臣・正木氏の家督を継いだ二代目正木大膳亮時茂(時堯の名で知られる人)のこと。二代目時茂は里見義康の弟で、忠義の時代には実質的に里見家をきりもりした。その居住地として大膳山・大膳屋敷などの名前が残されている。

(8) 御霊山(ごりょうやま)・天王山(てんのうやま)

 城山だけでなく、この御霊山・天王山のあたりまで、館山城の城郭であった。両方の山をめぐるように、山の腰に堀の跡がはっきりと残され、北から東にかけては切岸になっている。発掘の結果、水堀であったことが確認されている。

(9) 宗真寺(そうしんじ)

 市内で唯一の真宗の寺院。里見氏の移封後に館山の領主になった旗本の石川八左衛門が、現在の境内地に創建した。檀家は関西方面から江戸時代に移住してきた家が多い。もとは館山城の馬屋があったと伝えられる場所である。

(10) キリスト教共同墓地(きょうどうぼち)

 明治年間に医療伝道のため来日した、イギリス出身のコルバン夫妻がここに眠っている。コルバン医師は、自身の療養のため明治末から大正にかけて市内八幡に住み、結核療養所を開いた。コルバン医師の没後、夫人は安房各地で伝道を行って教会を建て、南三原・和田・鴨川などに幼稚園も開設した。コルバン夫人は昭和15年(1940)に亡くなり、コルバン医師の眠るこの墓地に葬られた。


監修 館山市立博物館