初代後藤義光の彫刻を訪ねて 1.(千倉・白浜編)

後藤義光その1 義光生誕の地

文化12年(1815)生~明治35年(1902)没

初代「後藤利兵衛 橘 義光(ごとうりへえ たちばなのよしみつ)」は、近世・近代における「安房三名工」の一人である。南房総市千倉町北朝夷上人塚(きたあさいじょうにんづか)に生まれ、晩年には館山市下真倉(しもさなぐら)(青柳(あおやぎ))に住んだ。生まれ育った千倉町には数多くの義光の彫刻が残され、今も各年代につくられた作品を見ることができる。

義光は社寺の向拝(ごはい)や山車(だし)・神輿(みこし)などに施された龍の彫刻や、篭(かご)彫り技法(素材の外側から内側に施した丸彫りと透かし彫り)を得意とする宮彫り師であるが、門人育成にも力を入れ千倉後藤流とも言うべき一派をなした。墓は菩提寺の西養寺(さいようじ)(南房総市千倉町北朝夷)に残されている。

安房の三名工(義光・伊八(いはち)・石翁(せきおう))

安房の三名工として後藤義光・波の伊八(いはち)・武田石翁(せきおう)が知られている。各地に残る名工たちの作品を比較しながら見るのも興味深い。

  • 武志(たけし)伊八郎信由(のぶよし)(鴨川市西条地区打墨(うっつみ)生まれ:1752年~1824年、行年73歳)
    波の彫り物を得意とする伊八は、千倉町川合区では愛宕神社本殿の「波」、牧田区では下立松原神社及び御霊(みたま)白幡明神本殿の「瑞獣(ずいじゅう)」(応竜・麒麟・霊亀・鳳凰)や「龍・虎」など数多くの彫刻を残している。平館区徳蔵院客殿 の「波や龍」や、大川区大聖院欄間の「波に龍」・「雲に麒麟」も見応えがある作品である。
  • 武田石翁(せきおう)(南房総市本織(もとおり)生まれ鋸南町元名(もとな)住:1779年~1858年、行年80歳)
    若死にした二人の娘の供養に彫ったという延命地蔵半跏(はんか)像(個人像)は、「石工」にとどまらず芸術的石彫り職人へと傾いていった石翁の最高傑作といわれる。表情の豊かさと立体的な彫りの素晴らしさは、白浜地区厳島神社「七福神」の石像にも現れている。

(1)愛宕(あたご)神社

所在地 南房総市千倉町川合722-1

祭神は火結命(ほむすみのみこと)で火の神様。治承年間(1177~1181)に地蔵尊を安置し京の愛宕山より権現(ごんげん)を勧請(かんじょう)して祀り、現社殿には義光14歳(幼名若松)文政11年(1828)の作という大黒天像(像高74cm)・賓頭廬(びんずる)尊者像(座高48cm)がある。その他にも社殿内正面には武志伊八郎の龍・波の彫刻(23歳の作)や、大絵馬の天孫降臨神話図、源頼朝富士巻狩図(いずれも南房総市指定)がある。

(2)福壽山正福寺

所在地 南房総市千倉町瀬戸2293-1

真言宗のお寺で本尊は不動明王。天正元年(1573)に創建され、北朝夷円蔵院の隠居寺といわれている。境内の南側に立っている石塔は平館(へだて)の加藤卯之助の仕事だが、彫刻は義光の作で明治31年(1898)85歳のものである。正面に地蔵菩薩の坐像があり地蔵供養塔(十方信者供養塔)と呼ばれている。その側面には宝篋印陀羅尼(だらに)の梵字(ぼんじ)が刻まれている。本堂には当時の明道住職の寄附による義光86歳作の誕生仏があり、4月の花祭にはこの釈迦像の頭上に甘茶を注ぐので拝見できる。1000体近くの小さな地蔵像が置かれえいる千体地蔵堂は明治27年(1894)に再興されたもので、向拝(ごはい)の火炎の親子龍と外壁正面の扉の両脇は2代目義光の彫刻である。中の格天井46枚の花鳥画は鈴木寿山(じゅざん)の作。

(3)延命地蔵尊

所在地 南房総市千倉町北朝夷(きたあさい)2830

石造延命地蔵尊は館山消防署千倉分署裏児童公園の一角に、天明2年(1782)の手水石、大正5年(1916)の墓石、馬頭観音、お稲荷様などと共にまとめられている。近くに小高い山にあった産土神(うぶすながみ)「八幡神社」(寺庭区)などの内陸部への移設や土地造成に伴い、昭和40年(1965)2月24日現在地に移された。台座正面には、浄土に行けない人々や幼い者をすくうとされる地蔵尊を梵字(ぼんじ)「(力)」や瑞雲上の宝珠三個で表現してる。また台座の脇や奥には地域の「扶助(ふじょ)人」の名や、石工「長狭郡宮野下村 石渡紋三郎」と、その扶助として「後藤利兵ヱ橘義光」の名が刻まれている。明治15年(1882)11月、義光68歳の作。

(4)八幡山西養寺

所在地 南房総市千倉町北朝夷861

真言宗のお寺で本尊は不動明王。義光の菩提寺で、初代義光(利兵衛)夫妻・二代義光(紋次郎善政)夫妻・三代義光(山口滝治)夫妻・三代義光次男(光治)などの墓がある。客殿向拝の玉取龍・象・獅子の彫刻は、天保15年(1844)義光がまだ光定として称していた頃のもの。祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が彫物施主となって奉納したもので、平成11年の本堂新築を機に客殿に移された。墓地入口には蛇紋岩で造られた260cm程の義光作石造地蔵菩薩半跏(はんか)像(南房総市指定文化財)があり、反花座(かえりばなざ)正面に「牡丹」、基礎の正面に「獅子」・左面に「波に宝珠」・右面に「波に亀」が彫刻されている。隣にある150cm程の石造地蔵菩薩半跏(はんか)像も銘は無いが義光作とされ、また、魚藍(ぎょらん)観音堂前の木像賓頭蘆尊者(びんずるそんじゃ)像も義光が小さい頃の作品といわれている。屋根に銅製の大北鯛が乗るこの観音堂は、外房・内房の漁師の信仰が厚く、地域産業の振興・家運繁盛等の祈祷所として参拝者が多い。近くに義光の生家がある。

(5)中嶋山住吉寺

所在地 南房総市千倉町南朝夷1353

真言宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。観音堂は天保年間(1830~1844)に改築され、お堂には行基菩薩作と伝える正観世音菩薩像が安置されている。向拝は明治17年(1884)、義光70歳の時の作であり、正面には親子龍が刻まれて子龍は下を向き親を見つめている。裏には「北千倉漁師中世話人、當所世話人」党の連名がある。向拝の左右には象鼻・獅子鼻が、その下には牡丹と獅子等が刻まれ、手挟(てばさ)みの左右には鷹と松が刻まれ、この向拝全体が一体化した重厚な奥深い彫刻をなしている。また観音堂の外周にも獅子鼻・掛鼻等が刻まれており、その気迫が伝わってくる。それぞれの寄進者の名もある。また石段の上り口には千倉の鰹節製造の祖、土佐与一(とさのよいち)の報恩の碑がある。石段の途中には句碑がある。

(6)新福山圓蔵院

所在地 南房総市千倉町北朝夷2393

真言宗のお寺で本尊は地蔵菩薩。本堂手前の参道左手に「如法大師供羪(くよう)塔一千五十年」の文字と弘法大師像を浮き彫りにした、高さ約6m程の石塔がある。裏に天女の浮き彫りと「明治十七年(1884)甲申春三月造立、彫工當邑(当村)後藤義光七十二歳」と彫られている。住職鈴木明道が弘法大師の一千五十年遠忌を記念して奉納したもの。関東大震災で崩壊したが、昭和3年(1928)、住職啓道や末寺の住職・檀家の人達により再建されている。本堂内、須弥壇(しゅみだん)前の欄間に施された彫刻は、琴を奏でる玉巵(ぎょくし)(西王母の3女)に見入る龍や唐獅子などで、安政6年(1859)に、住職の成道、義光の祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が奉納したもの。義光45歳の作。房州出身で京都の醍醐寺三宝院住職の金剛宥性(ゆうしょう)が奉納した明治5年(1872)のご詠歌扁額(へんがく)は、龍が繊細かつ緻密に彫られたもので、回廊にある六角経蔵とともに義光の作である。境内には、古い本堂の廃材を用いて建てられた江戸中期の鐘楼堂や享保9年(1724)の梵鐘(共に南房総市指定文化財)、宝篋印塔などがある。六角経蔵篋は次男福太郎義道の作。

(7)稲荷神社

所在地 南房総市千倉町平館(へだて)598

祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。安永2年(1773)に平館(へだて)の徳蔵(とくぞう)院が京の伏見稲荷より名戸川の地に勧請し、戦後、平館稲荷(いなり)と改めた。社殿向拝の龍は、義光83歳の作で玉取龍が力強く彫られている。願主は「曦(あさい)村平館」の堀江市太郎で、明治30年(1897)2月10日に奉納した。2月の初牛の前日の祭りでは、稲荷山の頂上から下へ赤い提灯が飾られ、福引なども行われ参拝の人で賑わう。

(8)高塚不動尊

所在地 南房総市千倉町大川817

真言宗のお寺で本尊は不動明王。高塚山山頂の元不動にある旧不動堂の前に、義光65歳の時に造った石造の狛犬が今も置かれている。お堂の左側は背に乗る子獅子を豊かな毛並みを持つ親獅子が振り向き、さらに地上に居て上を向く子獅子、それぞれが見つめ合っている姿である。高さは台座を含め約2.2m。台座に刻まれた文字によれば、明治12年(1879)に、第17世住職小熊隆宝、世話人6名と136名の信者が奉納したもの。「文化十二年(1815)正月北朝夷生 後藤義光」と彫師の名と生年さらに在所まで刻まれている。山頂までの参道には浅間講の人々による富士登山記念碑、伊勢金毘羅参拝記念碑、山頂には風神雷神門、江戸日本橋船町の魚問屋が奉納した石灯籠などがある。

(9)日枝神社

所在地 南房総市千倉町白間津(しらまづ)335

延喜元年(901)、京の都から来たという岩戸大納言良勝(いわとだいなごんよしかつ)創建による神社で、祭神は大山昨命(おおやまくいのみこと)。江戸時代までは「日枝山王(ひえさんのう)」(仏教の守護神)と呼ばれていたが、明治初期「日枝神社(ひえじんじゃ)と改称。義光による社殿彫刻は明治20年(1887)の社殿再建時に制作された(73歳)。「親子龍」(向拝)、「波に千鳥」(虹梁左右)、篭彫(かごぼ)りによる「波に鯉」や「波に亀」(向拝柱の肘木(ひじき))、「鳳凰・麒麟(瑞獣)」を組み合わせた手挟(たばさみ)一対など、来訪者への恩寵を感じさせる作品群である。向拝木鼻の獅子の手から鞠(まり)が欠落しているのは残念である。4年に1度行われる「白間津の大祭」(国指定重要無形民俗文化財)では、仮宮に渡御した日枝神社の祭神及び海や空から来臨した神に「ささら踊り」等が奉納される。みやび風の舞や神々を仮宮まで招く大綱渡し(おおなわわたし)等一連の祭は、白間津地区の開拓を神々に感謝し、五穀豊穣・大漁を祈願して行われる。

千倉町

千倉に残る初代義光の作品とされるものには、宇田地区の熊野神社の拝殿欄間彫刻や、寺庭の八幡神社の屋根妻彫刻、久保神社の狛犬などがある。神輿彫刻は川口鹿島神社、大貫熱田神社などにあるほか、個人所有の大黒天像や仏壇彫刻も数多く残されている。

白浜町

島崎地区法界時の向拝の彫刻が義光作と伝えれられている。また、根本地区の山車が明治28年(1895)、81歳の時の作である。


<作成 ミュージアムサポーター「絵図士」 青木悦子・青木徳雄・金久ひろみ・川崎一・鈴木正・吉村威紀>

館山の気になる樹 3.

(1)諏訪神社の自然林

平成13年館山市天然記念物指定

諏訪山山頂(館山市正木4293ー1)の諏訪神社は、延喜(えんぎ)元年(901年)創建で建御名方命(たけみなかたのみこと)を祭神とした正木郷の鎮守で、正木地区(岡・本郷・川崎・西郷)では最も由緒深いお社である。ここから眺望する光景は、館野・九重の農村地帯から市街地をはじめ、相模の山々や富士山を遠望できる。境内は花見の名所であり、近隣の人々にとっては憩いの場所でもある。夏の初めにはヤマユリが咲き乱れ、訪れる人の目を楽しませてくれる。標高74mの山頂にある社殿をとりまく林は、自然林として保護される貴重な鎮守の杜(もり)である。諏訪山の自然林は、近くの那古山などと同様、スダジイを優占種とする極相林である。自然林の構成樹は高木層ではスダジイが優占し、オガタマノキ・ホルトノキ・ヤマモモ・ヤブニッケイ・ムクノキなど、亜高木層やつる性の木本(もくほん)層ではヤブツバキ・ヒサカキ・ヒメユズリハ・テイカカズラ・フウトウカズラ・キヅタなど、低木層ではアオキ・イヌビワ・ヤツデなど林床にはツルコウジ・アリドオシ・キチジョウソウ・ヒガンマムシグサなどが見られ、房総南部を北限とする暖地性植物が多い。

(2)那古山の自然林

昭和45年館山市天然記念物指定

那古山(館山市那古670-2)は那古寺の北側の裏山で、地元ではシキビ(式部)山とも呼ばれている。那古寺は真言宗のお寺で、観音堂には館山市有形文化財の千手観音菩薩が祀られ、ほかに重要文化財の銅造千手観音立像や県指定の阿弥陀如来座像、観音堂・多宝塔など多数の文化財がある。標高82m、東西に細長い独立丘陵の那古山の自然林は、急な南斜面を覆う樹木がスダジイの極相林であり、古くから厚い信仰のもとに保護されてきた。北斜面はなだらかな地形でビワ畑が広がる。昔、スダジイ林の上にあったクロマツ林は、昭和30年代にマツクイムシが大発生し、クロマツは立ち枯れ、現在のようなスダジイ林に変わってしまった。自然林の高木層はスダジイが優占し、次いでヤブニッケイ・タブなど、亜高木層にはヒメユズリハ・モチノキ・ヤブツバキなど、低木層にはアオキ・イヌビワ・ヤツデ、草本層にはヤブコウジ・キチジョウソウなどが生育する。この森林の特徴はホルトノキ・ヤマモモ・オオバヤドリギなどの暖地性植物や、トベラ・ツルオオバマサキなどの海岸性植物が混生することである。観音堂脇の階段を上ると左手に「古屋敷」と呼ばれる広場があり、入口の両脇に太い枝が縄のようにねじれたスダジイと、四方に枝を広げたヤブツバキが門のように立ち、ここを過ぎて左折すると潮音台という展望台に出て、那古の町や鏡ヶ浦が一望できる。平成9年(1997)に尾根伝いの「式部夢山道」が整備され、約600mの山道が東に延び、自然林が広がる。この道を東に進むと、ホルトノキがあり足元に赤い葉が見られる。更に歩くと山頂付近では夏はヤマユリがたくさん咲き、アカメガシワ・クワの実に似たコウゾブ・ヤブニッケイ・スギ・イイギリ。ヤブツバキ・ヤマザクラも見られ、麓近くはヤツデが多い。

(3)沖の島・高の島

沖の島は鏡ヶ浦に面し海抜12.8m、東西300m、南北200mで面積約4.6ha、周囲約1kmで、かつては離れ小島だったが、現在は砂の堆積(長さ200m、幅30m~80m)でつながった小島である(昭和28年頃にはつながり陸継島になった)。一方、現在自衛隊の基地に隣接した小さい丘も、かつては高の島という離れ小島だったが、埋め立て(昭和5年の海軍航空隊基地造成)によって内陸とされ、森の茂みがその名残を見せている。海抜16.7m、東西110m、南北200m、面積2.7haの台地である。どちらも常緑広葉樹のタブノキ・ヤブニッケイ、落葉広葉樹のカラスザンショウ・アカメガシワなど房総半島南部に原生していた自然林を観察することができる。沖の島の植物の種類は北限・南限の植生にわたって約240種類にのぼる。房総半島南部は地殻変動が活発で、史料に残るだけでも元禄地震(1703)の隆起や、関東大地震の際でも、2.1m~2.4m程の隆起が確認されている。斜めになって地層(2000万円前につくられた堆積岩地層は北に傾斜)や岩がむき出しになったままの磯から、隆起を繰り返した歴史を見ることができる。チョウチョウウオやスズメダイ・ツノダシといった熱帯魚(死滅回遊魚)が生息する北限域であり、様々な生態系を観察することもできる。海岸で珍しい貝殻や流木、イルカの耳骨や化石などを探すのもまた面白い。島の周囲には高温・高塩分の黒潮分流が流入し、亜熱帯性の要素をもつ動植物が生育し、房総半島南部の自然観察やレクリェーションの好適地である。また現生サンゴの海としても知られている。沖の島には宇賀明神や無人灯台、地下壕などがあり、西側の展望台からは洲崎灯台や海岸段丘が望まれる。高の島には多賀之嶋弁財天(高之嶋辨天閣)、魚付林を植林した記念碑・波切不動・防空壕などがある。ここには農商務省水産講習所(東京海洋大学)高の島実験場が作られ、明治42年から昭和の始めまで海洋生物の調査研究が行われた。今でも施設の残跡が見られる。

(4)洲崎神社の自然林

昭和45年館山市、昭和47年千葉県天然記念物指定

洲崎神社(館山市洲崎1697)の天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后(きさき)である天比理刀咩命(あめのひろとめのみこと)を祀る神社で、平安時代に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にその名が見られるという、古くから広く知られた神社である。源頼朝が源氏再興を祈念し、さらに妻政子の安産祈願をしたことが『吾妻鏡(あずまかがみ)』にもみられる。また戦国時代初期、太田道灌(どうかん)は江戸城の守り神としてここの祭神を勧請(かんじょう)した(現在の神田明神)。鎮座地の御手洗(みたらし)山(標高119m)は、「ご神体山」として聖域であったため、自然のままに残された自然林といわれる。総面積は、5.4haであるが、頂上付近はヒメユズリハの優占した林、中部域(拝殿・本殿の周辺)はスダジイの極相林、下部域(階段の周辺)はタブノキの優占した林となっている。また、この林は山裾を海岸に接し、南方系や耐潮性の種(ホルトノキ・ツルコウジ・ボウシュウマサキなど)を含む房総半島南部の特徴のある自然林といえる。なお。明治期に始まった、「東京湾要塞化」の一環として、昭和2年(1927)に西岬村坂田(館山市坂田)に配備された「洲崎第二砲台」の観測所として照明灯などを配備した「第一観測所」が、昭和4年(1929)山頂に設置されたが、その遺構と思われるものが今も残っている。

(5)平砂浦砂防保安林

「日本の道100選」

房総半島の先端に位置する平砂浦砂防保安林は、館山市相浜から西岬の房総フラワーライン(千葉県道257号南安房公園線)に沿う延長5kmに及ぶクロマツ(黒松)の植林帯で、146haの規模である。この土地は元禄16年(1703)の巨大地震により一挙に3mも隆起した土地で、もとは一面海底の砂地であった。秋から春先まで吹く強い西風は耕地を埋没させ、たちまち砂山と化し耕地は後退せざるを得なかった。江戸時代から農家の人達は、この砂を防止するため、笹を刈り砂地に挿し、農閑期には川の水を利用して砂を海まで流す等の作業を繰り返したが、努力の甲斐もなく砂地は広がる一方であった。明治25年(1892)頃から地域の人達は協議を重ね、砂防工事を開始したが、遅々として進行することはなかった。その後県に働きかけ大正10年(1921)から県費の半額助成と技術指導の援助を得て、潮風に強いクロマツ(黒松)を植栽したが、大正12年(1923)の関東大地震で更に2m程の隆起があり、再び荒涼として砂原と化して苦労は報われなかった。戦時中は軍の演習場として使用され、さらに終戦直後の巨大な台風の来襲は土地の荒廃に拍車をかけた。これらの状況を打開しようと、開拓組合・役場・村会議員等で砂防の具体案作り等の活動を開始したが、余りに遠大な計画と見なされて計画は進展しなかった。その頃当時の県知事や県開発部長の視察があり住民達は長い間の苦しみを訴え、砂防工事の早期着手を請願、その後も度々県に工事の開始を要望した。その結果、昭和23年(1948)「飛砂防備砂防林工事」が着工される事となり、地域を上げて全面的に協力する事を約束し、工事施行に必要な敷藁(しきわら)や資材の提供、労働力の提供も惜しむ事なく人々は協力をした。この様な努力の結果、昭和32年(1957)、9年間に渉(わた)る工事は完了した。この大事業を後世に伝えるために記念碑が建ち、砂防の歴史が記録されている。

(6)館山野鳥の森

「日本森林浴の森10選」

館山野鳥の森(館山市大神宮553)は房総半島南部の丘陵地帯に属しながらも、山裾は太平洋の海岸に接している。南部の天神山(てんじんやま)(標高146m)と北部の吾谷山(あずちやま)(標高103m)の間は、谷津や池もある変化に富んだ地形をしている。自然の姿を利用した公園として特別鳥獣保護区に指定され、遊歩道も良く整備されて、年間を通して植物観察や野鳥観察、ハイキング、森林浴などの行事も企画され多くの人を楽しませている。森の面積は約11haで、コナラやカラスザンショウ・サクラなどの落葉樹と、低木のヒサカキ・トベラ、林床にヤブコウジ・フウトウカズラ・ニリンソウなどを交えながら、高木のスダジイ・タブノキなどの優占する林となっている。落葉樹が混在することで地面に日照と栄養が供給され多様な生物相を支えている。平成20年(2008)の調査資料によると、野鳥の森を含む大神宮エリアには、シダ植物・種子植物・その他を合せ、およそ380余種の植物相が確認されている。恵まれた森林に多くの野鳥が生息し、年間を通して観られるのはアオサギ・カルガモ・トビ・キジバト・コゲラ・ヒヨドリ・モズ・カラスなどの21種類で、春から夏にかけてはツバメ・ホトトギス・オオルリなど、秋から冬にかけてはミサゴ・オオタカ・ハヤブサの他、ゴイサギ・マガモ・ルリビタキ・アカハラなど、多様な鳥を観る事ができる。なお平成16年(2004)から平成21年(2009)の間に観測された野鳥は106種類である。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 青木悦子・川崎一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

館山の気になる樹 2.

(1) 総持院のクス・イチョウ・スダジイ

所在地 館山市沼1139

真言宗智山派で獅子吼山総持院慈眼寺と称し、「沼の大寺」といわれて親しまれている。境内には夫婦(めおと)楠(クス)と呼ばれる大楠があり、幹周が4.8m(樹高17m・16m)あり樹齢400年と伝えられる。自然の中に寄り添う心和(なご)む木である。その他にイチョウ(幹周3.9mと2.6m、樹高10m・8m)が山門の左右にあり、奥の墓所に行く坂の途中にスダジイ(幹周3.9m、樹高20m)もある。当寺は平安時代後期の永長2年(1097)に安房国司 源朝臣親元(みなもとのあそんちかもと)により創建されたお寺である。この寺は里見氏との関係が密接で、第9代義康の寺領充行(あてがい)状、第10代忠義の朱印状、徳川幕府代官中村弥右衛門の達状(たっしじょう)や、第3代将軍徳川家光以下歴代将軍の朱印状写が保存されている。山の奥の洞窟は館山市指定史跡で縄文・弥生時代の土器のほか、古墳時代に墓として使われたことから、舟を用いた棺(ひつぎ)や甲冑・玉等の副葬品が発掘されている。

(2) 天満神社のヒマラヤスギ・ムクロジ・イヌマキ・イチョウ

所在地 館山市沼1165

沼の天満神社は平安時代の後期、国司として赴任中(1096~1100)の源親元(みなもとのちかもと)が京都の北野天満宮を勧請(かんじょう)し創建した社である。この社には通称シーダと云われている属のうちヒマラヤスギがある。日本には明治12年(1879)に渡来し、円錐状の樹容が美しい事から神社や公園に多く植栽された。この社の木は幹周2.9mもある。また落葉高木のムクロジの大木がる。この種類は中部地方に多く、この社にあるものは幹周が2.4m(樹高24.5m)。その他常緑高木のイヌマキがある。イヌマキは潮風が当たる暖地の海岸地帯に多い。天満神社には幹周2.6mと2.5m(樹高25m)の2本が確認されている。他にはイチョウの巨木が境内にある。境内には数基の石碑があるが、その中でも明治35年(1902)の菅公1000年祭記念の碑には、菅原道真(すがわらのみちざね)が大宰府(だざいふ)へ赴く時に吟じた「東風(こち)ふかば・・・」と、大宰府に配流中の心境を訴えた漢詩「去年今夜侍清涼・・・」の二首が刻まれている。

(3) 沼のビャクシン

所在地 館山市沼宇野庭443  館山市天然記念物 昭和36年10月21日指定

十二天神社境内にあり、幹周7.4m(樹高17m)、枝張東西20m、南北24mに広がるビャクシンである。地上から2m~4mで11本に枝分かれし、内1本は地上4mのところで切断された跡がある。樹皮は縦に裂け、ねじれ上がっており、表皮が脱落して空洞があるものの、かたちのよい樹容をみせている。樹勢は極めて旺盛で推定樹齢約800年とされる。この木にはシャリンバイ・イヌビワ・ヤマハゼ等が共生植物として生育している。形の良い樹冠を形成しており、一般には庭園や神社の境内に植えられ観賞価値の高い長樹木として知られている。この樹が県内で最も大きなビャクシンだという。社殿の向拝(ごはい)にある龍の彫刻は後藤義光の作である。

(4) 南条八幡神社のクス

所在地 館山市南条518-2

治承4年(1180)に源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れたあと、安房国から兵を挙げる時、京都に石清水(いわしみず)八幡宮の御霊(みたま)を勧請(かんじょう)し、社殿を建立したと伝えられる。社殿は大正4年に改築したが、震災による倒壊で昭和8年に建替えられた。境内横の池の中に珊瑚(さんご)の化石がり、沼地区にある珊瑚層と共に「沼珊瑚層」として昭和40年4月21日に館山市天然記念物に指定された。神社背後の山腹には古墳時代の横穴墓38基あり、東山横穴式群と呼ばれている。境内にある最大の木は二つ目の石段左にある「クスノキ」で、胸高幹周は6.06m、樹高は約26mである。

(5)山荻の民家のカヤ

所在地 館山市山荻585

館山市で最大の「カヤ」の木が山荻の個人宅にある。この家の屋号は「伝五郎」というが、近所の人は「かやんき」と呼び、「カヤ」の大木がこの家の目印であることがわかる。山荻から畑区へ行く市道沿いにあり、山荻神社から約1km先の左側石垣の上に生育している。「カヤ」はイチイ科、カヤ属の常緑高木で、高木にならないと開花結実しない。樹齢は家人の話では推定400年~500年という。幹周は3.85m、樹高18m、枝張りは東西12m、南北17mあり、館山市の「カヤ」では最大の巨木である。昭和43年頃まではこの木の実から食用油を採取していたそうである。

(6)出野尾の道端のオガタマ

所在地 館山市出野尾字宮下

このオガタマは出野尾の小網寺から清掃センターへ行く途中、三叉路を右に約100m先の道幅にある。オガタマノキはモクレン科の常緑高木で、神社や公園などに植えられている。和名は神道思想の「招霊(むきたま)」から転化したものと云う。日本神話の天照大神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸(あまのいわと)隠れにおいて、天岩戸前で舞った天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手にしていたとされ、古くには榊などととも神前に供える木として用いられた。幹周は1.8m、樹高約12m。この付近には安房国札32番札所の小網寺のほか、十二社神社・風早不動尊など見るべきものも多い。土手には秋にはツリカネニンジン等多数の山野草が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれる。

(7)神余小学校のイロハモミジ

所在地 館山市神余1364

神余小学校は館山市街地から白浜方面へ9km行ったところにある。開校した明治7年に入学した児童の数は23人、明治40年には150人、現在の在校生は20人程。今の場所に学校ができたのは大正13年(1924)のことで、関東大震災で校舎がつぶれたので広い今の場所へ移ったものである。校門の左手に幹周2m、高さ7mの大きなイロハモミジの木がある。大正13年に校舎が移転した時、一緒に移ってきたという。平成14年の強い台風の非道ひどい塩害で学校のシンボルのカエデも弱ってしまったが、地域住民と樹木医などの協力によって治療に取りくんでいる。樹勢回復には数年かかるといわれている。みんなで見守りたいものである。イロハモミジhは低山地にもっとも普通に見られるカエデで、庭園にもよく植えられている。

(8)金蓮院のイチョウ

所在地 館山市犬石379

当寺には藤原期に造られたと考えられる木造地蔵菩薩像や、青面金剛を掘り出した庚申塔や二代武志伊八郎の欄間彫刻、奇石「枕字石(ちんじいし)」などがあり、歴史と伝説が豊富な寺である。また安房国札三十四観音の29番札所として参拝されている。イチョウは山門の左側にあり、幹周4m、高さ10m程で、上の方は整枝されているが存在感がある。平成21年の秋まではタブノキが観音堂の裏手にあり、幹周2.6m、高さ16.5mで、根が盛上がって面白い形になっていた。観音堂の前には、2000年以上前に咲いていた古代ハス「大賀ハス」の池がある。これは平成6年に3個の実を譲り受けて発芽させ、3年後の平成10年7月に見事開花したものである。

(9)安房神社のイヌマキ・イチョウ・タブ

所在地 館山市大神宮538

安房神社の本社御祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)、下の宮御祭神は天富命(あめのとみのみこと)、天忍日命(あめのおしひのみこと)である。神社の始まりは2660年以前に遡るとされ、天富命が阿波の忌部一族を率いてこの地に到着し開拓を成し遂げ、祖先である天太玉命おお祀りした事に始まるという。この社の御神木はイヌマキで、下の宮と御手洗池の間にあり、幹周3.4m、樹高15m、地上3m位のところで3本に分枝している。またこの社には、イチョウの巨大樹が2本ある。イチョウの原産地は中国であるが日本に渡って来た時期は不明。イチョウと云う和名は中国語の鴨脚(=いちょう)の近世中国音(ヤーチャオ)から転化したという。本社上の宮と御仮屋の間には幹周6.6m、樹高32mの巨木があり、上の宮下段の海軍落下傘部隊慰霊碑の前には、幹周4.6m、樹高32m、地上5m程のところで7本に分枝した巨木がある。なお本社拝殿の右手には、幹周3.1m、樹高20mのタブノキがあり、他にもこれに準ずる大きさの樹が数本見受けられる。タブは日本暖帯林を構成する樹種の一つで、青々と茂り勇壮な大木となる。この社の近くには「県立野鳥の森」があり、多くの樹種と100種類以上の野鳥が観察出来る。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 青木悦子・川崎一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

その4 朝夷・安房郡コ-ス 

25番 真野寺(まのじ)

高倉山実相院真野寺
南房総市久保587(旧丸山町)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「夜もすがら まのの入江の松風に おばなぞ見ゆる秋の夕暮」

 2月6日の「真野の大黒」で親しまれている。寺伝によると、奈良時代の神亀2年(725)に行基(ぎょうき)が開いたとされ、観音堂の本尊は行基作とされている。室町時代初期の作とされるお面をかぶり、ご開帳のときも素顔を拝むことができないことから「覆面(ふくめん)観音」と称されている。その左右には守護神として木造二十八部衆が安置されている。外陣(げじん)にある鎌倉時代の木造大黒天立像は関東地方に残る古像としては最大級のもの。本尊とともに県の指定文化財。この大黒天は平安時代の貞観(じょうかん)2年(860)、ここを訪れた慈覚大師が参籠中に朝日が昇るなか現れた大黒天を再現したと伝えられていて、「朝日開運大黒天」と呼ばれている。欄間{らんま}には竜が刻まれており、波の伊八と称された初代武志(たけし)伊八郎信由の作である。

26番 小松寺(こまつじ)

檀特山小松寺
南房総市千倉町大貫1057

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「小松寺と きいてたずねきて見れば ふしぎなるものおとおう(乙王)が滝」

 奈良時代の養老2年(718)に役小角(えんのおずぬ)によって創建されたといわれている。その後延喜(えんぎ)20年(920)に安房の国司小松民部正壽(まさとし)によって再建された。仁王門を入ると右手に観音堂があり、平安時代に造られた聖(しょう)観音菩薩像が安置されている。弘法大師の作と伝えられている。寺には中世以前の仏像が多く祀られ、鎌倉時代の銅造十一面観音菩薩坐像は国の重要文化財。本尊の木造薬師如来立像は平安時代の作で、県指定文化財。瀬戸浜で魚網にかかったお像だといわれている。梵鐘(ぼんしょう)も南北朝時代の作で、県指定文化財。鐘楼の木鼻彫刻は後藤義光の弟子後藤義信の作。ご詠歌にある乙王(おとおう)とは、小松民部正壽(まさとし)の子千代若丸の従者。寺の再建落慶法要の最中に千代若丸が天狗にさらわれ、平久里郷で変死したのを嘆いて乙王が滝に身を投げたという口伝がある。近頃は秋に紅葉狩りの人々でにぎわっている。平成20年に、霊場景観がちば文化的景観のひとつに選定された。

27番 住吉寺(すみよしでら)

中嶋山住吉寺
南房総市千倉町南朝夷1353

真言宗

正(しょう)観世音菩薩ご詠歌
「中嶋へ まいりて沖をながむれば いつもたえせぬ波のあらさよ」

 観音堂は左手急な石段を登ったところにあり、本尊は行基作と伝えられている。お堂の外陣(げじん)には江戸末期の百観音巡礼奉納額が掲げられている。この高台は古くは海中の岩上にあり、船で参拝したという。海中にあったころは中嶋と称し、その名が残って中嶋観音とよばれている。観音堂の裏側を流れている川までがかつては海岸線だったといわれ、今でも観音堂の下に船を係留(けいりゅう)したといわれる岩がある。境内には土佐與市(よいち)の記念碑がある。紀州印南(和歌山県印南町(いなみちょう))出身の「土佐與市」が、文化10年(1813)頃に南朝夷へ鰹節の製法を伝えたことで、千倉町が「安房節(あわぶし)」の発祥となった。本堂左手の洞窟の中に二十三夜尊(勢至菩薩)がある。これは明治の頃漁師が沖で漁をしていた時に網にかかり奉納したものである。観音堂の向拝(ごはい)には「後藤利兵衛橘義光70歳」の時の彫刻があり、南房総市の指定文化財になっている。

28番 松野尾寺(まつのおじ)

福聚山松野尾寺(自性院(じしょういん))
館山市神余4612

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「おもくとも つみにはのりの松のおじ 仏をたのむ身こそたのもし」

 松野尾寺は、室町時代の豪族神余(かなまり)景貞(かげさだ)の三回忌に、里人が岩崎台に建てた念仏堂にはじまる。文安5年(1448)に福寿山満福寺と改め、のち福聚山松野尾寺と改称した。本尊は文殊菩薩。境内に観音堂があった。大正12年の関東大震災で倒壊したため、地区内の来迎(らいこう)寺・安楽院とともに自性(じしょう)院へ合併された。室町時代中頃に神余地蔵畑の岩屋で家臣山下定兼(さだかね)の反逆に遭った神余景貞が自殺したとされ、これを供養した自性房がこの岩屋に自性院を創建したといい、岩屋が元禄大地震で崩れると現在地に移った。本尊は不動明王。平安時代中頃の阿弥陀如来坐像は市指定文化財。阿弥陀如来立像の体内にあった鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔(しゃりとう)は、全国で数例しかなく市指定文化財。境内にある明治8年(1875)の出羽三山碑は、四国霊場88か所と西国・秩父・坂東100観音霊場の188か所巡礼をした記念碑になっている。

29番 金蓮院(こんれんいん)

金剛山慈眼(じげん)寺金蓮院
館山市犬石379

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ずんといり 見あげて見ればひしゃく(飛錫)塚 ごくらくじょうどは犬いしのどう」

本尊:大日如来

 昔、伊豆から来た僧が犬に牽(ひ)かれてこの地へ来たが、犬が離れないので錫杖(しゃくじょう)を振ったところ、犬が消えたといい、そこに観音堂を建てたと言い伝えられている。本堂裏の岩山が錫杖を振ったところで飛錫塚(ひしゃくづか)と呼ばれている。堂は後年現在地へ移された。塚の上には、竜宮から上ったと伝えられる枕字石(ちんじいし)がある。また塚の端は享保(きょうほう)19年(1734)に一石に一文字ずつ経文を書いて19,500個埋めた経塚で、石書妙経塔がある。本堂の欄間(らんま)には、二間半(14尺)の立派な龍の彫り物があり、二代目武志伊八郎の銘がある。山門を入って左側に庚申塔があり、長須賀の石工鈴木伊三郎が刻んだ肉厚の青面金剛像は力強い。近くの犬石青年館にはかつて犬石権現が祀られていた岩と洞窟がある。鉈切(なたぎり)神社から僧が犬を連れて洞窟に入ったが、犬だけが出て石になった所で、犬石の地名のもとと言われている。

30番 養老寺(ようろうじ)

妙法山観音寺(通称:養老寺)
館山市洲崎1331

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば のぼりくだりのふねぞ見えける」

 洲崎灯台を過ぎると左手に御手洗(みたらし)山が道際までせまってくる。中腹には洲崎神社が望め神社のすぐ手前が観音寺で、子育て保育園が併設されている。ここ洲崎(すのさき)は東京湾の入口で、内房と外房の境目でもある。当寺の開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)とされ、養老元年(717)の創建。本尊の十一面観世音菩薩は洲崎神社の本地仏(ほんじぶつ)であり、神社の社僧も勤めていた。堂の左奥には役行者の霊力で湧いた独鈷水(とっこすい)があり涸(か)れることがないという。右上の岩屋には役行者の石像が祀られ、里見八犬伝では役行者の化身が伏姫(ふせひめ)に仁義礼智忠信孝悌の文字が浮かぶ数珠を授ける名場面に登場する。観音堂の向拝(ごはい)彫刻は後藤義光の師匠・後藤三四郎恒俊(つねとし)の作。境内にある一本すすきや綿鍋(わたなべ)家伝説など、洲崎神社も含めて頼朝伝説が数多く残されている。

31番 長福寺(ちょうふくじ)

普門山長福寺
館山市館山928

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば 岸うつなみにふねぞうかぶる」

 城山公園の北にある小丘「北下台(ぼっけだい)」に、神亀(じんき)2年(725)行基が千手観音菩薩像を安置したことに始まるという。元和・寛永・元禄の震災は免れたというが、関東大震災で倒壊し、再建されたものの昭和39年に館山仲町の長福寺へ移された。北下台の墓所中央には「館山観音御堂旧址」の碑が残されている。長福寺の本尊は不動明王。里見氏から慶長年間に真倉(さなぐら)村で6石の地を与えられた。寺伝では行基の創建で、中興開山は伝忠という。観音堂右の墓地には館山藩の御典医「宮川元斎(明治33年没)」の墓がある。観音堂裏の永代供養墓の中には「寄子(よりこ)萬霊塔(ばんれいとう)」がある。これは明治維新の戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵たちの慰霊碑で、塔の裏には「鐘の音(ね)の落葉さみしき夕べかな」の句が詠まれている。

32番 小網寺(こあみじ)

金剛山小網寺
館山市出野尾85

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりてみれば小あみ山 かねのひびきにあ(明)くるまつかぜ」

 県道86号線、岡田口バス停から暫(しばら)く歩いて小網坂と呼ばれる急坂を登ると小網寺である。小網坂右手の谷は法華谷(ほっけやつ)と呼ばれる行場(ぎょうば)で、弘法大師も修業したと伝わる「やぐら」がある。仁王門をくぐり苔むした石段の上が観音堂で、聖観音像(市指定文化財)が祀られている。観音堂の左側には、お堂が元禄大地震の倒壊から復興なった記念に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。下の本堂(本尊:不動明王)向拝(ごはい)にある安房の名工後藤義光が刻んだ彫刻は見事。小網寺は古くは大荘厳寺(だいしょうごんじ)と呼ばれ和銅3年(710)の創建、密教道場として安房の高野山といわれるほど栄えた。鐘楼(しょうろう)の梵鐘は国の重要文化財で鎌倉の名工物部(もののべの)国光(くにみつ)の作。伝説に、この鐘は海中から出現して平砂浦(へいさうら)に打揚げられ、撞(つ)いてみると響きが「小網寺へ」と聞こえたので寄進したとされ、平砂浦の布沼(めぬま)には鐘搗(かねつき)塚という地名があると言う。鐘の音はご詠歌にも詠まれている。

33番 観音院(かんのんいん)

杉本山観音院
館山市西長田372

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「ふるさとを はるばるここに杉本へ わがゆくさきはちかくなるらん」

 行基が聖観音菩薩像を刻み楠の祠(ほこら)に安置した事にはじまるという。後に天平(てんぴょう)6年(734)慈覚大師が堂宇を造営した。この観音像とお前立(まえだち)は平安時代の作で藤原様式の古い仏像である。天正時代に堂守が鎌倉で処罰されようとした時、聖観世音菩薩が助けてくれたという霊験(れいげん)が伝えられ「身代わり観音」と云(い)われている。観音堂向拝(ごはい)の龍は明治28年後藤義光の作で、飛天は明治34年のものである。寺号額は文化年間の浩然(こうねん)(下野(しもつけ)の国出流(いずる)観音満願寺の僧)の書。境内には室町時代の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠があるほか、天保4年(1833)の石灯籠、享和2年(1802)の光明真言塔(宝篋印塔)、享保15年の御詠歌額がある。慶長11年(1606)に里見忠義から2石の寺領が寄進され、その時の朱印状も残されている。

番外 震災観音堂(しんさいかんのんどう)

震災観音堂
館山市北条2549-4

曹洞宗慈恩院境外仏堂

聖観世音菩薩ご詠歌
「あわやとて たつまなきまにきゆるみは おなじはちす(蓮)の花のうてな(台)に」

 関東大震災で未曽有(みぞう)の被害を受けた安房郡内では1206人の犠牲者を出した。死者の霊を慰めるために延命寺の佐々木珍龍(ちんりゅう)禅師が北条六軒町に創建した堂で、戦後現在地に移された。本尊は佐渡の仏師親松佛巌(ちかまつぶつがん)翁作。ご詠歌は震災で外孫を亡くした北条在住の万里小路通房(までのこうじみちふさ)伯爵が詠み揮毫(きごう)した。境内の石灯籠は北条の富士浅間(仙元)講中の百余名が慶応2年(1866)に寄進したもの。海運事業の発展に寄与した小原謹一郎の顕彰碑もある。謹一郎は私財を投じて館山の近代化に寄与した人物で、その父善兵衛は幕末から明治の初めまでに汐入川を改修し、右岸の沼地を埋め立てて水田とし「小原新田」と呼ばれていた。

その3 長狭街道丸郡コース 

8番 日本寺(にほんじ)

乾坤山日本寺
鋸南町元名184

曹洞宗

十一面千手観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼればにほんの山おろし まつのひびきもみのり(御法)なるらん」

 本尊:薬師瑠璃光(るりこう)如来 薬師堂は平成19年に再建。日本寺は神亀(じんき)2年(725)聖武天皇勅願により行基(ぎょうき)が開き、七堂十二院百坊を持つ大寺であったという。昭和14年(1939)の火災で諸堂を焼失したが、観音堂と仁王門は火災を免れた。鋸山の景観は県の名勝に指定され、広大な境域には釈迦・薬師・大日の諸仏をはじめ大小の石像が数多く祀られている。特に千五百羅漢(らかん)群像は安永9年(1780)に高雅愚伝(こうがぐでん)和尚が発願したもので、上総桜井(木更津市)の石工大野甚五郎が刻んだ。十一面千手観音菩薩像は慈覚大師の作とされ、観音堂は元禄13年(1700)の造営。正面の扁額(へんがく)「円通閣」は天保頃の旗本曽根懶斎(らいさい)の書である。元は南麓の岩殿(いわぶ)山にあって、岩戸観音と呼ばれていた。日本寺は古くから文人墨客が訪れて詩碑・句碑が多く、大蘇鉄も見所。また鎌倉時代の元亨(げんこう)元年(1321)銘の梵鐘は国の重要文化財である。

9番 信福寺(しんぷくじ)

鹿峰山信福寺
鋸南町大帷子(おおかたびら)637

曹洞宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「しんぷく寺 のぼりて岸をながむれば ほたのかわせにたつは白波」

 縁起によると平安時代の天安年間(857~859)に慈覚大師が草創したとされ、本尊の如意輪観音菩薩坐像は行基の作と伝えられる。戦国時代の弘治(こうじ)元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1669)に村の名主高浜利盛(としもり)や斉藤昌詮(まさあき)など村民の浄財で三間四面の観音堂を再興し、さらに上総国鮎川(君津市相川)の見性寺(けんしょうじ)から本清和尚を招いて中興開山とした。和尚は延宝元年(1673)に京仏師の大蔵卿康為(やすゆき)を招いて如意輪観音菩薩坐像を再興している。この観音像は世間では「子授け観音」と呼ばれ信仰されている。堂内の格(ごう)天井には、県内でも珍しい易(えき)で使う算木(さんぎ)の絵が描かれている。これは必見。境内には正和(しょうわ)5年(1316)建立の弥陀(みだ)三尊種子(しゅじ)の武蔵式板碑(いたび)(町文化財)がある。安房地方では珍しいもの。なお、普段の納経所は元名(もとな)の存林寺である。

16番 石間寺(せきがんじ)

石間寺(東陽山小原寺)
鴨川市下小原374

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「石のつま 峰よりおつるたきの水 むすぶこころはすずしかるらん」

 かつては嶺岡山系に連なる山の頂上にあったが火災で伽藍(がらん)を焼失し、その後観音台と称する場所に再興したという。江戸時代の元文年間にも火災があり宝暦年間に再建されたが、さらに明治33年の火災で焼失すると、同39年(1906)に同地の西福院(さいふくいん)と合併して小原寺(しょうげんじ)と改称し、翌年に再建したのが現在の観音堂である。お堂の向拝(ごはい)には龍の彫刻があり、作者は後藤義光の弟子で国分の後藤義信。小原寺(しょうげんじ)は真言宗に属し、本尊は不動明王(西福院)と十一面観世音菩薩(石間寺)。西福院の創建の年は不詳であるが、不動明王像は奈良時代の高僧良弁(ろうべん)僧正の作、十一面観音菩薩像は弘法大師の作とする伝承がある。良弁(ろうべん)僧正は、奈良時代の高僧の一人で、東大寺創建の中心人物。平塚の大山寺の創建者とも伝えられている。

17番 清澄寺(せいちょうじ)

千光山清澄寺
鴨川市清澄322-1

日蓮宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ふきはらう 月きよすみの松風に はまよりおきにたつはしらなみ」

 本尊:虚空蔵菩薩 宝亀(ほうき)2年(771)不思議法師が自刻の虚空蔵(こくうぞう)菩薩をこの地に安置し、のち慈覚大師がこの像の前で21日間の修行を行って以降天台宗となった。戦国時代から度重なる火災や戦で寺は衰退するが、江戸時代の初め真言宗の僧頼勢(らいせい)が徳川家からこの寺を賜り再興した。十万石の格式があったが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で再び衰退した。日蓮が12才で入山修行したことで知られ、建長5年(1253)に旭が森で初めてお題目を唱えて、日蓮宗の布教活動を始めている。そのため昭和24年(1949)に真言宗から日蓮宗に改宗した。観音堂の十一面観音菩薩像は行基の作であるという。境内には国指定天然記念物の大杉や県指定文化財の中門・宝篋(ほうきょう)印塔・石幢(せきどう)・梵鐘・経塚遺物や県指定天然記念物のモリアオガエル等多くの文化財がある。

18番 石見堂(いしみどう)

石見堂
鴨川市貝渚2261

真言宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「石見堂 まいりて沖をながむれば ふねにたからをつむぞうれしき」

 正暦(しょうりゃく)4年(993)行基廻国の際、自作の観音像を安置し堂宇を創立したと伝えられている。はじめ西浜の海面に浮かぶ岩山にあったが、天保年間(1830~1844)に現在地へ移された。現在のお堂は明治15年(1882)に再建されたもの。観音像は戦時中に艦砲射撃を避けて、近所の女衆のリヤカーに乗せられて10㎞先の山中にある白滝不動まで疎開したそうである。北小町の佐生(さしょう)勘兵衛が奉納した享保15年(1730)のご詠歌額が掲げられている。向拝(ごはい)の龍彫刻は二代目武志(たけし)伊八郎信常のもの。境内には磯村の医師であり常盤連(ときわれん)を主宰した俳人尾崎鳥周(ちょうしゅう)の句碑や寛文12年(1672)建立の庚申塔(こうしんとう)、慶応元年(1865)奉納の手水(ちょうず)石などがある。眼下に鴨川漁港・鴨川松島などを臨み眺めがよい。石見堂は現在500mほど離れた金剛院の境外仏堂になっている。

19番 普門寺(ふもんじ)

補陀洛山普門寺(正文寺(しょうぶんじ))
南房総市和田町中三原270

日蓮宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「ふもん寺へ ひばらまつばら分けゆけば めぐみも深き岩やなりけり」

 観音像は天平(てんぴょう)19年(747)行基の作と伝え、古くは字寺谷(てらやつ)の山中にあって岩戸観音と呼ばれた。岡本兵庫が寄進した懸造(かけづくり)の観音堂があったといい、天保15年(1844)に改築され、飛騨の石工仁兵衛が9年をかけて堂を巡る参道を整備し信仰を集めたが、江戸時代末に無住となって盗賊赤忠(あかちゅう)の一味が根城にしたことがあり、観音像は大正6年(1917)に正文寺(しょうぶんじ)祖師堂へ移された。普門寺への旧入口に宝暦4年(1754)の「壱拾九番普門 三原」の石柱がある。正文寺の本尊は日蓮聖人奠定(てんてい)大曼荼羅(だいまんだら)。当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺だったが、天正(てんしょう)2年(1574)に勝浦城主正木頼忠が父時忠の菩提寺として日蓮宗に改めた。境内には市指定史跡の中世のやぐら内の磨崖(まがい)五輪塔、正木氏由縁(ゆかり)の供養塔などがある。

20番 石堂寺(いしどうじ)

長安山東光院石堂寺
南房総市石堂302(旧丸山町)

天台宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ただたのめ 千手のちかい両だすけ 二世(にせ)あんらく(安楽)をかけてたのめよ」

 1300年程前、奈良の僧恵命(えいみょう)・恵照(えいしょう)がインドの阿育王(あしょかおう)の仏舎利(ぶっしゃり)を携えて当地を訪れ草庵を結んだことに始まり、神亀(じんき)3年(726)に行基が自刻の十一面観音菩薩像を本尊とする堂宇を建立したという。仁寿(にんじゅ)元年(851)には慈覚大師が本尊前立を彫刻して百日間の護摩祈祷を行ったといい、以降信者が増え隆盛を極めた。文明19年(1487)に野盗の失火で全山焼失したが、当地の豪族丸氏や里見氏の援助で再建された。その時の本堂や多宝塔はじめ、本尊の十一面観音菩薩像と厨子(ずし)、薬師堂・庫裏(くり)及び旧尾形家住宅は国の重要文化財であり、他に県指定の山王宮、市指定の鐘楼(しょうろう)等が建ち並んでいる。多宝塔修復の際取り外した脇間彫刻は江戸後期の彫物師初代武志(たけし)伊八郎の作品で、現在は庫裏に保存展示してある。

34番 滝本堂(たきもとどう)

滝本堂(大山不動堂)
鴨川市平塚1718

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「ごくらくの みのりはここに大山の 千手のちかいなをもたのもし」

 かつて古畑(こばた)に所在した長徳寺が滝本観音堂の前身である。修験寺で、行基作の観音像を胎内(たいない)に納めた運慶作とされる観音像を安置する由緒ある寺院だった。鎌倉時代の貞永(じょうえい)元年(1232)に慈悲上人が安房の観音霊場を定め、滝本堂を34番納めの札所に選んだという縁起がある。大永2年(1522)、土豪の糟谷石見守(かすやいわみのかみ)家種が同寺を再興し、寺号を大永山普門寺長徳院と改め、千手観音菩薩立像を本尊とした。しかし明治を迎えて廃寺となったことから、昭和34年に観音像を大山寺へ移して不動堂の中に滝本堂として維持されている。中央はお不動様で左側が観音様である。大山は海抜219mで、長狭(ながさ)平野や太平洋が一望できる。大山寺は諸武将の崇敬を集めた山頂の高倉神社の別当で、ともに神亀元年(724)良弁(ろうべん)僧正の創建といわれる。本尊は鎌倉後期作の木造不動明王坐像で、向拝(ごはい)に波の伊八の龍の彫刻が施された不動堂とともに県指定文化財。不動堂裏の坂道には文和(ぶんな)2年(1353)造立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。

番外 観音寺(かんのんじ)

福聚山観音寺 鋸南町保田335

元は真言宗

聖(しょう)観世音菩薩ご詠歌「ありがたや まことの道に手引して ふかきえにし(深き縁)をむすぶみほとけ」

 縁起によれば、安房の太守(たいしゅ)里見義実(よしざね)が文明3年(1471)に祈願所として建立し、本尊として聖観音立像を安置したという。観音像は弘法大師の作と伝えられている。本寺であった真言宗円蔵院(南房総市千倉町)所蔵の文書に、「穂田(ほた)之観音寺分弐貫代」と記された天正18年(1590)の里見義康(よしやす)寺領安堵状(あんどじょう)がある。徳川氏からは元和(げんな)4年(1618)以来5石の寺領が与えられていた。後に保田の曹洞宗昌竜寺の境外(けいがい)仏堂になった。現在の堂宇は昭和30年(1897)に新築されたもの。番外札所となったことには観音霊場決定の集まりに遅れた「朝寝の観音」の伝説がある。堂内には初代武志(たけし)伊八郎の象鼻と獅子鼻の彫刻、境内には享保(きょうほう)年間の力士「雲の戸重右衛門」の墓や椎茸(しいたけ)栽培の指導者「鈴木初太郎」の碑などがある。

その2 北郡コース

4番 真勝寺(しんしょうじ)

岩峰山(いわぶさん)真勝寺
南房総市富浦町青木173

真言宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりて見れば真しょう寺 巡礼堂もたのもしきかな」

 奈良時代、光明皇后は行基(ぎょうき)に2体の如意輪観音像の彫刻を依頼し、1体は安産祈願のため奈良の帯解寺(おびとけでら)に、1体は難産救済のため立田川に流された。その1体が岡本(富浦)沖で発見され青木真勝(まさかつ)が引上げて、真勝寺を建立し観音像を安置したと伝えられている。如意輪観音は6つの手を持ち安産・火除(ひよけ)・厄除(やくよけ)の観音様として信仰され、当寺には安産の絵馬がたくさん奉納されている。石段の左手には樹齢600年、幹の周囲が2.8m程の犬槙(いぬまき)、右手には少し小振りの犬槙があり、「ア・ウンの細葉(ほそば)」と呼ばれている。石段の中ほどには室町初期と思われる五輪塔がある。慶安5年(1652)の六面塔は各面にそれぞれの仏具を持った地蔵菩薩(六地蔵)が彫られている。石段の手前にお地蔵様とお不動様が安置されている堂もある。観音堂の裏手には万治4年(1661)・延宝元年(1673)の住僧の墓があり、周りの崖には古いやぐらがみられる。

5番 興禅寺(こうぜんじ)

海恵山興禅寺
南房総市富浦町原岡275

臨済宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「寺を見て 今はさかりのこうぜん寺 庭のくさきもさかりなるもの」

本尊:釈迦如来

 興禅寺は鎌倉の円覚寺末で、里見氏や徳川氏から寺領を与えられていた。寺伝によれば貞和元年(1345)に夢窓(むそう)国師を開山として創建され、戦国時代に里見義弘の夫人(小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の息女)であった青岳尼(しょうがくに)を開基としたが、やがて荒廃した。延宝3年(1675)円覚寺の拙翁碩松(せつおうせきしょう)が再興にかかり、孫弟子無外碩珍(むがいせきちん)の代になって本堂が完成した。観音堂は弘化2年(1845)深名村の喜兵衛が本願人、青木村・南無谷村の大工棟梁らにより再建されたもの。堂内の厨子(ずし)は宝暦3年(1753)建立。市指定文化財としては、拙翁禅師(ぜんじ)が延宝3年に建立した青岳尼百年忌供養塔がある。他に享保12年(1727)に建てられた地蔵菩薩像、本堂改築などを行った9世住職孝岳(こうがく)を称えて大正12年(1923)建立された孝岳塔などがある。

6番 長谷寺(はせでら)

海光山長谷寺
鋸南町勝山409

臨済宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「長谷寺へ のぼりて沖をながむれば にはま(仁浜)の浦にたつは白波」

 大黒山の麓に位置する法福寺横の急階段を登ると、通称「堂山の観音様」と呼ばれる長谷寺がある。寺の由緒によると、天平の時代、聖武(しょうむ)天皇が病気平癒を祈願して奈良長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基が2体の観音像を彫り安置した。その内1体は足利尊氏が武運長久祈願のために帰依(きえ)し、当地が岩山であることから永遠不変と考えて、御朱印300石と敷地一町四方を寄進し堂宇を建て安置したという。その後、尊氏の意思を継いだ4代将軍足利義持が僧木鐸(もくたく)とともに応永13年(1406)に当寺を開創したとされている。その後不運にも3度も堂宇が倒壊したが、信仰と再興に励んで今に至っている。お堂の左には三猿を刻んだ山王社と、捕鯨の醍醐出刃組(だいごでばぐみ)が大正3年(1914)に海上安全と大漁を祈願して鎌倉から移した半僧坊(はんぞうぼう)が祀られ、境内左手の外れには元禄大津波の死没者供養のための海難記念碑がある。

7番 天寧寺(てんねいじ)

瑞雲山天寧寺
鋸南町下佐久間3180

臨済宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「天ねい寺 きいてたずねてきて見れば いつもたえせぬまつ風の音」

本尊:釈迦如来

 建長年間(1220年代)に鎌倉幕府の評定衆二階堂隠岐入道行盛(おきにゅうどうゆきもり)が開創した律宗(りっしゅう)の寺だったが、文和(ぶんな)元年(1352)足利尊氏が禅宗に改め、里見氏からは寺領を賜ったと伝えられている。明暦元年(1655)の火災で堂塔を焼失したあと、宝永4年(1707年)、建長寺第一座白翁乾虎(はくおうけんこ)和尚の代に、背後の山上に観音堂を構え「正眼閣」と名づけて千手観音菩薩坐像を安置、浄財を集めて新しく石段108段を完成した。観音像は尊氏の時に中国の天寧寺からもたらされたもので毘首羯摩(びしゅかつま)の作といわれている。現在は本堂に安置されている。本堂は明治26年(1893)の建築である。仁王門は江戸末期に再建されたものだが、仁王像は運慶の作と伝えられている。掲額「房州古禅林」は山岡鉄舟の筆。境内には県指定天然記念物の柏槇(びゃくしん)の巨木があり、明暦の大火のあとを留めている。本堂南東方向には中世のやぐらがある。

10番 往生寺(おうじょうじ)

金清山往生寺(密厳院(みつごんいん))
鋸南町上佐久間1241

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「おうじょう寺 登りて見ればちしゅの花 いつもたえせぬのりのこえかな」

 寺伝によれば寛仁(かんにん)元年(1017)恵心(えしん)僧都が創建し、裏山の通称観音山の頂にあった。聖観音像も恵心僧都の作といわれている。ご詠歌の「いつも絶えせぬ法(のり)(読経)の声かな」からは栄えたことが伺えるが、やがて山頂の往生寺は廃されて観音像は、阿弥陀如来を本尊とする麓の密厳院に移された。密厳院は里見氏や徳川氏から寺領30石余を与えられ、かつては山門に向かって一直線に伸びる長い参道があった。現観音堂は明治2年(1869)、密厳院本堂脇奥に阿弥陀堂として建てられたもので、明治42年(1909)に現在地へ移築して観音像を安置した。堂内には不動明王坐像、享保(きょうほう)15年(1730)奉納のご詠歌額及び明治4年(1871)奉納の句額がある。山頂には住職墓地や光明真言(こうみょうしんごん)三千万遍供養塔が残されている。

11番 金銅寺(こんどうじ)

奇雲山金銅寺
鋸南町上佐久間1977

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりて見れば こんどう寺 はぎのはしらは五六千本」

本尊:聖観世音菩薩

 由緒によれば、和銅2年(709)に現在地より北方の小萩坂に行基が観音菩薩像を刻んで創建したという。その後荒廃し草原となってしまったが、弘安3年(1280)に僧玄助(げんじょ)が立ち昇った白雲を見て草むらを掻(か)き分けたところ金銅の聖観音像が現れ、ご詠歌にあるように萩(はぎ)を束ねて柱とし茅(かや)で屋根を葺き観音像を安置したとされている。文安5年(1448)に村人たちが力を合わせて堂宇を建立し崇拝して以来、地元民の力に支えられ現在に至っている。境内には町指定文化財で、寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師(いもじ)藤原忠直作の梵鐘(ぼんしょう)(願主は湯殿山講中)がある。戦時中供出されたが山梨県の長生寺にあることが判り、昭和58年に戻された。他に文政12年(1829)建立の出羽三山碑や光明真言供養塔などがある。

12番 福満寺{ふくまんじ}

富山諏訪坊福満寺
南房総市合戸569(旧富山町)

真言宗

福満寺観世音菩薩ご詠歌
「おもくとも かるくのぼれや富山へ 四方じょうどを見るもごくらく」

本尊:十一面観世音菩薩

 天平3年(731)行基により開創された。はじめは1合目の大房(おおぼう)というところにあり、地蔵堂・子安社・蔵王権現等が祀られていた。その後焼失・再建を繰り返し、元治(がんじ)元年(1864)現在地に本堂が再建された。かつて観音堂は富山(とみさん)山頂にあって享保14年(1729)に再建され、寛政元年(1789)には仁王門と仁王像(宮谷(みやのやつ)村大仏師渡辺馬之助の作)も建立されたが、昭和30年(1955)の失火により全焼し聖観音像は焼失してしまった。現在は福満寺本尊十一面観音菩薩が観音巡礼にご開帳され、山頂には仮堂が建てられて石造の十一面観音像がお祀りされている。また、山頂にあった仁王像は平成10年に福満寺の山門に移された。富山は標高349.5m。曲亭馬琴著の南総里見八犬伝の舞台で有名だ。参道入口には大正元年の登山道標があり、「ふもとに伏姫籠穴(ろうけつ)あり」と八犬伝が宣伝されている。

14番 神照寺(しんしょうじ)

朝日山神照寺
南房総市平久里中205(旧富山町)

曹洞宗(元真言宗)

十一面観世音菩薩ご詠歌
「朝日さす 夕日かがやく神照寺 たのみをかくる伊予のゆうだち」

 ご詠歌にある伊予ヶ岳は夕日がいつまでも照り映える雨乞いの山としても知られている。神照寺は伊予ヶ岳の麓にある。創建された時期は不明だが、文和(ぶんな)2年(1353)に平久里郷鎮守の天神社が細川相模守によって京都天満宮から勧請(かんじょう)されたとき、その本地仏(ほんじぶつ)である十一面観音菩薩像が安置され、隣接の神照寺が別当寺になったという。修験の寺であったため明治5年(1872)に廃寺となり、同14年に観音堂と十一面観音像は泉龍寺(平久里中)の管理となった。観音堂内の御詠歌額は享保15年(1730)奉納、境内右手には天保14年(1843)建立の「南無遍照金剛」の弘法大師供養塔がある。神社参道には市の天然記念物である夫婦クスノキと呼ばれる巨樹がある。手前は「女木」で樹高15m、神社寄りが「男木」で樹高25m、千年前に地元住民が植えたと伝えられている。

15番 高照寺(こうしょうじ)

大嶺山高照寺
南房総市山田1162(旧富山町)

曹洞宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「大杉へ きいてたずねてきて見れば ほとけのちかいあらたなるもの」

 十一面観音菩薩像は元来大椙山椙福寺(しょうふくじ)の本尊で、椙福寺の衰退に伴い一時平久里中(へぐりなか)・上の台にあった常光院へ移され、さらに大正3年(1914)、高照寺へ移されて現在まで安置されている。椙福寺の仏具として永享(えいきょう)3年(1431)の銘がある鰐口(わにぐち)も当寺に残されている。高照寺の入口には、嘉永6年(1853)に建立された高さ2m程の「国札所十五番大杉山」の石の標柱がある。別当(べっとう)浄光院(常光院)が建立したと書いてあり、この時期に札所が常光院に移っていたことがわかる。高照寺は長享(ちょうきょう)3年(1489)頃創立され、本尊は地蔵菩薩。牛の安産寺といわれる。境内には蓬莱(ほうらい)稲荷が祀られている。

番外 水月堂(すいげつどう)

水月山水月堂
鋸南町勝山409

千手観世音菩薩ご詠歌
「ありがたや 千手の糸をつずみ来て じひ(慈悲)のみもとで今ぞきるらん」

 大智庵本堂裏の山裾にやすらぎ地蔵の祠があり、横の階段を上がると水月堂が建っている。お堂は文和(ぶんな)4年(1355)の創建とされている。元禄16年(1703)の大津波で多数の死没者がでたとき、通称千人塚に供養されたが、捕鯨集団-醍醐組(だいごぐみ)でも、3代目醍醐新兵衛の兄弁之助や親戚などに犠牲者を出した。3代新兵衛明定(あきさだ)は、元文5年(1740)に死没者の冥福を祈るためと、危うく助かった父・祖父・自分達に対する仏の加護に感謝して、江戸の仏師に観音像造像を依頼し、初代新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て観音様を安置したのが現在の水月堂である。お堂の横には身代わり観音の石碑が建てられている。ちなみに勝山捕鯨の歴史は、里見水軍の血を引く世襲制の捕鯨集団である醍醐家の歴史であり、代々新兵衛を名乗った。

その1 平郡コース 

1番 那古寺(なごじ)

補陀洛山千手院那古寺
館山市那古1125

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「ふだらく(補陀落)は よそにはあらじ那古の寺 岸うつ波を見るにつけても」

本尊:千手観世音菩薩

 那古寺は坂東33番観音札所の結願寺(けちがんじ)でもある。開基は行基(ぎょうき)。中興の祖は慈覚(じかく)大師。源頼朝、足利・里見・徳川氏より庇護(ひご)を受け、鶴谷(つるがや)八幡宮の別当寺でもあったが、明治維新で寺領は没収された。元禄の大地震(1703)で倒壊し、大正12年(1923)の関東大震災でも被災したが、その都度再建修理され、更に近年大修理されている。千手観音菩薩の由緒は、養老元年(717)元正(げんしょう)天皇の病気平癒(へいゆ)のため、行基(ぎょうき)が海中より上げた異木(いぼく)で千手観音像を彫り、祈祷により快癒されたことによる。本尊のほか国指定の銅造千手観音立像や、県指定の阿弥陀如来坐像・観音堂・多宝塔などの文化財がある。また境内には大蘇鉄(そてつ)や、「此(この)あたり眼に見ゆるもの皆すずし」「春もやや景色ととのふ月と梅」の芭蕉句碑をはじめ、忠魂碑その他の記念碑・顕彰碑や、元禄時代の石灯籠、その他石造物が数多くあり見逃すのはもったいない。裏山には自然林があり、山頂の「潮音台(ちょうおんだい)」からの展望は素晴らしい。

2番 新御堂(にいみどう)

潮音山新御堂
館山市亀ヶ原808-2

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「にいみどう みあげてみれば峰の松 くびこいつる(鶴)にかめいど(亀井戸)のみず」

 現在の新御堂は本来真言宗の秀満院境内地である。秀満院は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊していたため、昭和42年(1967)に新御堂(にいみどう)が旧寺地から移転してきた。旧寺地は県道を挟んで反対側の山の中段にある。堂内には明治3年(1870)につくられた大きな大黒天像も祀られている。境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は明和5年(1768)のもの。この周辺は蔵敷(ぞうしき)といい、律令時代の役所である国衙(こくが)などにいた下級役人「雑色(ぞうしき)」を意味する言葉が地名となったものであり、安房国府との関連が考えられる地域である。ご詠歌にある亀井戸が「亀ヶ原」の地名の由来といわれ、旧寺地には亀井戸が残されている。また文化年間の火災にかかるまでは、お堂へかぶるように「峰の松」があったと伝えられている。旧寺地には正徳4年(1714)の石造地蔵菩薩像が立ち、現在地への入口になる辻の六地蔵と同時につくられている。

3番 崖観音(がけかんのん)

船形山大福寺(通称:崖観音)
館山市船形835

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ふなかたへ 参りて見ればがけづくり 磯うつ波はちよのかずかず」

 「崖の観音」で有名な大福寺は船形山の中腹にある。断崖の途中に張りついて見える赤い舞台造りの観音堂の中に「崖の観音様」が刻まれている。寺の由緒では崖観音は養老元年(717)に行基(ぎょうき)がこの地へ来て崖に刻んだと伝えている。その後慈覚(じかく)大師により堂宇が建立されたが、承応(じょうおう)2年(1653)の火災により朱印状・寺宝等すべて焼失、正徳(しょうとく)5年(1715)に諸堂を再建したが大正12年(1923)の関東大震災によってまたも倒壊、同14年(1925)現在の堂宇を建立した。崖観音は平安時代の中頃に造られたと考えられる磨崖仏(まがいぶつ)として市の指定文化財である。船をふせた船底の形をしている船形山の観音様は、漁師などから海上安全の守護仏として信仰されてきた。船形では江戸時代から魚を江戸へ送っていたので、境内の灯籠などは魚河岸(うおがし)の魚問屋が奉納している。隣には船形の鎮守諏訪神社が鎮座しており、江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていた。堂の桁(けた)下には左甚五郎作といわれる十二支の彫刻があったが震災により損壊、現在は四支だけとなっている。堂の欄干(らんかん)越しの眺望はまさに絶景といえる。

13番 長谷寺(ちょうこくじ)

鳥数山長谷寺
南房総市下滝田486-1(旧三芳村)

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「わけゆきて きたりて見ればにしのやつ(西ノ谷) 長こく寺とはめいしょ(名所)なるもの」、以前は「とりすやま おく(奥)わけゆけばにしのやつ ちょうこくじとはめいしょなるもの」

 由緒は不詳だが安房国三十四観音霊場の第十三番札所として知られ、口伝(くでん)によると僧行基(ぎょうき)の開基と伝えられている。当初は近くの観音山の山頂にあったが、弘化3年(1846)頃現在地へ移転されたという。現在のお堂は昭和63年(1988)に改築されたもので、中には享保15年(1730)の御詠歌額も残されている。境内には文政5年(1822)建立の光明真言塔や、寛政3年(1791)の「十三番札所道」と表示した石造の道しるべなどがある。

21番 智光寺(ちこうじ)

長楽山智光寺
南房総市山名1370(旧三芳村)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「光明寺 のぼりのどけきはるの日に 山名のはなのちるぞおしさよ」

本尊:不動明王

 火災にあい由緒は不明だが行基の開基と伝えられる。石段を登ると正面に観音堂、右手に庫裏(くり)、左手に阿弥陀堂がある。口伝(くでん)によると千手観音はその昔三郡山(みごおりやま)と称する山中にあった無量寿山光明寺の本尊だったが、江戸初期の元和(げんな)の頃に堀の内観音山に再興され、元禄7年(1694)の住職智説(ちせつ)の時に智光寺境内へ移転、現在のお堂は宝暦13年(1763)に再建されたという。阿弥陀堂は安永4年(1775)に建築されたといい、参道入口には江戸中期頃と思われる仁王門がある。境内の手水(ちょうず)石は明治18年(1885)のものだが、水受けがひょうたん型なのがおもしろい。観音堂の裏には寺子屋師匠だった宥界(ゆうかい)大法師の墓があり、安政5年(1858)に山名や館山などの弟子たちによって建てられた筆子塚(ふでこづか)である。寺宝として市指定文化財の木造不動明王立像・木造阿弥陀如来坐像・木造金剛力士立像などがある。

22番 勧修院(かんしゅういん)

道場山勧修院
南房総市上堀35(旧三芳村)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「朝日さす 夕日かがやくこの堂へ まいる人こそ仏(ほとけ)なるらん」

 観音堂は1km余り山奥のリョウガイ山と称する所にあったが、宝暦2年(1752)栄雅(えいが)の時に現在地へ移されたといわれ、跡地には今も観音堂の痕跡が残っている。旧観音堂付近には滝ノ上・鐘つき堂・稚児墓(ちごはか)などの地名があり、その昔の巡礼路(みち)が今も残っている。勧修院と呼ばれるようになったのは元禄の頃であるという。大正12年(1923)の関東大震災により諸堂は全壊したが、同14年12月に旧本堂と庫裏(くり)が再建された。平成2年(1990)に庫裏の新築工事が行われ、観音堂(現本堂)も平成20年に再建され、行基の作と伝えられる本尊の千手観音菩薩像や弘法(こうぼう)・興教(こうぎょう)両大師坐像、不動明王立像などが安置されている。なお旧本堂には大日如来坐像、向拝(ごはい)には木造の仁王像一対が安置されている。また観音堂を意味する「大悲殿(だいひでん)」の額は、地元光明(こうみょう)講中が明治期に奉納したもので金剛宥性(ゆうしょう)の筆である。境内には光明真言(こうみょうしんごん)五百万遍供養塔や、女性行者貞信尼(ていしんに)による天明8年(1788)の廻国供養塔などがあり、墓地には漢学者「中村時中(じちゅう)」や、力士で出来山(できやま)部屋第5代親方の「常盤戸(ときわど)文吉」、政治家で実業家の「中村庸一郎(よういちろう)」等の墓がある。

23番 宝珠院(ほうしゅいん)

金剛山神明坊神護寺宝珠院
南房総市府中687(旧三芳村)

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「あま寺へ 参るわがみもたのもしや はなのお寺を見るにつけても」

本尊:地蔵菩薩

 宝珠院は、現在京都智積院(ちしゃくいん)の末寺だが、明治27年(1894)までは京都醍醐寺報恩院の末寺だった。創建は応永11年(1404)。開山宥伝(ゆうでん)の父が深く仏教に帰依(きえ)して、私財を投じて寺院を創り、宥海(ゆうかい)僧都を開基として招いて実乗院と称したのが始まりと伝えている。その後宝珠院と改めた。里見氏からは寺領275石余を給され、徳川氏からも203石余の寺領が安堵されている。江戸時代には安房真言宗寺院の触頭(ふれがしら)として国内281か寺を支配していた。また談林所(だんりんじょ)として安房国真言宗唯一の学問所でもあった。大正12年(1923)の関東大震災により山内諸堂が倒壊し寺宝の多くを失ったが、現在でも県指定文化財の仏像・絵画・工芸品3点、市指定文化財12点を所蔵している。大正大震災まで境内には4つの子院(しいん)があった。十一面観音菩薩像は、開山宥伝の母妙光尼(みょうこうに)が応永11年(1404)に子院の西光院本尊として安置したものであるといわれ、西光院を尼寺(あまでら)と呼んでいた。近年この像は鎌倉時代の徳治(とくじ)2年(1307)に仏師定戒(じょうかい)が制作したことがわかった。現在の観音堂は関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したもの。ご詠歌額は享保15年(1730)長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生(さしょう)勘兵衛が奉納したもので、安房国札(くにふだ)観音の寺々には同人の額がよく残されている。

24番 延命寺(えんめいじ)

長谷山延命寺
南房総市本織2014-1(旧三芳村)

曹洞宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「平尾山 のぼりて見ればうどの原 出世はここに七夕の松」

本尊:虚空蔵菩薩

 延命寺は里見実堯(さねたか)を開基とし十代忠義までの後期里見氏の菩提寺である。寺伝によれば永正(えいしょう)17年(1520)に里見実堯が吉州梵貞(きっしゅうぼんてい)を師の礼をもって迎え開山にしたとされている。慶長年間には里見氏から217石余の寺領を与えられ、その後徳川家からも同様に保護されてきた安房曹洞宗の中心的なお寺。十一面観音像はもと平尾山大通寺の本尊で、当寺の裏山にあったという。裏山には天文の内乱で殺害され後期里見氏の家祖とされた里見実堯、里見氏の全盛期を築いた義堯(よしたか)・義弘(よしひろ)父子三人の墓所がある。県の文化財に指定されている板碑(いたび)も同墓域内にある。この板碑は里見氏とは関係なく鎌倉時代の有力者のものだが、板碑は安房地方には少なく貴重。参道入口にある里見氏旧跡の碑は、明治41年(1908)、安房の名士が中心となって荒廃していた安房郡内の里見氏墓域整備を行い、その翌年事業を記念して建てられた碑である。本堂内では毎年8月に地獄極楽絵図が公開されて多くの参詣者が訪れる。

安房国札観音

国札観音のはなし

世間の人々の悩める音(声)を観じて(聞いて)願いを成就させてくれるという観世音菩薩。慈悲にあふれる観世音菩薩は三十三の姿に身を変えて人々を救うといわれている。日本では平安時代の西国三十三観音霊場をその創始として、全国各地に三十三観音霊場がつくられ、現在も人々の篤い信仰を受けている。安房の札所は鎌倉時代の貞永(じょうえい)元年(1232)、ひとりの行脚僧(あんぎゃそう)が安房の地を訪れて山紫水明の観音霊地を選び、その宝前(ほうぜん)にご詠歌を納めて開扉(かいひ)し、諸人に結縁(けちえん)させたのがはじまりと伝えている。その頃関東一円では悪病が流行し飢饉に襲われて、人心不安から社会が混乱していたといい、こうした災害からの救済を観音に求めて西国三十三か所うつしの霊場が創設され、後に番外花山院(かざんいん)になぞらえて一か所がつけ加えられ三十四か所になったのだとか。安房の観音霊場を訪ねた中世の人々の霊夢を見たという小町村(鴨川市)の山口勘左衛門が、寛文7年(1667)に現在の御詠歌を作ったという縁起が残されている。安房国札(くにふだ)観音霊場のご開帳は、12年に1度の丑歳(うしどし)本開帳と午歳(うまどし)の中開帳(なかがいちょう)がある。開帳期間中は観音様のお厨子の扉が開けられ、ご本尊を拝することができる。

石堂寺<丸山>

石堂寺(いしどうじ)の概要

 南房総市石堂にある天台宗の寺院で、長安山東光院石堂寺といいます。寺伝によれば、神亀3年(726)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地を訪れて大塚山に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊としたとされ、安房国札(くにふだ)三十四観音霊場の第二十番札所になっています。インドの阿育王(あしょかおう)の仏舎利(ぶっしゃり)宝塔を祀っており(滋賀県・群馬県にも同じ宝塔を蔵する寺院があり日本三石塔寺と呼ばれる)、本堂前左右には菩提樹(ぼだいじゅ)が植えられています。その後仁寿元年(851)、慈覚大師(じかくだいし)が荒廃した寺院を見て嘆き、前立(まえだち)十一面観世音、脇侍(わきじ)の持国・広目二天、千手観音、薬師如来の各像を彫刻し、堂宇を造営して「天下泰平・百姓豊楽」の護摩祈祷(ごまきとう)を行い、天台宗比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)末になったそうです。文明19年(1487)に夜盗による火災に遭い、当地の豪族丸氏や里見氏によって永正10年(1513)に堂宇を現在地に移して再興されました。また戦国期末には小弓(おゆみ)公方(くぼう)足利義明の子や孫(頼氏:後に喜連川(きつれがわ)藩主)を養育しています。国指定の重要文化財建造物4棟・仏像1躯(く)をはじめ、県・市指定文化財も多数あります。

(1) 天竺(てんじく)阿育王(あしょかおう)塔安置之所標石

 仏教を世界に広めようとした天竺(インド)の阿育王が造ったと伝わる「仏舎利(ぶっしゃり)」を納めた宝塔が、当寺に「瑠璃(るり)の宝塔(ほうとう)」(水晶塔)と称されて秘蔵されている。その標識としてこの碑が、江戸下谷の川崎屋平兵衛と地元石堂の惣左衛門によって、天保12年(1841)に寄進された。

(2) 本堂及御本尊重修(ちょうしゅう)之碑

 国宝だった本堂と本尊は大正12年の関東大震災での倒壊は免れたが、破損は甚だしく、翌年から2年かけて官民の協力で旧様式での修理保存を行った。郡内各地から290名が協力している。

(3) 足利地蔵と中世の石塔

 地元の人が「足利地蔵」と呼ぶ岩窟中の地蔵尊である。その奥には中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の相輪(そうりん)や五輪塔の宝珠・笠石、一石五輪塔などが納められている。元は国道脇のやぐらに安置されていたが、拡張工事で移転した。中世の石塔は仁王門先の阿伽井(あかい)の傍らや白寿地蔵堂脇にもある。「足利地藏」の名は、当寺が足利頼淳(よりずみ)・頼氏(幼名石堂丸)父子ら小弓公方(おゆみくぼう)足利氏ゆかりの寺であることの名残りなのだろう。

(4) 仁王門(におうもん)

 ここの仁王は「蛭(ひる)取り仁王」と言われ、石堂地区の農民を悩ますヒルを退治して、その後この地区ではヒルがいなくなったという民話が語り伝えられている。また、仁王門に結びつけてある草履(ぞうり)は、足腰の悪い人が借りてはくと不思議と全快したとの言い伝えがあり、治った人は御礼として余分に草履を奉納したという。また天井に龍の絵が描かれているのを見てほしい。「等山画」とある。

(5) 石灯籠(とうろう)

 真浦村(南房総市和田町)の酒屋(奈良屋)辻八右衛門が、元禄10年(1697)に奉納した。高さ1.45m。

(6) 木製の灯籠

 一対の灯籠だったが右側は礎石のみ残る。特徴は木製で八角面であること。全高は2.5m。丸村珠師谷(しゅしがや)八代平吉の寄進で、昭和13年(1938)7月建立。建立後約70年を経た木製灯籠は比較的珍しい。

(7) 六十六部廻国(かいこく)供養塔

 法華経六十六部の写経を66か国の社寺に納める廻国巡礼の成就を記念した塔。石堂寺住職の弟子賢栄が、宝永2年(1705)から4年をかけてなし遂げ、すべての檀家の安楽と衆生の平等利益を祈念した。

(8) 手水鉢(ちょうずばち)

 願主は石堂村の吉田勘解由で、正面に「観世音御宝前」とあり、観音様に奉納されたことがわかる。明和元年(1764)7月に寄進された。

(9) 鐘楼(しょうろう)堂  市指定文化財(昭和51年)・梵鐘とも

 天明3年(1783)の建築で、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)2間。珠師ヶ谷村の住人大河内嘉内の作と伝えられる。梵鐘は、元徳3年(1331)に初鋳されたものを寛文3年(1663)に再鋳した。冶工は石神村鈴木伝左衛門忠尚。

(10) 山王堂  県指定文化財(昭和41年)

 石堂寺の鎮守として延暦寺鎮守の日吉(ひよし)大社(滋賀県大津市)を勧請し、古くから山王社と呼ばれた。資料はないが、中世末期の装飾様式が随所に見られることから、建築年代は室町時代末期から桃山時代と推定されている。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)。鞘堂(さやどう)に納められている。

(11) 閻魔堂(えんまどう)

 室町時代の弘治2年(1556)、時の住職宗憲によって造像された閻魔大王と、西国33観音の霊像写しを安置する。西国巡礼ができない人々にそのご利益を分かち与えようとして建立された堂である。

(12) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)  市指定文化財(昭和51年)

 青銅製で、天保13年(1841)に石神村の冶工鈴木伝左衛門正尹により鋳造された宝塔。丸本郷の伊藤治兵衛が大施主となって造立した。

(13) 多宝塔(たほうとう)  国指定重要文化財(平成4年)

 天文14年(1545)、前住職宗海を大本願、丸珠師谷氏を大旦那とした丸一族が、里見義堯(よしたか)・正木時茂(ときしげ)等の協力をえて建立した。天文17年の銘もある。江戸時代以前の多宝塔は関東に少ない。様式は上層唐様の折衷様式。鎌倉時代の千手観音像が安置されている(県指定)。

(14) 薬師堂  国指定重要文化財(昭和43年)

 石堂寺の境外仏堂で石堂原にあったが、昭和46年に現在地に移築復元された。木造三間四方・内部に柱を立てず、中央に一間四方の鏡天井を張る。茅葺(かやぶき)の仏堂で安土桃山様式の建物である。

(15) 百八十八箇所納経塔

 西国・坂東各33観音と秩父34観音で計百観音。それに弘法大師ゆかりの四国88霊場を巡ると、合計百八十八か所となる。巡拝を終えた尾張国金沢村(愛知県知多市)の竹内文左衛門夫妻が房州を訪れ、地元の念仏講仲間100名と仏道に縁を結んだ記念に建立した。明治27年。

(16) 川名玄栄碑(増間の医者どん)

 玄栄は文化5年(1808)に増間村(南房総市)の医家に生まれた。江戸で医術を習得して帰郷すると、山間僻地の郷土を離れず、貧者にも医療をほどこした。その傍ら私財で塾を開き山村の子弟を教育し、明治25年(1892)84歳で没した。同29年に子弟によって碑が建立された。

(17) 孝子茂左衛門

 碑の裏には茂左衛門のことを知りたければ境内の御子神氏の墓誌を見るようにとある。その墓誌では母に孝を尽くし名主にまでなった茂左衛門の人柄を称えている。石堂村の人で、文化11年(1814)76歳没。碑は明治36年(1903)に子孫の御子神松之助が建立した。

(18) 本堂  国指定重要文化財(大正5年)

 文明19年(1487)の夜盗による火災の後、20余年かけて再建したとされるが、確かな年代は不詳。本堂内厨子に永正10年(1513)の墨書があるが、建築様式的にも室町時代とされる。唐様で桁行(けたゆき)3間・梁間(はりま)4間、県下最大の国指定木造建築である。本尊の十一面観世音菩薩立像・厨子(ずし)共に国指定、堂内諸像は平安末期の仏像である。

(19) 庫裏(くり)  国指定重要文化財(平成4年)

 本堂の厨子・棟札とともに本堂附(つけたり)の重要文化財で、本堂とほぼ同じ室町時代の建築とされる。尚、波の伊八の彫刻が庫裏につながる客殿にある。欅(けやき)材の丸彫りで、安房の孝子家主(やかぬし)をはじめ、唐人・海馬・唐獅子・水鳥・鶴・亀・龍・兎を題材に飾られている。

(20) 旧尾形家住宅  国指定重要文化財(昭和44年)

 江戸時代中期の享保13年(1728)の建築で、居間と土間を別棟にした南方系の特色をもつ分棟(ぶんとう)(別棟)型の代表的な民家。尾形家は珠師ヶ谷村(旧丸山町)の旧家で、昭和46年・47年度に解体移築された。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
石井道子・石井祐輔・加藤七午三(なごみ)・川崎一・鈴木正・鈴木惠弘(よしひろ)・中村祐・吉村威紀(たけのり)>
監修 館山市立博物館

真野寺<丸山>

真野寺(まのじ)の概要

 南房総市久保の真野にあり、一般には「真野の大黒」の通称で親しまれていますが、正式には「高倉山実相院真野寺」といいます。かつては南房総市府中の宝珠院の末寺だった真言宗の寺院です。関東で弘法大師ゆかりの寺を巡る関東八十八か所霊場の第57番札所であり、安房国札観音の第25番札所でもあります。境内裏山には四国八十八か所霊場にならった「真野寺新四国八十八ヶ所お砂踏霊場」が設けられています。寺伝によると、奈良時代の神亀2年(725)に、現在地より1㌔ほど東にある高倉山の山頂に行基が開いたとされ、鎌倉時代の建永元年(1206)、野火に遭って建物が全焼、翌年鎌倉北条氏の帰依によって現在地に再建されました。その後また元禄大地震によって倒壊しましたが、中興の祖「法印頼智」により再興されます。しかし関東大震災で再び倒壊し、現観音堂が昭和35年に再建されました。なお、里見氏からは40石、徳川将軍家からは43石の寺領が安堵され、時の権力者より庇護を受けてきています。本尊は寺伝では行基作としている木造の千手観音菩薩立像で、室町時代初期の作とされるお面をかぶり、御開帳のときも素顔を拝むことができないことから「覆面観音」と称されています。また観音堂内には鎌倉時代の「大黒天」があり、関東地方に残る古像としては最大級のものです。この大黒天は平安時代の貞観2年(860)、ここを訪れた慈覚大師が参籠中に朝日が昇るなか大黒天が現れ、それを再現したと伝えられていて「朝日開運大黒天」と呼ばれます。毎年2月6日に「大黒天福祭り」が行なわれ、近隣はもとより遠方からも多数の参拝者が訪れて賑わいを見せています。ほかに当地久保の住人たちの発願によって、建武2年(1335)に仏師上総法橋が造像した「二十八部衆立像」と「風神雷神像」があります。観音を信仰する人々を守る善神です。本尊はじめいずれも県の指定有形文化財になっています。鰐口は文化7年(1810)のものです。

(1) 六地蔵尊

 高さ108cmの六地蔵尊で、上下二段に3体ずつの地蔵尊が彫り出されている。基壇は近年の新しいもので、古い基壇は地蔵尊の後ろにある。最上段には梵字(ぼんじ)が書かれているが、風雨のためほとんど不明。像右側下段に享保5年(1720)、左側には11月18日とある。最下段には寄進者の名前が14人書かれている。判読不明があるものの、おつる等の名前が見え全員女性のようである。地蔵尊を寄進し、自らの苦しみを救ってもらおうとしたことが想像される。

(2) 石造阿弥陀如来坐像(ざぞう)

 この阿弥陀像は近くの元寺領の山にあったものを、平成6年頃に移転したものである。文字はなく、制作年などはまったく不明である。高さ39cmの丸彫りの阿弥陀如来で、結跏趺坐(けっかふざ)している。石質は蛇紋岩で、像容の特徴から中世末のものと判断されている。手水石は地元真野で生まれ千倉に住んだ鈴木しげが奉納した。

(3) 手水石(ちょうずいし)

 観音堂の正面左側に置かれている。高さ41cm、横幅98cm、奥行き41cmの比較的大きいもの。裏には文政6年(1823)七月吉辰日の年号と、大きな文字で「高倉山宥厳代」と記されている。宥厳は当山第9世の和尚(天保6年=1835年2月入寂)である。

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 塔婆の一形式で、この名は本来内部に「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めたことに由来する。中世以来江戸時代まで墓塔や供養塔として建てられるようになる。この塔は宗清禅定門、寛永7年(1630)10月11日とあり、里見氏の時代を生きた人物の墓塔である。中世五輪塔の火輪(笠石)が乗せられている。

(5) 金剛界(こんごうかい)大日如来塔

 寛政12年(1800)12月8日、地元真野の政右衛門・市郎兵衛・四郎兵衛・喜三郎の4名が寄進した金剛界大日如来の石塔である。寄進者の名が刻まれた台座上の蛇紋岩の丸石に「●(バーン)」という梵字を刻んでおり、太陽の光照、宇宙創造の根本仏とされる金剛界大日如来を信仰したものである。大日如来は弘法大師の教えの根本となっている仏である。

(6) 高倉山真野寺中興碑(ちゅうこうひ)

 この碑は元禄地震で荒廃した堂宇の再建を記念し建立された石碑である。工事は宝暦6年(1756)の夏に時の住職頼智により起工され、落成は第二世宥寿のときであった。そのため現在では、頼智を真野寺の中興第一世としている。碑は高さ137cm・幅33cmの蛇紋岩製の角柱である。碑文には本尊・脇侍の由来、天台宗から真言宗に改宗した言い伝え、宝珠院との関係などの寺の縁起とこの事業を讃える文が、腰越村(現館山市腰越)の仁左衛門によって書かれ、中興住職・名主・寺役人の名などが刻まれている。

(7) 光明真言塔(こうみょうしんごんとう)

 この塔は三段の台座の上に乗る自然石(硬質砂岩)の表面に、線刻の蓮華座の上に径34cmの円を描き、その中に光明真言の呪文が梵字で刻まれている。この碑面はもともと台座の上に立っていたものである。光明真言は密教の聖句で、これを唱えれば、諸々の罪障が消え極楽往生できるといわれている。台座には願主久保村の光明真言講・十九夜講・念仏講の各講中や、村内の個人また大井村の人の名などもある。建立は文化15年(1818)4月8日で、石工由蔵(村名不明)の作とある。

(8) やぐら・地蔵菩薩立像(りゅうぞう)

 観音堂脇の左斜面に中世の供養施設であるやぐらがあり、中に石造地蔵菩薩立像が中世の宝篋印塔の一部とともに安置されている。嶺岡産の蛇紋岩を使って舟形に加工し、中央に地蔵像が半肉に彫り出されている。像高は30cm。その姿は僧形で、胸前をU字形にし、左手に宝珠、右手に錫杖を斜めに持ち、蓮華座の上に立っている。像の周囲に文字はないが、その作風から室町時代のものと推定されている。付属の線香立ては明治35年旧3月15日奉納、曦(あさい)町(南房総市千倉町)鈴木勘左衛門の名がある。

(9) 観音堂

 真野寺の本尊である木造千手観音立像が安置される。行基菩薩の作と伝えられるが平安時代後期の作である。その左右には本尊の守護神として安置された木造二十八部衆がある。仏師上総法橋の手で造立された南北朝時代の像である。また外陣に安置される木造大黒天立像は鎌倉時代の作である。寺伝では慈覚大師が当寺に参籠中一刀三礼で彫ったとされている。この3件は県の指定文化財である。また四天王の一部と思われる木造天部立像も寺の守護神として安置されており、平安時代後期の作とされている。欄間には竜が刻まれており、波の伊八といわれた初代武志伊八郎信由作である。本尊は安房国札観音の巡礼でも知られており、34か所のうち第25番札所である。

(10) 歴代住職墓地

 時代による地域の社会生活や信仰のあり方の推移から墓石の変遷がうかがえて、まるで展示場のようである。元禄地震後に当寺を再興した頼智法印を中興第一世として、1・2・4・5・7・10~12・16~18世の墓が並ぶ。


<作成:ふるさと講座受講生 石井祐輔・川崎一・鈴木正・中村祐・吉村威紀・渡辺定夫>
監修 館山市立博物館