菅原道真(すがわらみちざね)は平安時代前期の廷臣で、学者として宇多・醍醐天皇に重用され、寛平6年(894)に建議して遣唐使を廃止し、国風文化興隆の契機をなした人物として、また藤原時平の讒言(ざんげん)で大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷され、同地で歿すると、死後北野天満宮に祀られ学問文芸の神となり、天神信仰のもととなりました。
この画像は道真(みちざね)(北野天神)が宋の禅僧無準師範(むじゅんしはん)に参じて受衣(じゅえ)したという説話に基づくもので、説話は南北朝末から室町初期に、禅宗教団で生みだされた一種の神仏習合と思われます。図様は道服を着て、手に一枝の梅を持ち、無準に授かった衣を納めた袋を肩にさげた姿です。束帯(そくたい)の天神像とともに歌神としても尊ばれます。
この人物図を描いた賢江祥啓は、15世紀の後半に関東を中心に活躍した画僧で、鎌倉建長寺の書記をつとめていたので啓書記とも呼ばれます。文明10年(1478)上洛し、芸阿弥(げいあみ)について画を学び、幕府の御物の唐絵(からえ)も研究しています。山水画・花鳥画・人物画と広く手がけていますが、山水画が高く評価されます。以後の鎌倉周辺の画家たちに強い影響を与えました。
紙本墨画 (60×28.2)
室町時代
三芳村・宝珠院