城山公園

城山公園の概要

城山公園は「城山」とよばれている独立丘陵で、天正19年(1591)に里見9代義康(よしやす)が岡本城(南房総市富浦町)から移転し、慶長19年(1614)、徳川幕府により10代忠義が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)されるまで里見氏の居城でした。その間、城域や城下町が整備拡大され、現在の館山市の基礎ができました。里見氏改易後、幕府は安房国の検地を行い、旗本や小大名に分割しました。天明元年(1781)に旗本稲葉正明(まさあきら)が1万石の大名になり館山藩をたて、寛政3年(1791)に2代正武(まさたけ)が城山南東に陣屋を築きました。城跡は、江戸時代には畑や林、明治時代には枇杷(びわ)山、昭和10年(1935)頃からは砲台などの軍事施設に利用され、山頂は7m程削られ66mになりました。昭和24年(1949)には公園化計画が決定されました。昭和57年(1982)に模擬天守が建設され、『南総里見八犬伝』を紹介する博物館になっています。現在は、市民や観光客の憩(いこ)いの場となっています。

(1)館山城跡碑

天守閣の建設を望む市民が募金活動を行い、昭和57年(1982)に設置。題は千葉県知事沼田武、漢詩の書は歌舞伎役者尾上菊五郎。裏面に寄付者の名が多数刻まれている。

(2)鹿島堀跡

里見義康の時代に水堀を構築したが、後に徳川幕府により埋め戻された。主に鹿島の領民が働いたことからこの名がついたといわれる。

(3)利田(かがた)正男歌碑

昭和52年(1977)の歌会始「お題“海”」で佳作となった地元歌人利田正男の歌碑。昭和63年(1988)9月に安房(あわ)青垣会(せいえんかい)が碑を建立した。

(4)切岸(きりぎし)

義康の時代に城の防御力強化のため、城の周囲を垂直な崖(切岸)にした。今は草木に覆われているが、一部ではよく見ることができる。

(5)海軍用地標柱

城山に海軍の施設を造るため、民有地との境界に建てたコンクリート製の標柱で、番号が記されている。現在、確認できるのは6基である。

(6)彫刻の径(みち)

昭和58年(1983)、博物館に通じる道に新進気鋭の若手作家を中心に彫刻が設置され「彫刻の径」と命名された。後に城山のシンボル「光と風と夢」が設置されて文化の香りを醸し出している。

(7)公園道路

四季の丘へ向かう道は、昭和10年(1935)ごろ城山に軍事施設が建設された際、海軍軍用道路として新設された。日本庭園へ向かう道は、昭和36年(1961)に公園道路として新たに整備された。

(8)新御殿跡

城内では千畳敷(せんじょうじき)と並ぶ大きな曲輪(くるわ)で約千坪あるといわれ、里見忠義の御殿があったと推定されている。戦争中は海軍の施設があり、軍用の洞窟が残されている。戦後は館山幼稚園があったが移転し、昭和43年(1968)から令和2年(2020)までは孔雀園があった。現在は四季の丘。

(9)八坂神社跡と旧登城路

上須賀(うえすか)の八坂神社は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、近隣地区の神社と合祀(ごうし)して館山神社(大正14年(1925)創建)になった。八坂神社参道、階段、頂上へ続く細い道が、城山北西部からの旧登城路である。

(10)はらからの碑

昭和39年(1964)に25歳で早世した館山生まれの歌人神作(かんさく)磯二を偲んで弟の浜治が建立した。磯二の歌を見た歌人佐佐木信綱が、北条で療養していた弟印東昌綱を思い出して詠んだ歌と、磯二の歌が並べて彫られている。信綱の歌にちなんで「はらからの碑」と名づけられた。

(11)里見節詩碑

10代約170年続いた里見氏の武勇と南総里見八犬伝のロマンを歌い上げた里見節の碑で、昭和57年(1982)に建立された。明治35年(1902)館山生まれで、名誉市民でもある小高熹郎(おだかとしろう)の作詞である。

(12)里見ノ城跡碑と千力猿の像

碑は昭和46年(1971)、房総里見会により里見家の供養のため建立された。千力猿の像は、里見家に怪力を誇る猿が飼われていたが、猿使いの留守に城攻めにあい、城もろとも火に包まれたという地元民話にちなむ。

(13)浅間神社と小御嶽の碑

城山を富士山に見立て、上須賀の浅間神社を祀った。社には後藤義信の彫刻や渡辺雲洋が描いた龍の天井絵がある。小御嶽の碑は富士講中により奉納された。毎年6月30日に祭典が行われる。

(14)石積

戦前からある石積は山頂と千畳敷の境に積まれ、海軍の作った階段で左右に区切られている。ほとんどが房州石で、石積の高さは1m~2m、長さは約100mあったという。現在は大部分が埋もれている。

(15)弾薬庫跡

砲弾に火薬と弾頭を装着した状態で保管していた場所。岩をくり貫(ぬ)きコンクリートで補強し、内部には排気口が数カ所ある。入口の当時のランプは飛散防止仕様になっている。

(16)千畳敷(せんじょうじき)

頂上の南面下に位置する館山城で随一の広場で、里見氏の役所として使われる様々な施設があったと推定される。現在は茶室を含む日本庭園があり、その東側から「はらからの碑」のあたりまでを千畳敷という。

(17)伝遠見櫓跡

遠見櫓とは監視や警戒のために設けられた物見の櫓のこと。はっきりとした場所はわからないが、里見時代の遠見櫓と呼ばれていた台地が千畳敷にあったと伝承されている。

(18)機関銃座跡

第二次世界大戦中に自動装填(じどうそうてん)の機関銃を備えた跡である。自動的に装填するメカニズムは、現在、ホッチキスに応用されている。

(19)煙硝倉跡(えんしょうぐらあと)

館山藩の陣屋が置かれていた時代に造られたもので、崖の岩をL字型にくり貫いて造られている。「おえんしょぐら」と呼ばれていた。

(20)義康御殿跡

梅園下の南向きの低平地は里見義康の御殿があったと考えられている。発掘調査の結果、遺構として5間×5間の掘立柱の建物跡2棟が確認され、天目茶碗片・すり鉢片などの遺物が出土している。

(21)堀切(ほりきり)

館山城で唯一残されている尾根をV字型に断ち切る堀切。箱堀状で幅5m、深さ4m以上あると思われ、その先は細く伸びた尾根が続いていて切岸になっている。敵兵の侵入を防ぐ為の中世城郭の遺構。

(22)オンマヤシタのウバガミサマ(御厩下の姥神様)

御厩下の姥神様には五輪塔が並んでいる。14世紀の骨壺も出土し、中世武士階級の墓の場所と考えられる。現在は、鳥取県で元和8年(1622)に没した里見氏最後の当主・忠義の殉死者の遺骨を持ち帰ったという伝承を基に「八遺臣の墓」として供養している。

(23)貴美(きみ)稲荷神社

天明元年(1781)、館山藩初代藩主稲葉正明が陣屋の屋敷神として創建した。関東大震災で倒壊したため、館山神社に合祀され、一緒に祀られていた4代藩主正巳(まさみ)の位牌は館山藩士の子孫の家で預かっている。

(24)館山藩陣屋跡

天明元(1781)年、稲葉正明が安房国で加増を受け、大名となり館山藩をたてた。寛政3(1791)年、2代正武が現在「御屋敷」とよばれる城山南東に、役所や藩士の住居を集め陣屋を置いた。明治4(1871)年に廃藩を迎え、陣屋跡地は旧藩士に分与された。

(25)采女(うねめ)の井戸

陣屋跡にある「采女の井戸」は、印東采女佑(いんとううねめのすけ)の屋敷があったと伝わる場所。采女佑は里見忠義の家臣で権勢を持っていたと言われている。

(26)根古屋(ねごや)の古墓

明治33年(1900)頃、土器片や鉄鍋などと共に室町時代の五輪塔が出土し、「デボトケ」と称され大切に祀られた。明治34年(1901)に南東麓の姥神様でも五輪塔が発見されると、デボトケは忘れ去られた。現在、この一帯は整備され五輪塔と共に里見氏の武人像をお祀りしている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子、岡田晃司、刑部昭一、金久ひろみ
佐藤博秋、佐藤靖子、鈴木正、殿岡崇浩、山杉博子
監修 館山市立博物館
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