その2 北郡コース 

4番 真勝寺(しんしょうじ)

岩峰山(いわぶさん)真勝寺
南房総市富浦町青木173

真言宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりて見れば真しょう寺 巡礼堂もたのもしきかな」

 奈良時代、光明皇后は行基(ぎょうき)に2体の如意輪観音像の彫刻を依頼し、1体は安産祈願のため奈良の帯解寺(おびとけでら)に、1体は難産救済のため立田川に流された。その1体が岡本(富浦)沖で発見され青木真勝(まさかつ)が引上げて、真勝寺を建立し観音像を安置したと伝えられている。如意輪観音は6つの手を持ち安産・火除(ひよけ)・厄除(やくよけ)の観音様として信仰され、当寺には安産の絵馬がたくさん奉納されている。石段の左手には樹齢600年、幹の周囲が2.8m程の犬槙(いぬまき)、右手には少し小振りの犬槙があり、「ア・ウンの細葉(ほそば)」と呼ばれている。石段の中ほどには室町初期と思われる五輪塔がある。慶安5年(1652)の六面塔は各面にそれぞれの仏具を持った地蔵菩薩(六地蔵)が彫られている。石段の手前にお地蔵様とお不動様が安置されている堂もある。観音堂の裏手には万治4年(1661)・延宝元年(1673)の住僧の墓があり、周りの崖には古いやぐらがみられる。

5番 興禅寺(こうぜんじ)

海恵山興禅寺
南房総市富浦町原岡275

臨済宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「寺を見て 今はさかりのこうぜん寺 庭のくさきもさかりなるもの」

本尊:釈迦如来

 興禅寺は鎌倉の円覚寺末で、里見氏や徳川氏から寺領を与えられていた。寺伝によれば貞和元年(1345)に夢窓(むそう)国師を開山として創建され、戦国時代に里見義弘の夫人(小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の息女)であった青岳尼(しょうがくに)を開基としたが、やがて荒廃した。延宝3年(1675)円覚寺の拙翁碩松(せつおうせきしょう)が再興にかかり、孫弟子無外碩珍(むがいせきちん)の代になって本堂が完成した。観音堂は弘化2年(1845)深名村の喜兵衛が本願人、青木村・南無谷村の大工棟梁らにより再建されたもの。堂内の厨子(ずし)は宝暦3年(1753)建立。市指定文化財としては、拙翁禅師(ぜんじ)が延宝3年に建立した青岳尼百年忌供養塔がある。他に享保12年(1727)に建てられた地蔵菩薩像、本堂改築などを行った9世住職孝岳(こうがく)を称えて大正12年(1923)建立された孝岳塔などがある。

6番 長谷寺(はせでら)

海光山長谷寺
鋸南町勝山409

臨済宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「長谷寺へ のぼりて沖をながむれば にはま(仁浜)の浦にたつは白波」

 大黒山の麓に位置する法福寺横の急階段を登ると、通称「堂山の観音様」と呼ばれる長谷寺がある。寺の由緒によると、天平の時代、聖武(しょうむ)天皇が病気平癒を祈願して奈良長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基が2体の観音像を彫り安置した。その内1体は足利尊氏が武運長久祈願のために帰依(きえ)し、当地が岩山であることから永遠不変と考えて、御朱印300石と敷地一町四方を寄進し堂宇を建て安置したという。その後、尊氏の意思を継いだ4代将軍足利義持が僧木鐸(もくたく)とともに応永13年(1406)に当寺を開創したとされている。その後不運にも3度も堂宇が倒壊したが、信仰と再興に励んで今に至っている。お堂の左には三猿を刻んだ山王社と、捕鯨の醍醐出刃組(だいごでばぐみ)が大正3年(1914)に海上安全と大漁を祈願して鎌倉から移した半僧坊(はんぞうぼう)が祀られ、境内左手の外れには元禄大津波の死没者供養のための海難記念碑がある。

7番 天寧寺(てんねいじ)

瑞雲山天寧寺
鋸南町下佐久間3180

臨済宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「天ねい寺 きいてたずねてきて見れば いつもたえせぬまつ風の音」

本尊:釈迦如来

 建長年間(1220年代)に鎌倉幕府の評定衆二階堂隠岐入道行盛(おきにゅうどうゆきもり)が開創した律宗(りっしゅう)の寺だったが、文和(ぶんな)元年(1352)足利尊氏が禅宗に改め、里見氏からは寺領を賜ったと伝えられている。明暦元年(1655)の火災で堂塔を焼失したあと、宝永4年(1707年)、建長寺第一座白翁乾虎(はくおうけんこ)和尚の代に、背後の山上に観音堂を構え「正眼閣」と名づけて千手観音菩薩坐像を安置、浄財を集めて新しく石段108段を完成した。観音像は尊氏の時に中国の天寧寺からもたらされたもので毘首羯摩(びしゅかつま)の作といわれている。現在は本堂に安置されている。本堂は明治26年(1893)の建築である。仁王門は江戸末期に再建されたものだが、仁王像は運慶の作と伝えられている。掲額「房州古禅林」は山岡鉄舟の筆。境内には県指定天然記念物の柏槇(びゃくしん)の巨木があり、明暦の大火のあとを留めている。本堂南東方向には中世のやぐらがある。

10番 往生寺(おうじょうじ)

金清山往生寺(密厳院(みつごんいん))
鋸南町上佐久間1241

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「おうじょう寺 登りて見ればちしゅの花 いつもたえせぬのりのこえかな」

 寺伝によれば寛仁(かんにん)元年(1017)恵心(えしん)僧都が創建し、裏山の通称観音山の頂にあった。聖観音像も恵心僧都の作といわれている。ご詠歌の「いつも絶えせぬ法(のり)(読経)の声かな」からは栄えたことが伺えるが、やがて山頂の往生寺は廃されて観音像は、阿弥陀如来を本尊とする麓の密厳院に移された。密厳院は里見氏や徳川氏から寺領30石余を与えられ、かつては山門に向かって一直線に伸びる長い参道があった。現観音堂は明治2年(1869)、密厳院本堂脇奥に阿弥陀堂として建てられたもので、明治42年(1909)に現在地へ移築して観音像を安置した。堂内には不動明王坐像、享保(きょうほう)15年(1730)奉納のご詠歌額及び明治4年(1871)奉納の句額がある。山頂には住職墓地や光明真言(こうみょうしんごん)三千万遍供養塔が残されている。

11番 金銅寺(こんどうじ)

奇雲山金銅寺
鋸南町上佐久間1977

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりて見れば こんどう寺 はぎのはしらは五六千本」

本尊:聖観世音菩薩

 由緒によれば、和銅2年(709)に現在地より北方の小萩坂に行基が観音菩薩像を刻んで創建したという。その後荒廃し草原となってしまったが、弘安3年(1280)に僧玄助(げんじょ)が立ち昇った白雲を見て草むらを掻(か)き分けたところ金銅の聖観音像が現れ、ご詠歌にあるように萩(はぎ)を束ねて柱とし茅(かや)で屋根を葺き観音像を安置したとされている。文安5年(1448)に村人たちが力を合わせて堂宇を建立し崇拝して以来、地元民の力に支えられ現在に至っている。境内には町指定文化財で、寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師(いもじ)藤原忠直作の梵鐘(ぼんしょう)(願主は湯殿山講中)がある。戦時中供出されたが山梨県の長生寺にあることが判り、昭和58年に戻された。他に文政12年(1829)建立の出羽三山碑や光明真言供養塔などがある。

12番 福満寺{ふくまんじ}

富山諏訪坊福満寺
南房総市合戸569(旧富山町)

真言宗

福満寺観世音菩薩ご詠歌
「おもくとも かるくのぼれや富山へ 四方じょうどを見るもごくらく」

本尊:十一面観世音菩薩

 天平3年(731)行基により開創された。はじめは1合目の大房(おおぼう)というところにあり、地蔵堂・子安社・蔵王権現等が祀られていた。その後焼失・再建を繰り返し、元治(がんじ)元年(1864)現在地に本堂が再建された。かつて観音堂は富山(とみさん)山頂にあって享保14年(1729)に再建され、寛政元年(1789)には仁王門と仁王像(宮谷(みやのやつ)村大仏師渡辺馬之助の作)も建立されたが、昭和30年(1955)の失火により全焼し聖観音像は焼失してしまった。現在は福満寺本尊十一面観音菩薩が観音巡礼にご開帳され、山頂には仮堂が建てられて石造の十一面観音像がお祀りされている。また、山頂にあった仁王像は平成10年に福満寺の山門に移された。富山は標高349.5m。曲亭馬琴著の南総里見八犬伝の舞台で有名だ。参道入口には大正元年の登山道標があり、「ふもとに伏姫籠穴(ろうけつ)あり」と八犬伝が宣伝されている。

14番 神照寺(しんしょうじ)

朝日山神照寺
南房総市平久里中205(旧富山町)

曹洞宗(元真言宗)

十一面観世音菩薩ご詠歌
「朝日さす 夕日かがやく神照寺 たのみをかくる伊予のゆうだち」

 ご詠歌にある伊予ヶ岳は夕日がいつまでも照り映える雨乞いの山としても知られている。神照寺は伊予ヶ岳の麓にある。創建された時期は不明だが、文和(ぶんな)2年(1353)に平久里郷鎮守の天神社が細川相模守によって京都天満宮から勧請(かんじょう)されたとき、その本地仏(ほんじぶつ)である十一面観音菩薩像が安置され、隣接の神照寺が別当寺になったという。修験の寺であったため明治5年(1872)に廃寺となり、同14年に観音堂と十一面観音像は泉龍寺(平久里中)の管理となった。観音堂内の御詠歌額は享保15年(1730)奉納、境内右手には天保14年(1843)建立の「南無遍照金剛」の弘法大師供養塔がある。神社参道には市の天然記念物である夫婦クスノキと呼ばれる巨樹がある。手前は「女木」で樹高15m、神社寄りが「男木」で樹高25m、千年前に地元住民が植えたと伝えられている。

15番 高照寺(こうしょうじ)

大嶺山高照寺
南房総市山田1162(旧富山町)

曹洞宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「大杉へ きいてたずねてきて見れば ほとけのちかいあらたなるもの」

 十一面観音菩薩像は元来大椙山椙福寺(しょうふくじ)の本尊で、椙福寺の衰退に伴い一時平久里中(へぐりなか)・上の台にあった常光院へ移され、さらに大正3年(1914)、高照寺へ移されて現在まで安置されている。椙福寺の仏具として永享(えいきょう)3年(1431)の銘がある鰐口(わにぐち)も当寺に残されている。高照寺の入口には、嘉永6年(1853)に建立された高さ2m程の「国札所十五番大杉山」の石の標柱がある。別当(べっとう)浄光院(常光院)が建立したと書いてあり、この時期に札所が常光院に移っていたことがわかる。高照寺は長享(ちょうきょう)3年(1489)頃創立され、本尊は地蔵菩薩。牛の安産寺といわれる。境内には蓬莱(ほうらい)稲荷が祀られている。

番外 水月堂(すいげつどう)

水月山水月堂
鋸南町勝山409

千手観世音菩薩ご詠歌
「ありがたや 千手の糸をつずみ来て じひ(慈悲)のみもとで今ぞきるらん」

 大智庵本堂裏の山裾にやすらぎ地蔵の祠があり、横の階段を上がると水月堂が建っている。お堂は文和(ぶんな)4年(1355)の創建とされている。元禄16年(1703)の大津波で多数の死没者がでたとき、通称千人塚に供養されたが、捕鯨集団-醍醐組(だいごぐみ)でも、3代目醍醐新兵衛の兄弁之助や親戚などに犠牲者を出した。3代新兵衛明定(あきさだ)は、元文5年(1740)に死没者の冥福を祈るためと、危うく助かった父・祖父・自分達に対する仏の加護に感謝して、江戸の仏師に観音像造像を依頼し、初代新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て観音様を安置したのが現在の水月堂である。お堂の横には身代わり観音の石碑が建てられている。ちなみに勝山捕鯨の歴史は、里見水軍の血を引く世襲制の捕鯨集団である醍醐家の歴史であり、代々新兵衛を名乗った。