その3 長狭街道丸郡コース

8番 日本寺(にほんじ)

乾坤山日本寺
鋸南町元名184

曹洞宗

十一面千手観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼればにほんの山おろし まつのひびきもみのり(御法)なるらん」

 本尊:薬師瑠璃光(るりこう)如来 薬師堂は平成19年に再建。日本寺は神亀(じんき)2年(725)聖武天皇勅願により行基(ぎょうき)が開き、七堂十二院百坊を持つ大寺であったという。昭和14年(1939)の火災で諸堂を焼失したが、観音堂と仁王門は火災を免れた。鋸山の景観は県の名勝に指定され、広大な境域には釈迦・薬師・大日の諸仏をはじめ大小の石像が数多く祀られている。特に千五百羅漢(らかん)群像は安永9年(1780)に高雅愚伝(こうがぐでん)和尚が発願したもので、上総桜井(木更津市)の石工大野甚五郎が刻んだ。十一面千手観音菩薩像は慈覚大師の作とされ、観音堂は元禄13年(1700)の造営。正面の扁額(へんがく)「円通閣」は天保頃の旗本曽根懶斎(らいさい)の書である。元は南麓の岩殿(いわぶ)山にあって、岩戸観音と呼ばれていた。日本寺は古くから文人墨客が訪れて詩碑・句碑が多く、大蘇鉄も見所。また鎌倉時代の元亨(げんこう)元年(1321)銘の梵鐘は国の重要文化財である。

9番 信福寺(しんぷくじ)

鹿峰山信福寺
鋸南町大帷子(おおかたびら)637

曹洞宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「しんぷく寺 のぼりて岸をながむれば ほたのかわせにたつは白波」

 縁起によると平安時代の天安年間(857~859)に慈覚大師が草創したとされ、本尊の如意輪観音菩薩坐像は行基の作と伝えられる。戦国時代の弘治(こうじ)元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1669)に村の名主高浜利盛(としもり)や斉藤昌詮(まさあき)など村民の浄財で三間四面の観音堂を再興し、さらに上総国鮎川(君津市相川)の見性寺(けんしょうじ)から本清和尚を招いて中興開山とした。和尚は延宝元年(1673)に京仏師の大蔵卿康為(やすゆき)を招いて如意輪観音菩薩坐像を再興している。この観音像は世間では「子授け観音」と呼ばれ信仰されている。堂内の格(ごう)天井には、県内でも珍しい易(えき)で使う算木(さんぎ)の絵が描かれている。これは必見。境内には正和(しょうわ)5年(1316)建立の弥陀(みだ)三尊種子(しゅじ)の武蔵式板碑(いたび)(町文化財)がある。安房地方では珍しいもの。なお、普段の納経所は元名(もとな)の存林寺である。

16番 石間寺(せきがんじ)

石間寺(東陽山小原寺)
鴨川市下小原374

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「石のつま 峰よりおつるたきの水 むすぶこころはすずしかるらん」

 かつては嶺岡山系に連なる山の頂上にあったが火災で伽藍(がらん)を焼失し、その後観音台と称する場所に再興したという。江戸時代の元文年間にも火災があり宝暦年間に再建されたが、さらに明治33年の火災で焼失すると、同39年(1906)に同地の西福院(さいふくいん)と合併して小原寺(しょうげんじ)と改称し、翌年に再建したのが現在の観音堂である。お堂の向拝(ごはい)には龍の彫刻があり、作者は後藤義光の弟子で国分の後藤義信。小原寺(しょうげんじ)は真言宗に属し、本尊は不動明王(西福院)と十一面観世音菩薩(石間寺)。西福院の創建の年は不詳であるが、不動明王像は奈良時代の高僧良弁(ろうべん)僧正の作、十一面観音菩薩像は弘法大師の作とする伝承がある。良弁(ろうべん)僧正は、奈良時代の高僧の一人で、東大寺創建の中心人物。平塚の大山寺の創建者とも伝えられている。

17番 清澄寺(せいちょうじ)

千光山清澄寺
鴨川市清澄322-1

日蓮宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ふきはらう 月きよすみの松風に はまよりおきにたつはしらなみ」

 本尊:虚空蔵菩薩 宝亀(ほうき)2年(771)不思議法師が自刻の虚空蔵(こくうぞう)菩薩をこの地に安置し、のち慈覚大師がこの像の前で21日間の修行を行って以降天台宗となった。戦国時代から度重なる火災や戦で寺は衰退するが、江戸時代の初め真言宗の僧頼勢(らいせい)が徳川家からこの寺を賜り再興した。十万石の格式があったが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で再び衰退した。日蓮が12才で入山修行したことで知られ、建長5年(1253)に旭が森で初めてお題目を唱えて、日蓮宗の布教活動を始めている。そのため昭和24年(1949)に真言宗から日蓮宗に改宗した。観音堂の十一面観音菩薩像は行基の作であるという。境内には国指定天然記念物の大杉や県指定文化財の中門・宝篋(ほうきょう)印塔・石幢(せきどう)・梵鐘・経塚遺物や県指定天然記念物のモリアオガエル等多くの文化財がある。

18番 石見堂(いしみどう)

石見堂
鴨川市貝渚2261

真言宗

如意輪観世音菩薩ご詠歌
「石見堂 まいりて沖をながむれば ふねにたからをつむぞうれしき」

 正暦(しょうりゃく)4年(993)行基廻国の際、自作の観音像を安置し堂宇を創立したと伝えられている。はじめ西浜の海面に浮かぶ岩山にあったが、天保年間(1830~1844)に現在地へ移された。現在のお堂は明治15年(1882)に再建されたもの。観音像は戦時中に艦砲射撃を避けて、近所の女衆のリヤカーに乗せられて10㎞先の山中にある白滝不動まで疎開したそうである。北小町の佐生(さしょう)勘兵衛が奉納した享保15年(1730)のご詠歌額が掲げられている。向拝(ごはい)の龍彫刻は二代目武志(たけし)伊八郎信常のもの。境内には磯村の医師であり常盤連(ときわれん)を主宰した俳人尾崎鳥周(ちょうしゅう)の句碑や寛文12年(1672)建立の庚申塔(こうしんとう)、慶応元年(1865)奉納の手水(ちょうず)石などがある。眼下に鴨川漁港・鴨川松島などを臨み眺めがよい。石見堂は現在500mほど離れた金剛院の境外仏堂になっている。

19番 普門寺(ふもんじ)

補陀洛山普門寺(正文寺(しょうぶんじ))
南房総市和田町中三原270

日蓮宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「ふもん寺へ ひばらまつばら分けゆけば めぐみも深き岩やなりけり」

 観音像は天平(てんぴょう)19年(747)行基の作と伝え、古くは字寺谷(てらやつ)の山中にあって岩戸観音と呼ばれた。岡本兵庫が寄進した懸造(かけづくり)の観音堂があったといい、天保15年(1844)に改築され、飛騨の石工仁兵衛が9年をかけて堂を巡る参道を整備し信仰を集めたが、江戸時代末に無住となって盗賊赤忠(あかちゅう)の一味が根城にしたことがあり、観音像は大正6年(1917)に正文寺(しょうぶんじ)祖師堂へ移された。普門寺への旧入口に宝暦4年(1754)の「壱拾九番普門 三原」の石柱がある。正文寺の本尊は日蓮聖人奠定(てんてい)大曼荼羅(だいまんだら)。当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺だったが、天正(てんしょう)2年(1574)に勝浦城主正木頼忠が父時忠の菩提寺として日蓮宗に改めた。境内には市指定史跡の中世のやぐら内の磨崖(まがい)五輪塔、正木氏由縁(ゆかり)の供養塔などがある。

20番 石堂寺(いしどうじ)

長安山東光院石堂寺
南房総市石堂302(旧丸山町)

天台宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ただたのめ 千手のちかい両だすけ 二世(にせ)あんらく(安楽)をかけてたのめよ」

 1300年程前、奈良の僧恵命(えいみょう)・恵照(えいしょう)がインドの阿育王(あしょかおう)の仏舎利(ぶっしゃり)を携えて当地を訪れ草庵を結んだことに始まり、神亀(じんき)3年(726)に行基が自刻の十一面観音菩薩像を本尊とする堂宇を建立したという。仁寿(にんじゅ)元年(851)には慈覚大師が本尊前立を彫刻して百日間の護摩祈祷を行ったといい、以降信者が増え隆盛を極めた。文明19年(1487)に野盗の失火で全山焼失したが、当地の豪族丸氏や里見氏の援助で再建された。その時の本堂や多宝塔はじめ、本尊の十一面観音菩薩像と厨子(ずし)、薬師堂・庫裏(くり)及び旧尾形家住宅は国の重要文化財であり、他に県指定の山王宮、市指定の鐘楼(しょうろう)等が建ち並んでいる。多宝塔修復の際取り外した脇間彫刻は江戸後期の彫物師初代武志(たけし)伊八郎の作品で、現在は庫裏に保存展示してある。

34番 滝本堂(たきもとどう)

滝本堂(大山不動堂)
鴨川市平塚1718

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「ごくらくの みのりはここに大山の 千手のちかいなをもたのもし」

 かつて古畑(こばた)に所在した長徳寺が滝本観音堂の前身である。修験寺で、行基作の観音像を胎内(たいない)に納めた運慶作とされる観音像を安置する由緒ある寺院だった。鎌倉時代の貞永(じょうえい)元年(1232)に慈悲上人が安房の観音霊場を定め、滝本堂を34番納めの札所に選んだという縁起がある。大永2年(1522)、土豪の糟谷石見守(かすやいわみのかみ)家種が同寺を再興し、寺号を大永山普門寺長徳院と改め、千手観音菩薩立像を本尊とした。しかし明治を迎えて廃寺となったことから、昭和34年に観音像を大山寺へ移して不動堂の中に滝本堂として維持されている。中央はお不動様で左側が観音様である。大山は海抜219mで、長狭(ながさ)平野や太平洋が一望できる。大山寺は諸武将の崇敬を集めた山頂の高倉神社の別当で、ともに神亀元年(724)良弁(ろうべん)僧正の創建といわれる。本尊は鎌倉後期作の木造不動明王坐像で、向拝(ごはい)に波の伊八の龍の彫刻が施された不動堂とともに県指定文化財。不動堂裏の坂道には文和(ぶんな)2年(1353)造立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。

番外 観音寺(かんのんじ)

福聚山観音寺 鋸南町保田335

元は真言宗

聖(しょう)観世音菩薩ご詠歌「ありがたや まことの道に手引して ふかきえにし(深き縁)をむすぶみほとけ」

 縁起によれば、安房の太守(たいしゅ)里見義実(よしざね)が文明3年(1471)に祈願所として建立し、本尊として聖観音立像を安置したという。観音像は弘法大師の作と伝えられている。本寺であった真言宗円蔵院(南房総市千倉町)所蔵の文書に、「穂田(ほた)之観音寺分弐貫代」と記された天正18年(1590)の里見義康(よしやす)寺領安堵状(あんどじょう)がある。徳川氏からは元和(げんな)4年(1618)以来5石の寺領が与えられていた。後に保田の曹洞宗昌竜寺の境外(けいがい)仏堂になった。現在の堂宇は昭和30年(1897)に新築されたもの。番外札所となったことには観音霊場決定の集まりに遅れた「朝寝の観音」の伝説がある。堂内には初代武志(たけし)伊八郎の象鼻と獅子鼻の彫刻、境内には享保(きょうほう)年間の力士「雲の戸重右衛門」の墓や椎茸(しいたけ)栽培の指導者「鈴木初太郎」の碑などがある。