稲葉正員(まさかず)は、父正則の遺領のうち常陸国(茨城県)と下野国(栃木県)の3千石を与えられ分家しました。正員が71歳で引退した後、家督を相続したのは婿養子の正方(まさかた)です。2代正方は相続からわずか9年後に死去し、3代正福(まさとみ)も相続から6年後に、22歳で亡くなりました。
正福が若くして死去したことをうけ、養子に入り家督を相続したのが4代正明(まさあきら)です。13歳で当主となった正明は、10代将軍徳川家治の小性として江戸城に勤めます。側近として活躍した正明は、上総国・常陸国・安房国に領地を加増され、天明元年(1781)には1万石の大名となります。これが館山藩の成立です。
2代藩主の正武(まさたけ)は、寛政元年(1789)に家督を相続しました。各地に分布していた領地はこのときまでに整理され、安房・上総の2か国に1万石の領地を有しました。寛政3年には安房国館山に陣屋を設置しています。3代藩主正盛(まさもり)は家督相続から7年後に29歳で死去し、幼年の正巳(まさみ)が4代藩主に就任しました。成長した正巳は講武所奉行・若年寄などに任じられ、44年間という長期にわたり藩主を務めました。さらに隠居後も老中格・海軍総裁などの要職を歴任しています。正巳の跡は養子の正善(まさよし)が継ぎ、5代藩主として幕末を迎えます。明治2年(1869)には館山藩知事となり、その後廃藩に至りました。