4 領地支配と人々

藩主稲葉家と藩士たちは、領地に暮らす人々にとっては自らの領主である「殿様」とその役人でした。館山藩の領地は時期によって若干の変化があるものの、大部分が安房国にあり、その他は上総国と下総国に分布していました。初代藩主正明が天明元年(1781)に1万石で入封した後、同5年に3000石を加増されましたが、翌6年には再び1万石となり、明治4年(1871)の廃藩まで知行高は変わりませんでした。3か国に分散していた領地は、明治元年に振り替えが行われ、安房国安房郡に集約されています。

稲葉家では基本的に、半年ごとの参勤交代により藩主が江戸と国元とを行き来しました。藩主が江戸にいる間も館山陣屋には藩士が詰めており、領地支配は彼らが江戸からの指示を受けながら行っていました。

(1)藩領の動向

藩領に暮らす人々の最大の務めは、藩主に毎年の年貢を納入することです。ただし、それ以外にもさまざまな上納物や労働力の負担がありました。幕府大番頭を勤めていた4代藩主正巳が大坂在番となった際は、藩領村々に金銭の上納が命じられており、藩主の勤務も領地によって支えられていたことが分かります。その他、藩主が国元に戻った際の出迎えや、江戸屋敷が火事になった際の上納金など、藩主の動向や藩財政は領地と密接に結びついていました。

47.御陣屋敷地代金受取証文 天明2年(1782) 館山市 真倉区蔵
47.御陣屋敷地代金受取証文
天明2年(1782) 館山市 真倉区蔵
51.勝手向改革につき規定証文 天保15年(1844) 館山市 真倉区蔵
51.勝手向改革につき規定証文
天保15年(1844) 館山市 真倉区蔵

(2)支配を支える人々

明治元年に領地が安房郡に集約されるまで、館山藩領は安房国内だけでも4郡すべてに分散していました。館山藩士の大部分は江戸屋敷に詰めており、少数の藩士だけで全体を把握することは困難です。そこで地元から人を選び、安房国に3人の大名主を置いて中間支配にあたらせました。また、領地村々には足軽を出すことが命じられ、彼らも「藩士」として勤務しました。

55.安房三郡大名主割元役任命状 天保2年(1831) 横浜市 岩崎文江氏蔵
55.安房三郡大名主割元役任命状 天保2年(1831) 横浜市 岩崎文江氏蔵
59.本織村百姓江戸足軽に召し抱えにつき一札(沼区有文書) 安政7年(1860) 当館蔵

59.本織村百姓江戸足軽に召し抱えにつき一札(沼区有文書)
安政7年(1860) 当館蔵