41.畑村・神余村山論裁許絵図 宝永2年(1705)

 畑村と神余村との間で山境が争われた際の宝永2年の裁許絵図である。裁許文が短文であるため争論に至る経過は分からないが、現在この論所は畑区ではコウサンバタ(降参畑)と呼ばれている。

 地蔵岩屋とあるところは中世のやぐらがあり、五輪塔や宝篋印塔が残されている。

畑村・神余村山論裁許絵図 宝永2年(1705)
143×187 畑区蔵

  40.船形村・多田良村境論絵図 天保10年(1839)

 天保10年2月、旗本田沼主水知行所船形村地内において、隣村多田良村の者が不法に風除けの松林を伐り取った一件があり、船形村は領主田沼氏にこれを訴えている。その際作成された絵図である。多田良村との村境をめぐる争いは度々おきているようで、これより先文化11年にも多田良村が建てた村境の石碑をめぐり争いがおきている。

船形村・多田良村境論絵図 天保10年(1839)
47×65 正木太四郎氏蔵

  39.新井浦・館山下町・長須賀村境論裁許絵図 安永6年(1777)

 元文5年(1740)以来、汐入川をめぐって続いている新井浦と長須賀村および館山下町と長須賀村の境論裁許絵図で、論所のみを描いた絵図である。

 前者は川岸にできた干潟芝地の所属をめぐるもので、後者は両村をむすぶ橋際に長須賀村が建てた分杭をめぐってのものである。いずれも長須賀村の主張がとおり、境界線を設定して杭が打たれた。

新井浦・館山下町・長須賀村境論裁許絵図 安永6年(1777)
176×210 嶋田駿司蔵

  38.相浜村・大神宮村・布良村浜論裁許絵図 寛保2年(1742)

 寛保2年に相浜・大神宮の両村が布良村と浜の干潟をめぐって争った時の裁許絵図である。相浜村内の干潟の畑までが論所になっているが、結局布良村の主張は認められず大神宮村との境が確定した。

 境を表示するために布良村の山裾にある石塔(五輪塔)や墓所が描かれているが、墓所は土饅頭になっているのがおもしろい。

相浜村・大神宮村・布良村浜論裁許絵図 寛保2年(1742)
182×212 相浜漁業協同組合蔵

  37.佐野村・犬石村境論裁許絵図 宝永7年(1710)

 平砂浦浜の荒地を新田として開発した犬石村と隣村佐野村が浜の境界線をめぐって争った時のもので、宝永7年に代官樋口又十郎が裁許を行っている。論所となった巴川畔のともへ原については、承応3年の相浜村・大神宮村・犬石村巴川舟入論裁許絵図(34図)に犬石村として記載されていることを理由に、犬石村の主張を認め、現在の境界が確定した。

 絵図の中には耕地や人家・社寺・高札場のほか砂地も描かれ、谷の奥にまでおよんだ平砂浦の飛砂のすごさがわかる。

佐野村・犬石村境論裁許絵図 宝永7年(1710)
114×162 保田正平氏蔵

  34.相浜村・大神宮村・犬石村巴川舟入論裁許絵図 承応3年(1654)

 34並びに36の絵図は、平砂浦に注ぐ巴川の利用と芝浜の利用をめぐっての争論である。承応3年に相浜村及び大神宮村・犬石村の間で、巴川へ突きんぼう漁の舟を係留することと、相浜・大神宮両村による芝浜の鰯干し場としての利用をめぐって争われたが、この時点ではまだ結論は出ず、解決するまでの論所の利用を禁じているのみである。

 両絵図の内容は違うが、同じ目的で同時に出されたものである。34は大神宮村・犬石村宛であり、36は相浜村宛のもの。36の絵図裏面の裁許文は35と同じである。

 この裁許絵図は以降に起こった近隣の争論の際に証拠としてしばしば採用され、正徳3年の浜論(32図)の際は36が、宝永7年の佐野村・犬石村境論(37図)の際には34が使われている。

相浜村・大神宮村・犬石村巴川舟入論裁許絵図 承応3年(1654)
63×91 岡嶋成鑑氏蔵