平砂浦浜の荒地を新田として開発した犬石村と隣村佐野村が浜の境界線をめぐって争った時のもので、宝永7年に代官樋口又十郎が裁許を行っている。論所となった巴川畔のともへ原については、承応3年の相浜村・大神宮村・犬石村巴川舟入論裁許絵図(34図)に犬石村として記載されていることを理由に、犬石村の主張を認め、現在の境界が確定した。
絵図の中には耕地や人家・社寺・高札場のほか砂地も描かれ、谷の奥にまでおよんだ平砂浦の飛砂のすごさがわかる。
平砂浦浜の荒地を新田として開発した犬石村と隣村佐野村が浜の境界線をめぐって争った時のもので、宝永7年に代官樋口又十郎が裁許を行っている。論所となった巴川畔のともへ原については、承応3年の相浜村・大神宮村・犬石村巴川舟入論裁許絵図(34図)に犬石村として記載されていることを理由に、犬石村の主張を認め、現在の境界が確定した。
絵図の中には耕地や人家・社寺・高札場のほか砂地も描かれ、谷の奥にまでおよんだ平砂浦の飛砂のすごさがわかる。