真倉村の内新井浦と汐入川をはさんで隣接する長須賀村との間で、元文5年(1740)以来汐入川をめぐる境争論が続き、安永6年(1777)になって裁許が行われているが、この絵図も一連の争論のなかで作成されたものと考えられる。
絵図の内容は新井浦のほか、館山上町・中町・下町・楠見浦の街並、さらに長須賀村を色別けして表示している。争論の対象となっている汐入川右岸は新井浦の地所として描いている。
現在下町交叉点から神戸へ向う道は、当時は菱沼でさえぎられており、ひとつ西側の通りから海磯の交叉点へ出ていた。砂浜も現在より内陸よりにある。海上に描かれているのは鷹の島と沖ノ島。
街並をよくみると上町と楠見浦の間に高札場のあったことがわかる。寺社も多く描かれているが、神社の多くは大正大震災後に館山神社として合祠された。