天保8年には旗本土岐氏の支配であったと思われる。絵図には南条村のほか大戸村も描かれているが、大戸村及び作名村は南条村のうちに含まれる枝郷であった。
谷が平野部へ広がっていく出口にあたるところで、山裾に集落があり、その周辺に畑、村の中央を流れる川に添って田が開かれている。
飯沼村・山荻村との境近くに用水堰がみえる。女堰といい、南条村のほか上真倉・下真倉に分水しており三ヵ村で組合管理していた。宝永頃から記録にみえる。
天保8年には旗本土岐氏の支配であったと思われる。絵図には南条村のほか大戸村も描かれているが、大戸村及び作名村は南条村のうちに含まれる枝郷であった。
谷が平野部へ広がっていく出口にあたるところで、山裾に集落があり、その周辺に畑、村の中央を流れる川に添って田が開かれている。
飯沼村・山荻村との境近くに用水堰がみえる。女堰といい、南条村のほか上真倉・下真倉に分水しており三ヵ村で組合管理していた。宝永頃から記録にみえる。