この絵図には袋が付属しており、「天明度、御代官飯塚伊兵衛様より地頭所江御引渡絵図面并立会絵図面〆弐枚、田沼主水知行所房州平郡船形村」とある。船形村は天明2年(1782)に旗本田沼意致の所領となっており、領主の交替にともなって作成されたものであることがわかる。
多田良村との境をとくに朱引で表現しているのは、境争論がしばしばあることを示すものであろうか。両村の境争論は文化11年、天保10年などが確認されている。
道は海岸沿いを除けばほぼ現状と変わらない。但し那古船形駅前の道はなく、駅前十字路には岩山の台地があり松林であったという。勝負切山(汐切山)と呼ばれ、人通りの少ないさびしい場所であったそうだ。主要街道は南から北へ向う東よりの幅広い道で、地元では大街道と呼ぶ木の根街道が利用されていた。