17.館山町・長須賀村・北条村三カ村絵図 正徳元年(1711)

 「川口源三郎知行所真倉村内館山下町」の付箋があるので、旗本川口恒壽が支配した宝永から享保期のものであることがわかるが、元禄地震の隆起によってできた北下台下の干潟をめぐり、北条村と真倉村の内上須賀村との間で、正徳元年(1711)から翌2年にかけて争論がおきているので、それにともない作成された絵図と考えてよい。

 館山町から長須賀村、北条村の内新宿町、北条村にわたって描かれている。北条、長須賀の集落は市役所通りに沿ってあり、それより海岸寄りは婦人会館の通りにあるだけである。南町に北条村の高札場が描かれている。

 現在、長須賀を流れてNTT館山付近で汐入川と合流する境川は、この当時は汐入川に入らず、館山駅の西側まできていたことがわかる。駅西側は幕末に新田として開発され、その際境川の流路を現在のようにつけかえたのである。

館山町・長須賀村・北条村三カ村絵図 正徳元年(1711)
173×210 真倉区蔵