32.洲宮村・茂名村・布沼村浜論裁許絵図 正徳3年(1713)

 この絵図は平砂浦の砂浜利用をめぐる浜論の裁許絵図である。正徳3年、茂名村が平砂浦砂浜の古来からの利用を主張し、洲宮村と布沼村を相手に争論を行ったが、慶長・元和の検地帳や承応3年の相浜村・大神宮村・犬石村巴川舟入論裁許絵図(36図)などを引合にし、茂名村の主張を退け、現在の境界が確定した。同じ絵図は茂名区にも残されている。

 境界設定に主眼をおいた絵図であるが、茂名・洲宮両村の山林や耕地・人家・神社・高札場なども描いており、村内の景観がよくわかる。

洲宮村・茂名村・布沼村浜論裁許絵図 正徳3年(1713)
114×169 布沼区蔵

【3】村絵図のいろいろ
 1.境界争いの絵図

 村に生活する人々にとって、耕地はもちろん山林や浜も生活や生産に必要な資材を提供してくれる場であり、さまざまに利用のできる土地として重要な場所であった。それ故、他村との境が明確でない場所ではしばしば争論がひきおこされ、幕府の評定所にもち込まれて境界線が裁定されると、後日の証拠とするため、裁許文とともに境界線を墨引きした絵図が作成された。

 4.山間の村
  31.畑村絵図 天明2年(1782)

 天明2年5月15日の裏書がある。畑村は天明元年9月に稲葉正明が安房上総に3000石を加増された際、その支配となった。同じ領内の真倉村、沼村では天明2年3月に村明細帳を差出しており、この絵図も稲葉氏の入封にともない、差出したものであろうか。

 山荻から畑への道はまだなく、尾根をつたって東長田へとぬける道を利用していた。年貢の運搬も東長田、大戸、下真倉、長須賀を経由して館山へ運んでいる。

 長尾川に沿って集落と耕地が開かれているが、山間部の平坦地も利用して耕地を開いている様子がわかる。山神・八幡・牛頭天王の三社は現在合祠され、長尾三神社として祀られている。高札場・郷蔵は名主屋敷の前にあった。

畑村絵図 天明2年(1782)
134×159 畑区蔵

  30.東長田村絵図

 北東南の三方を山に囲まれ、西に耕地が開けた山辺の村である。南の谷には山宮神社があり、谷一帯がその社領(10石)になっている。

 畑村からの道が東の尾根を回って集落の北へ出てくる。道の途中にセッタイ場とあるのは、かつて巡礼者を村人が接待した場所である。高札場は福寿院下にある。小祠が数多く描かれ、10社をこえるのが眼にとまる。

東長田村絵図
55×77.5 安西公也氏蔵

  29.山荻村絵図

 現在の山荻は明治10年に山荻村と永代村が合併したものである。朝夷郡の大貫村方面への街道沿いにあった村で、街道を山のなかに入ったところに浅間社がある。

 沿道のお堂(薬師堂)脇に高札場があり、その奥には郷蔵がみえる。宮は歳宮神社(山荻神社)、寺は福楽寺。御朱印は歳宮神社の寺領(8石)である。

山荻村絵図
28.5×40.5 山荻区蔵

  28.南条村絵図 天保8年(1837)

 天保8年には旗本土岐氏の支配であったと思われる。絵図には南条村のほか大戸村も描かれているが、大戸村及び作名村は南条村のうちに含まれる枝郷であった。

 谷が平野部へ広がっていく出口にあたるところで、山裾に集落があり、その周辺に畑、村の中央を流れる川に添って田が開かれている。

 飯沼村・山荻村との境近くに用水堰がみえる。女堰といい、南条村のほか上真倉・下真倉に分水しており三ヵ村で組合管理していた。宝永頃から記録にみえる。

南条村絵図 天保8年(1837)
47.5×65 南条区蔵

  27.大戸村絵図

 大戸村は南条村の枝郷であった。裏書に森覚蔵御代官所房州安房郡大戸村とあるので文政から天保頃のものである。山荻村弘分用水の文字が見えるが、大戸村は山荻村の長堰から分水して灌漑用水としていた。文政7年に長堰の普請願を出しているのでその関係かとも思われる。

 村内北西部に青木村光厳寺領がある。これは平郡青木村(南房総市富浦町青木)の光厳寺の寺領73石余の内11石6斗8升が南条村の内で給されていたものである。寺領内に見える松は舟継ぎの松と称されていたものだが、昭和になって倒木している。稲荷社もすでにないが、庚申塚は当時のおもかげを残している。左下隅に貞四郎書とあるのは上真倉村名主真里谷貞四郎が描いたものであることを教えてくれる。

大戸村絵図
40×28 真倉区蔵

  26.出野尾村絵図 明治7年(1874)

 明治7年10月に作成されており、地租改正の過程での作図であろうか。

 密教道場として開かれた小網寺を中心とした村で、真防御林や吹防御林などは小網寺の寺領である。地蔵堂や安養院などは既にないが、地蔵堂下の谷は法華谷といい修行の場であったといわれ、広い境内であったことがわかる。

 高札場と郷蔵は村の入り口にある。高札のあった位置は崖面を堀りくぼめてあり、今でもそれとわかる。

出野尾村絵図 明治7年(1874)
28×39 出野尾区蔵