24.岡田村絵図

 小さな谷を開発してできた村で、耕地が少なく、そのため山間に見取場を開き開発していった様子が窺われる。

 真倉村から佐野村へ向かう道は当時の街道で、安房神社往還といわれ、八幡の祭礼に安房神社の神輿が出祭するときにはこの道を通った。不動堂へ参拝するにもこの道からおりていったという。

岡田村絵図
28×39 岡田区蔵

  23.大神宮村絵図

 安房神社の社領が上知となっているので、明治4年1月の寺社領上知令以降のものであることがわかる。また村岡村は明治7年南竜村、北竜村と合併して竜岡村となっているので、その間に作成されたことになる。

 安房神社を中心とした村で、門前に集落があり、郷蔵も門前におかれている。別の絵図を見ると郷蔵のむかいに高札場がある。左方のヤシキ地は枝郷の小塚と長岡で、除地とあるのが小塚大師で知られる遍知院。右方の除地は大艦院である。

大神宮村絵図
39.5×54.5 岡崎孝彦氏蔵

  22.犬石村絵図 延享元年(1744)

 「延享元甲子四月、御代官山本平八郎様江書上候控」とある。耕地が山際に開発され、集落は平坦部に展開する村である。金蓮院周辺の本村のほか、海寄りの枝郷蒲生と竜岡方面にも枝郷をんばがある。をんばは今も字大道として犬石の飛地になっている。中里村との境近くに下井戸という井戸が描かれているが、これは現在も残されている。

犬石村絵図 延享元年(1744)
126×63 犬石区蔵

  21.佐野村絵図 

 集落は谷に立地し、谷が開けたところに耕地が広がっている。ひゑた海とは平砂浦のことで、海岸の砂がかなり谷の奥まで吹き上がってきている様子がわかる。

 現在の房南中周辺は戦前に砲術学校ができたため、川の流路や道筋がつけ変えられたが、著しく変化していることがわかる。川沿いに集落部をぬける道は館山から安房神社方面への街道であった。この道に沿って郷蔵や高札場がある。現在もこの近くの辻に掲示板が立てられている。

佐野村絵図
46.5×64 保田正平氏蔵

  20.洲宮村絵図 寛政10年(1798)

 絵図の裏に後日のための控えとして絵図作成の理由がしるされており、「御林郷山其外山々御改二付絵図面相認差上申候」とあり、山改のため差出されたことがわかる。寛政10年には館山藩領で他に6ヵ村が山改をうけている。

 洲宮神社の門前、川向いに高札場郷蔵の注記がある。明神山裾の建物が洲宮神社、寺山のところが薬王院、寺作の建物は不動堂である。

洲宮村絵図 寛政10年(1798)
47×116 洲宮区蔵

  19.茂名村絵図 文化8年(1811)

 文化8年には旗本高木氏から白河藩へと支配が変わっており、3月頃には代官大貫次右衛門が入っている。

 平砂浦の浜をもたない谷間の村で、川沿いに若干の耕地があるだけである。村内の道は変わらないが、現在宮城へ出る道は沼へ山越するのが旧道である。要害道あるいは魚買道と呼ばれていた。高札場、郷蔵は川の左岸、橋のたもとに描かれている。現在南国花木園のある山は砂山になっていた。

茂名村絵図 文化8年(1811)
62.5×83.5 茂名区蔵

 3.山辺の村
  18.布沼村絵図 天保10年(1839)

 天保10年作成の耕地絵図で、社寺などは省略されている。当時は幕府領で「天保十一子六月六日茂名御泊二而差出候」と注記があり幕府の役人に差出したのであろう。天保11年6月には代官が森覚蔵から羽倉外記に交替している。

 溜井や川などの水利施設を重点的に描いており、その大きさ長さを注記しているほか、川にかかる土橋の大きさも記している。郷蔵高札場は谷の東寄りにあるが、川の右岸の橋際に高札場を描いた絵図もある。坂井村境の下方にみえる家は、小原の集落である。平砂浦の海岸まで村域であるが省略されている。

布沼村絵図 天保10年(1839)
41×28 布沼区蔵

  17.館山町・長須賀村・北条村三カ村絵図 正徳元年(1711)

 「川口源三郎知行所真倉村内館山下町」の付箋があるので、旗本川口恒壽が支配した宝永から享保期のものであることがわかるが、元禄地震の隆起によってできた北下台下の干潟をめぐり、北条村と真倉村の内上須賀村との間で、正徳元年(1711)から翌2年にかけて争論がおきているので、それにともない作成された絵図と考えてよい。

 館山町から長須賀村、北条村の内新宿町、北条村にわたって描かれている。北条、長須賀の集落は市役所通りに沿ってあり、それより海岸寄りは婦人会館の通りにあるだけである。南町に北条村の高札場が描かれている。

 現在、長須賀を流れてNTT館山付近で汐入川と合流する境川は、この当時は汐入川に入らず、館山駅の西側まできていたことがわかる。駅西側は幕末に新田として開発され、その際境川の流路を現在のようにつけかえたのである。

館山町・長須賀村・北条村三カ村絵図 正徳元年(1711)
173×210 真倉区蔵

  16.瀧川用水絵図

 国分村内の溜井は上野原村、新宿村、高井村、国分村の四ヵ村で共有利用していたが、この水は瀧川から取水していた。腰越と山本の境にある箱橋の真下の堰から取水していたが、その堰は箱型の箱堤を利用しており、箱橋の名称もこれに由来すると考えられている。

瀧川用水絵図
40×27 国分区蔵

 2.平地の村
  15.国分村絵図 明治2年(1869)

 明治2年に長尾藩へ差出した耕地絵図である。西方の耕地に字北条前谷あるいは字高井腰巻などの、北条・高井と名のつく字がいくつがあるが、これはそれぞれ北条村・高井村からの入作地であった。

 長尾藩は明治元年に入封してきたが、同3年になると、絵図上の芝地を中心に開発し、藩士邸を建設している。

国分村絵図 明治2年(1869)
51.5×39 国分区蔵