13.川名村(現西川名)絵図

 案内道が朱引で耕地のなかに描かれており、検見に際して作成されたものかと思われる。

 注記がないが、左方山寄りの二軒は奥が福蔵寺手前が持明院。山腹の神社は吾妻社、海岸の神社は弁天社。伊戸村寄りの墓地には墓石を描いている。別の絵図によると高札場は川の右岸の街道沿いにある。

川名村(現西川名)絵図
28×50 飯田忠男氏蔵

  12.坂田村絵図 寛政元年(1789)

 坂田村は天明年中より旗本小笠原氏の支配となる。絵図作成の目的は不詳だが、丁寧に描かれており、特に海岸線や崖をうまく表現している。

 集落部の海岸に面した側には波防のための石垣が築かれている。高札場は街道沿いの海寄り、集落の入口にあたるところにある。注記が少ないのでわかりにくいが、寺社には朱を入れてそれとわかるように表現している。西方寺門前の水色の点は共同井戸である。

 また波佐間村・洲崎村との境界が、海岸及び山頂に朱点で示されている。

坂田村絵図 寛政元年(1789)
92×130 海老原斉氏蔵

  11.波左間村絵図 文化5年(1808)

 西岬の海岸にある村は山と海に囲まれ、わずかに開けた耕地をもつというところが多く、半農半漁の生活を営んでいた。波佐間村は漁業も盛んに行い、集落は海沿いに展開する。砂浜には舟が描かれ、集落の下が湊になっていることがわかる。

 陸寄りの道を見ると川に板橋がかけられている。浜の道にないのは歩いて渡ったのであろう。現在広い県道ができており、道がつけかえられているところもある。家が密集する中に石垣が2ヵ所見えるが、これは現在も変わらない。高札場は浅間山の裾に描かれている。別の絵図では寺(光明院)の下に描いたものもある。

波左間村絵図 文化5年(1808)
54×115 佐野幸子氏蔵

  10.浜田村絵図

 田と畑・水だけを色別けして凡例に出し、耕地中心に描いており、また案内道の印がある点などからすると、検見に際して作成された絵図であろうか。

 手前の横線が海岸線で、海岸寄りに見取田がみえ、海岸近くの新開の様子が窺われる。見物村境にある石積の建物は高札場である。

浜田村絵図
27.5×40 龍崎貢氏蔵

  9.塩見村絵図 寛政5年(1793)

 寛政5年に御見分御役人衆へ宛てて提出したものであるが、異国船に対する海防論の高まるなか、この年老中松平定信の命により房総沿岸の巡視が行われており、その際に作成されたものであろうか。街道沿いに「地里御改之節印置申候」という杭が12本しるされている。

 街道沿いに高札場、村のほぼ中央の名主屋敷の前に郷蔵がある。山神や弁天など多くの小祠がみられるが、現在は村社御獄神社に合祠されるか消滅している。海岸寄りの観音堂には名勝臥龍松も描かれている。家屋は屋敷林に囲まれているのがわかる。

塩見村絵図 寛政5年(1793)
85×61 飯沼政治氏蔵

  8.柏崎浦絵図

 沼村の内柏崎浦を描いたこの絵図は、元禄地震により隆起した段丘面の開発・利用状況を示す絵図としてすでに知られている。屋敷の立並ぶ道の下にナミウチキワ(波打際)と注記した墨線があり、これが元禄地震以前の汀線とされている。

 地震後開発された土地は、新畑・干鰯場・網干場などとして利用され、その上の段丘上に屋敷が並んでいる。住宅にうめつくされた現在の柏崎とはずいぶん違う様子を窺うことができる。栄洗寺下の三叉路に高札場があり、上須賀寄りには領主の保護林である御林もみえる。

柏崎浦絵図
93×94 竹中すみえ氏蔵

  7.新井浦絵図 安永4年(1775)

 真倉村の内新井浦と汐入川をはさんで隣接する長須賀村との間で、元文5年(1740)以来汐入川をめぐる境争論が続き、安永6年(1777)になって裁許が行われているが、この絵図も一連の争論のなかで作成されたものと考えられる。

 絵図の内容は新井浦のほか、館山上町・中町・下町・楠見浦の街並、さらに長須賀村を色別けして表示している。争論の対象となっている汐入川右岸は新井浦の地所として描いている。

 現在下町交叉点から神戸へ向う道は、当時は菱沼でさえぎられており、ひとつ西側の通りから海磯の交叉点へ出ていた。砂浜も現在より内陸よりにある。海上に描かれているのは鷹の島と沖ノ島。

 街並をよくみると上町と楠見浦の間に高札場のあったことがわかる。寺社も多く描かれているが、神社の多くは大正大震災後に館山神社として合祠された。

新井浦絵図 安永4年(1775)
121×177 嶋田駿司氏蔵

  6.船形村絵図

 この絵図には袋が付属しており、「天明度、御代官飯塚伊兵衛様より地頭所江御引渡絵図面并立会絵図面〆弐枚、田沼主水知行所房州平郡船形村」とある。船形村は天明2年(1782)に旗本田沼意致の所領となっており、領主の交替にともなって作成されたものであることがわかる。

 多田良村との境をとくに朱引で表現しているのは、境争論がしばしばあることを示すものであろうか。両村の境争論は文化11年、天保10年などが確認されている。

道は海岸沿いを除けばほぼ現状と変わらない。但し那古船形駅前の道はなく、駅前十字路には岩山の台地があり松林であったという。勝負切山(汐切山)と呼ばれ、人通りの少ないさびしい場所であったそうだ。主要街道は南から北へ向う東よりの幅広い道で、地元では大街道と呼ぶ木の根街道が利用されていた。

船形村絵図
67×136
正木太四郎氏蔵

【2】村絵図の世界
 1.海辺の村
  5.相浜村絵図 文化7年(1810)

 田畑が多くあるようにみえるが、村高はわずか15石余。典型的な漁村であり、浜の利用をめぐってしばしば隣接する村と争論がおきている。

 三ヵ所の村の出入口には、六部塚、経塚、香取明神がある。高札場は経塚から少し下った辻にある。高札場のある大きな屋敷は小歩行と称する役人のもの。もうひとつの大きな屋敷は名主。感満寺は修験の寺であったが明治になって相浜神社と改称した。現在の富崎小学校付近や蓮寿院の周辺にはまだ人家はない。

相浜村絵図 文化7年(1810)
124×166 相浜漁業協同組合蔵