部材に墨付けをし、それを加工することで、文字どおり大工としての腕のことをいうのである。少年期に親方の元で数年間の年季奉公をする間に、見よう見真似で技術を習い、手仕事の修行をするわけである。そうした経験の積み重ねに加え、道具も自分の体に合わせたものを自らつくる。手に馴染ませて使いこなしていくことで、腕をあげていったのだ。
19.20.平等院懸魚模造
千葉市立郷土博物館蔵
21.斗栱(ときょう)
白浜町中央公民館
部材に墨付けをし、それを加工することで、文字どおり大工としての腕のことをいうのである。少年期に親方の元で数年間の年季奉公をする間に、見よう見真似で技術を習い、手仕事の修行をするわけである。そうした経験の積み重ねに加え、道具も自分の体に合わせたものを自らつくる。手に馴染ませて使いこなしていくことで、腕をあげていったのだ。
19.20.平等院懸魚模造
千葉市立郷土博物館蔵
21.斗栱(ときょう)
白浜町中央公民館
設計上の計算や建築費用の積算をする技術である。材料費や人件費の計算も行うわけで、算学の知識も要求された。古い大工のお宅へいくと算学書が残されていることがある。
ようするに設計のことである。そのための基準である木割や規矩(きく)を習得し、設計図としての指図(平面図)や建地割図(立面図)を作成する。さまざまな部材が複雑に組み合わされたうえ曲線の多い社寺の建築には熟練を要した。その技術は経験的に体得するものであったが、江戸中期頃からは設計の雛形としての技術書が数多く刊行されるようになった。
建築工事を設計・施工する立場の大工棟梁は、技術者かつ経営者として全体の仕事を把握し、指導できるだけの力量を身につけなければならなかった。江戸時代初頭の大工技術書である『匠明(しょうめい)』では、当時の大工の理想像として「五意達者」という姿を求めている。すなわち式尺の墨がね・算合・手仕事・絵様・彫物を五意といって、これらに優れていなければいけないというわけである。
1.春日権現験記絵巻(巻1)<模本> | |||||
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縦×横 (cm) |
41.8× | 年代 | 原本 延慶2年(1309) |
所蔵者 | 東京国立博物館 |
竹林殿普請の場面である。中世の大工たちの姿がいきいきと描かれている。地割りをし、柱をたてる様子や、水はかりで水平をみる者、釿(ちょうな)や鉇(やりがんな)を使って板をはつり削る者、曲尺(かねじゃく)や墨壷で墨を付ける者、鑿(のみ)で穴をあける者、また組物を担いで運ぶ子供達、小屋で食事するものなどがいる。尺杖(しゃくづえ)を持ち草履をはいて指示をしているのが棟梁である。 |
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2.職人尽絵(番匠師) | |||||
縦×横 (cm) |
60×50 | 年代 | 江戸時代 | 所蔵者 | 国立歴史民俗博物館 |
江戸初期の大工と仕事場を描いている。小屋のなかには板に描いた神社の設計図がある。釿で柱を削り、墨壷で線を引いているところへ、女が食事を持ってきたという場面である。 |
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3.三芳野天神縁起 [埼玉県指定] | |||||
縦×横 (cm) |
36.3× | 年代 | 慶安2年(1649) | 所蔵者 | 川越市・三芳野神社 |
寛永元年(1624)の三芳野天神再建の様子を描いた場面である。江戸時代前期の大工の姿や道具、作業の姿勢などが詳しく描写されている。彫り物をする大工や、鉋の刃の調整をする者、刃を研ぐ者もいる。子供たちは見習い工である。 |
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4.成田山造営図絵馬 | |||||
縦×横 (cm) |
100×148 | 年代 | 明治7年(1874) | 所蔵者 | 川越市・本行院 |
明治6年の成田山川越別院の造営絵馬であるが、描かれているのは、伐採から製材までの場面である。右上に杣人(そまびと)、下に木出し人夫、左上に木挽きがそれぞれ仕事をする姿を配しており、木挽中による奉納と考えられる。 |
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5.神社改築図絵馬 | |||||
縦×横 (cm) |
91.8x136.8 | 年代 | 大正10年(1921) | 所蔵者 | 埼玉県庄和町・香取神社 |
西金野井の香取神社造営の様子を描いている。足場の上で柱を組み上げているのは鳶職人たちである。奉納は鳶渡。ひときわ大きく描かれ、指図をしているのが鳶渡の親方であろう。絵は春玉斎義晴。 |
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6.大工細工之図絵馬 | |||||
縦×横 (cm) |
84.2×99.6 | 年代 | 元治元年(1864) | 所蔵者 | 館林市・赤城神社 |
右の立ち姿の大工がこの絵馬の奉納願主大朏(おおつき)辨蔵である。当所足次村の赤城神社造営を記念して奉納したものである。絵は浮世絵師北尾重光。腕に刺青{いれずみ}をした大工の姿もあり、江戸時代末の大工の風俗を写している。 |
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7.大工送りの図絵馬 | |||||
縦×横 (cm) |
51.8×69.1 | 年代 | 大正2年(1913) | 所蔵者 | 草加市・氷川神社 |
上棟式の後行われる大工送り(棟梁送り)の様子を描いている。上棟式で使用した祭器を携え、木遣りを唄いながら棟梁の家まで送るのである。中央に儀式装束のまま担がれているのが棟梁である。この絵馬は北足立郡新田村の個人宅を普請したときのものであるという。願主植井辰治が棟梁であろう。絵は耕齋。 |
古代、大工は「大匠(おおいたくみ)」と呼ばれ、律令制下の組織のなかで国家的な建築にあたる指導者であった。その組織のなかの一般的な大工技術者は「番匠(ばんじょう)」と呼ばれていたのである。やがて中世になるとさまざまな職種の指導者を大工と呼ぶようになる。つまり大工の指導者は番匠大工、鍛治の長は鍛治大工、屋根工事の瓦葺大工といったぐあいである。これが江戸時代になると建築工事の中心的職種である木工の職人、あるいは職種そのものをさして大工というようになった。そして大工指導者は、建築の構造のかなめとなる部材の名称から発生した「棟梁」の名で呼ばれるようになるのである。
江戸時代になると、建築の注文主はそれまでの社寺や貴族・武家にくわえて町人たちが急増してくる。都市ができ需要も増えると大工の仕事も細分化し、住居を造る家大工、船を造る船大工、社寺を造る宮大工などに専門化していった。社寺の彫刻をつくる彫物大工もあらわれた。
社寺の運営にあたった宮大工たちは、その社寺の縁起絵巻に描かれたり、また絵馬として運営の記念に自らの姿を描いて奉納していることがある。描かれた大工たちの姿にはその当時の風俗があらわれ、またその時代の道具の特色や使い方まで知ることができる。
社寺の建築には宮大工を中心に、材木の伐採・製材を行う木挽きや、基礎をつくる石工をはじめ瓦師・左官・銅細工師・鳶など多くの職種の人々が携わった。ここではそうした職人たちもふくめその姿を紹介している。
豊富な森林資源に恵まれた日本人は、古代より木の家に住み、木からさまざまな道具を作り出して、木の文化の中で生活してきました。そうした木を加工する職人はさまざまありましたが、木工技術者といえばなんといってもかつて「木(こ)の道(みち)の匠(たくみ)」と呼ばれた大工に代表されます。
江戸時代、専門の分野に分かれた大工のなかでも、寺院建築や神社建築に従事する大工を特に宮大工とよびます。社寺建築は多くの部材が複雑に組み合わされるため、特殊な技術が要求されました。
わが安房地方にも、かつては多くの宮大工がいました。建築の技術から経営にいたるまでの多くの素養を身につけ、数々の建築を手懸けたのです。
この企画展では、江戸時代の宮大工の姿を明らかにしつつ、幕末に行われた安房国総社鶴谷八幡宮の造営と、これに係わった安房地方の宮大工たちについて紹介します。彼らの仕事をとおして、建築や彫刻などに残された安房の文化の一端を知る機会となれば幸いです。
なお、本展の開催にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また快く資料の出陳をご承諾いただきました。厚くお礼申し上げます。
平成3年10月19日
館山市立博物館長 松田昌久
【1】絵にみる大工たちの姿
【2】大工の仕事と道具
【3】大工の信仰と式祭
【4】鶴谷八幡宮造営
【5】安房の棟梁たち
吉野忠右衛門義重
小高吉右衛門定興
加藤喜八輝郷
伊丹喜内敏英
羽山林兵衛盛満
中沢久五郎正友
渡辺太右衛門義重
企画展図録
宮大工たちの世界
平成3年10月19日(土)~11月24日(日)
館山市立博物館
大工細工之図絵馬(部分)