来遊する人々

 漢詩人や俳人・絵師・儒学者・思想家など、各地の文人が房州に来遊する姿は、江戸時代の後期になると多くみられるようになります。それは彼らの作品集や紀行文から知ることができますが、彼らを迎えるのは、土地の知識人たちでした。名主や医者、商家などの知識人は喜んで彼らに宿を提供し、交流を求めました。天保2年(1831)に訪れた若き日の大原幽学が、行く先々で逗留を求められているようすが旅日記に記されているのも、情報や知識を求める人々が多かったことを物語っています。また寺などにも投宿することが多く、こうした旧家や寺社には来遊した文人たちの書画がよく残されています。

 平久里(富山町 現:南房総市)周辺に多くの知己をもつ漢詩人の梁川星巌やその門人たちが来遊してくると、長須賀村の名主池田琴嶺や八幡村の名主根岸太郎兵衛などは、そうした人々の来宅を積極的に求めていました。琴嶺の屋敷には、ほかにも藤森大雅や大沼枕山・春木南溟などが訪れています。

 またこの地に住みついた文人も数多くいます。北条の塩蔵院に記念碑のある俳人の吾子は松江の人であり、長須賀の来福寺には出羽国の絵師高橋考民の墓があります。『房州方言歌僊』という句集を作った俳人の森岡半圭も武蔵から来た人物です。

 こうした人々の来訪は、明治時代になっても続きましたが、やがて小説家や画家といった新しい文人たちにかわっていきました。

33.大槻盤溪七言絶句

33.大槻盤溪七言絶句
当館蔵

36.谷文晁作『漂客奇勝図』「房州館山」(寛政2年)
36.谷文晁作『漂客奇勝図』「房州館山」(寛政2年)
当館蔵
37.高橋克庵著『南遊紀行』(嘉永5年)
37.高橋克庵著『南遊紀行』(嘉永5年)
当館蔵
38.小栗風葉著『恋ざめ』(明治41年)
38.小栗風葉著『恋ざめ』(明治41年)
当館蔵

【3】様変わりする来房者
 (1)江戸時代の旅行者
  房州への交通

 江戸時代に房州を訪れた人々は、那古寺や清澄寺・小湊誕生寺などへの巡礼参詣者や、この地方の有識者と交流する文人たちに代表されます。

 当時の交通手段としては内房・外房の街道を、海沿いに歩いてやってくるのが一般的で、江戸から館山までは、内房を来れば四日間の旅程です。内房から鋸山先端の明鐘岬をまわって保田・勝山・市部と来れば、難所ながら最短の木の根峠を越える木の根道、平坦ながら回り道の滝田道、起伏のある海岸沿いの南無谷道の三つのコースがあります。

 外房からは江見・和田・海発と海沿いに来ると、ここから内陸を横断して加茂坂を越える道が最短ですが、旅を楽しむ人々はさらに海沿いに白浜まで行き、神余越えで館山に入るか、洲崎をまわってくることも多いようです。いずれにしても、最後の峠を越えると鏡ケ浦の姿を目にすることになります。この鏡ケ浦に面して、船形・那古・北条・長須賀・館山の街場があり、多少の宿もあって、ここが逗留の地となりました。

 また、江戸や三浦半島との行き来には、海路を利用する方法もありました。寛文11年(1671)に観音参詣諸国巡礼の人々の往行の船が那古村に出入りしていましたし、安政6年(1859)には船形村で、江戸とを往来する押送舟に客人を乗せることについての取り決めがされていたりします。生魚を江戸へ輸送するための快速船である押送舟は、順風で帆走すると10時間で到着したといいます。しかしこれは土地の人々や商売人などの利用が多かったのではないでしょうか。文人などの旅行者の多くは陸路を北上していくようです。

31.結願額(元禄16年)

31.結願額(元禄16年)
館山市那古寺蔵

32.押送舟図(文政4年)

32.押送舟図(文政4年)
当館蔵

 鏡ヶ浦八景一覧

N
o.
年代 八景 出典等
1 安政3年 洲崎夜雨
大房秋月
那古晩鐘
船形帰帆
鶴谷晴嵐
鷹洲暮雪
鏡浦夕照
湊川落雁
根岸定宣作
『初学一』
八幡村名主
根岸定宣作
<和歌>
根岸定宣作
『拙詩』
根岸定宣作
<漢詩>
2 明治22年 潮見翠松
大房秋月
那古晩鐘
館山帰帆
八幡晴嵐
洲先漁火
鷹島寒鴉
湊川眠鴎
三尾重定著
『房陽奇聞』
高井村医師
高木静斉等作
<漢詩>

八幡村名主
根岸定宣等作
<和歌>
3 明治23年頃 潮見翠松
大房秋月
那古晩鐘
館山帰帆
八幡晴嵐
洲先漁火
鷹島寒江
湊川眠鴎
竹原村
山田子亨写
「房州八景」
同上
4 明治27年 汐見夜雨
城山秋月
奈古晩鐘
館山帰帆
対総晴嵐
船形暮雪
沖ノ島夕照
八幡落雁
前田伯志作
『甲午春館山紀行』
山口県士族、館山住
前田伯志作<俳句>
5 明治31年 汐見夜雨
城山秋月
那古晩鐘
船形帰帆
八幡晴嵐
宮城暮雪
湊長橋
多々良落雁
北条町六軒町
伊達房次郎発行
「房州鏡ヶ浦八景」(版画)
6 明治34年 鹽見夜雨
城山秋月
那古晩鐘
船形帰帆
双島晴嵐
鶴谷暮雪
洲崎夕照
湊川落雁
大房漁火
八幡暁望
北条夜泊
長須賀眠鴎
館山港口
北下公園
宮城望岳
(十五景)
鴨川
鳥海書店発行
『安房名勝地誌』
安房中学校教師
斎藤東湾作
<漢詩>
7 明治35年 鹽見夜雨
城山秋月
那古晩鐘
船形帰帆
八幡晴嵐
洲崎漁火
鷹島寒鴉
湊川落雁
八束村
石井錬治発行
「千葉県安房国全図・房州旅行案内」
8 明治36年 汐見夜雨
城山秋月
那古晩鐘
船形帰帆
八幡晴嵐
宮城暮雪
湊夕照
多々良落雁
東京
博文館発行
『日本漫遊案内』
坪谷水哉著
9 明治36年 汐見夜雨
城山秋月
那古晩鐘
船形帰帆
八幡晴嵐
宮城暮雪
湊長橋
多々良落雁
東京
東陽堂発行
『風俗画報』270号
小島寿堂記
10 明治37年 鹽見夜雨
城山秋月
那古晩鐘
船形帰帆
八幡晴嵐
洲崎漁火
鷹島寒鴉
湊川落雁
北条町
宮沢書店等発行
『避暑避寒房州案内』
文屋菱花等著
11 大正6年 鹽見の夜雨
大房の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
洲崎の漁火
鷹島の寒鴉
港川の白鴎
東京 京房通報社発行
『安房の伝説』
八束村出身
羽山常太郎著
12 大正8年 汐見の夜雨
城山の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
宮城の暮雪
湊の夕照
多々良の落雁
東京
金尾文淵堂発行
『郊外探勝その日帰り』
落合昌太郎著
13 大正11年 汐見の夜雨
城山の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
宮城の暮雪
湊の夕照
多々良の落雁
東京
京屋書房発行
『其日帰りと一夜泊り』
池田紫雲著
14 大正11年 汐見の夜雨
大房の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
洲崎の漁火
鷹の島の寒鴉
湊川の白鴎
千葉石版印刷所発行
「北条館山市街図・北条館山案内」
千葉市
由良保三著
15 大正13年 汐見の夜雨
大房の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
洲崎の漁火
鷹の島の寒烏
湊川の白鴎
安房北条商業倶楽部発行
『房州鏡ヶ浦案内』
北条町
長田清編輯
16 昭和3年 汐見の夜雨
大房の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
洲崎の漁火
鷹の島の寒烏
湊川の白鴎
北条町商工団発行
『鏡ヶ浦-房州遊覧の栞』
17 昭和5年頃 汐見の夜雨
大房の秋月
那古の晩鐘
船形の帰帆
八幡の晴嵐
洲崎の漁火
鷹の島の寒烏
湊川の白鴎
館山町
『館山町誌』
18 昭和10年 潮見の翠松
大房の秋月
那古の晩鐘
館山の帰帆
八幡の晴嵐
洲崎の漁火
鷹洲の寒鴉
湊川の眠鴎
館山北条町観光協会発行
『館山北条の史績名勝』
安房高等女学校教諭
大野太平著

 鏡ヶ浦八景

 近江八景などにならい、鏡ケ浦にも八景があてられるようになるのも自然のなりゆきであったでしょう。和歌や漢詩に通じた八幡村名主の根岸定宜が、安政3年(1856)に鏡ケ浦八景を詠んでいるのが現在確認されるなかでは古いものです。明治になるとそれぞれの好みで八景を詠む人が増え、おおやけに紹介されるようになっていきます。さまざまな鏡ケ浦八景をまとめた「鏡ヶ浦八景一覧」の表をみると、明治31年(1898)に発表された版画の「房州鏡ケ浦八景」は東京方面に浸透していくようです。また、房州では大正6年(1917)の『安房の伝説』で紹介された八景が定着していく様子がわかります。

24.根岸定宜『初学一』(安政3年)

24.根岸定宜『初学一』(安政3年)
当館蔵

25.前田伯志『甲午春館山紀行』(明治27年)

25.前田伯志『甲午春館山紀行』(明治27年)
個人蔵

26.安房国鏡浦八景之図(『房陽奇聞』明治22年)
26.安房国鏡浦八景之図(『房陽奇聞』明治22年)   船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
27.房州鏡ケ浦八景(明治31年)
27.房州鏡ケ浦八景(明治31年)   船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
28.秋月堂の鏡浦八景珍菓子広告(『避暑避寒房州案内』明治37年)
28.秋月堂の鏡浦八景珍菓子広告(『避暑避寒房州案内』明治37年)
成田山仏教図書館

【2】鏡ケ浦の景観

 ここ館山には、鏡ヶ浦の景観があるからこそ、多くの人が訪れてきました。館山を訪れる旅人は古い時代からいましたが、訪れた人々の関心は、一に鏡ヶ浦の景観にあったといってよいでしょう。館山を訪れた人々の歴史をふりかえる前に、まず鏡ヶ浦の景観を見なおしてみましょう。

 地図のうえでは館山湾と記されますが、歴史的には鏡ヶ浦や那古浦などと呼ばれています。富士山を鏡のように映し出す波静かな入江、それが鏡ヶ浦の語源です。鏡のことを菱華ということから、菱華湾の別名もあります。北の大房岬と南の洲崎に抱かれ、湾の最奥が那古から館山までの5㎞におよぶ弓なりの砂浜になっています。かつては湾内に浮かぶ沖の島と高の島、それに広い砂浜と松林があり、大切な鏡ヶ浦の景観をなしていました。そして周囲には坂東観音霊場の納め礼所である那古寺や、臥龍松とよばれる塩見の大松など、名所として知られるところがありました。

 文明18年(1486)、室町時代に那古寺を訪れた道興准后という僧侶は、夕陽の鏡ヶ浦をこう詠んでいます。「なごの浦の 霧のたえまにながむれば 夏も入日を洗ふ白浪」。江戸時代の文化14年(1817)に訪れた儒学者亀田鵬斎も、「那古浦記」という漢詩で富士が影を落とす鏡ヶ浦を詠んでおり、鏡ヶ浦の景観には夕日や富士の姿も欠かせないものでした。

 江戸時代から明治時代に描かれた鏡ヶ浦の姿をみると、正面に富士山を据え、それに伊豆・相模の対岸が重なり、中央には二島を浮かべた鏡ヶ浦、そしてこれを包む大房・洲崎の岬と山々、画面の手前に砂浜と松林、そのなかに点在する寺社・民屋、湾上には舟も浮かんで、ときには地引き網が描かれることもあります。周囲の自然とともに人々の生活もふくめて、これら全体で鏡ヶ浦の景観が構成されていたわけです。

19.和泉式部小式部霊塔境内ヨリ鏡ケ浦眺望之図(明治34年)
19.和泉式部小式部霊塔境内ヨリ鏡ケ浦眺望之図(明治34年)
個人蔵
16.鏡ケ浦図(江戸末期)
16.鏡ケ浦図(江戸末期)
当館蔵
39.房州鏡浦略図(明治22年)
39.房州鏡浦略図(明治22年)
当館蔵
17.鏡ケ浦図絵馬(明治9年)
17.鏡ケ浦図絵馬(明治9年)
館山市那古寺蔵
20.菱華湾縮●(『房州雑詠』嘉永元年)
20.菱華湾縮●(『房州雑詠』嘉永元年)
当館蔵
25.館山金乕亭眺望(『館山紀行』明治24年)
25.館山金乕亭眺望(『館山紀行』明治24年)
個人蔵
21.那古浦記(文化14年)
21.那古浦記(文化14年)
富浦町常光寺
22.田村彩天画『木村屋旅館の松』(大正6年)
22.田村彩天画『木村屋旅館の松』(大正6年)
個人蔵
23.池田弘斎画「大賀ビリドの鼻」

23.池田弘斎画「大賀ビリドの鼻」
個人蔵

23.池田弘斎画「西岬の海岸」

23.池田弘斎画「西岬の海岸」
個人蔵

【1】旅から旅行へ

 「旅」と「旅行」という二つのことばがあります。「旅」はつらく、「旅行」は楽しいと区別したのは柳田国男でした。そして旅行は近代の新文明が生み出した楽しみだということなのですが、江戸時代から旅そのものを楽しむ庶民はたくさんいました。伊勢参りなどのように寺社参詣に名をかりた楽しむ「旅」、旅の行程までもを楽しむ遊山の旅は、江戸時代の中期から増えていたっといいます。

 とはいえ危険がつきものだったからこそ、「旅」はつらいものでした。そこで文化7年(1810)には、盗人や自身の健康、身の回りの難儀に注意するための『旅行用心集』という本が発行されたり、路程の案内のためのポケット版道中絵図や道中案内記も江戸時代中期以降には続々と出版されていました。

 そうした庶民の遊山旅の流行には、弥次さん喜多さんの珍道中で知られる十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の大ヒットがありますが、文政10年(1827)頃にはその房総版である『小湊参詣金草鞋』というのも出版され、那古寺門前の飴屋の繁盛が描かれています。

 自分の足で歩くことで、つらいなかにも道中の楽しみをともなっていた江戸時代の旅は、明治時代になると、大きくその様子を変えていきました。それは大量・迅速輸送を可能にした鉄道や汽船などの発達がもたらしたものでした。自分の足で歩き、その旅程に危険と隣り合わせの難儀をかかえていた旅が、行程の危険を回避し、しかも短時間で目的地へ達してしまうことになったわけで、楽しみに比重が移った「旅行」へと変化していくわけです。道中絵図は鉄道路線の案内図となり、道中案内記も旅行案内書へとかわりました。大正頃には短い余暇を楽しむ旅行がブームとなり、昭和の時代になると日本中が観光旅行を楽しむようになりました。

 館山が観光地となっていくのは、こうした「旅行」が一般化してからのことですが、ではいったい館山への旅行者は、江戸時代から明治時代へとどのように変化をしていったのでしょうか。その歴史をたどりながら、いつから館山で「観光」という産業が成立していったのかを、以下に見ていきましょう。

1.笠  (現蔵:鉄道博物館)

1.笠  (現蔵:鉄道博物館)

5.大日本早引細見絵図(文久3年)  (現蔵:鉄道博物館)
5.大日本早引細見絵図(文久3年)  (現蔵:鉄道博物館)
4.大日本道中行程細見記(天保8年)  (現蔵:鉄道博物館)
4.大日本道中行程細見記(天保8年)  (現蔵:鉄道博物館)
6.旅行用心集(文化7年)

6.旅行用心集(文化7年)
  (現蔵:鉄道博物館)

9.女手形(慶応4年)

9.女手形(慶応4年)
当館蔵

7.小湊参詣金草鞋(文政10年頃)

7.小湊参詣金草鞋(文政10年頃)
当館蔵

8.旅日記(天保7年)

8.旅日記(天保7年)
当館蔵

10.11.12.海水浴の旅行スタイル

10.11.12.海水浴の旅行スタイル
10 当館蔵、11,12 個人蔵

10.旅行用バスケット

10.旅行用バスケット
当館蔵

13.トランク

13.トランク
個人蔵

14.汽車汽船旅行案内 (明治27年)

14.汽車汽船旅行案内 (明治27年)
個人蔵

15.最新鉄道地図(大正14年)
15.最新鉄道地図(大正14年)
当館蔵

ごあいさつ

 館山市が主体的に観光を中心としたまちづくりを宣言したのは昭和31年のことでした。以来40年が経過していますが、館山が人々の休養地となってからの歴史は、すでに100年をこえています。

 そもそも気候の温暖な安房地方には、もともと江戸時代から社寺参詣に訪れる人々に加え、絵師や漢詩人などのように、創作の題材を求めたり土地の人々との交流を求める文人たちなども数多く訪れていました。

 明治時代になると、その文人来房と同様に安房にテーマを求めてきた画家や作家に加え、汽船の就航とともに余暇を過ごす来房者や療養のための来住者が姿を見せるようになります。やがて水泳教練の学生たちが訪れはじめ、大正時代に鉄道が開通すると、夏の短い余暇を海水浴で楽しむ人々がさらに急増していきました。

 こうして館山を訪れる人々が増えると、そうした人々との交流のなかで、郷土を観光地として意識し、新しい産業としての「観光」を中心にまちを発展させるようになっていきます。

 今回の企画展では、そうした観光都市としての館山の歴史を紹介しました。どのようにして館山が観光地になっていったのか。この企画展が、現在の観光都市館山のルーツを探る機会となり、私たちの住むまちの再認識の場となれば幸いです。

 なお、本展の開催にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また貴重な資料をご出品いただきました。ご協力を賜わりました皆様に、厚くお礼申しあげます。

平成9年10月18日
館山市立博物館長 松田昌久

凡例

  • この図録は、平成9年10月18日から11月24日までを会期とし、館山市立博物館が主催する企画展「館山の観光事始め」の展示図録である。
  • 本書の図版番号と展示室の陳列構成は、レイアウトの都合上必ずしも一致しない。
  • 本展の企画および、図録の編集執筆は、学芸係長岡田晃司が担当した。

目次

【1】旅から旅行へ
【2】鏡ヶ浦の景観
   鏡ヶ浦八景
   鏡ヶ浦八景一覧
【3】様変わりする来房者
  (1) 江戸時代の旅行者
  (2) 避暑・別荘地・行楽のはじまり
  (3) 海水浴客
【4】観光都市館山の成立
  (1) 鉄道の開通
  (2) 震災からの復興
  (3) 観光地の売出し
【5】安房地方の旅行案内書
   旅行案内書一覧
【6】戦後の観光
展示資料一覧