ここ館山には、鏡ヶ浦の景観があるからこそ、多くの人が訪れてきました。館山を訪れる旅人は古い時代からいましたが、訪れた人々の関心は、一に鏡ヶ浦の景観にあったといってよいでしょう。館山を訪れた人々の歴史をふりかえる前に、まず鏡ヶ浦の景観を見なおしてみましょう。
地図のうえでは館山湾と記されますが、歴史的には鏡ヶ浦や那古浦などと呼ばれています。富士山を鏡のように映し出す波静かな入江、それが鏡ヶ浦の語源です。鏡のことを菱華ということから、菱華湾の別名もあります。北の大房岬と南の洲崎に抱かれ、湾の最奥が那古から館山までの5㎞におよぶ弓なりの砂浜になっています。かつては湾内に浮かぶ沖の島と高の島、それに広い砂浜と松林があり、大切な鏡ヶ浦の景観をなしていました。そして周囲には坂東観音霊場の納め礼所である那古寺や、臥龍松とよばれる塩見の大松など、名所として知られるところがありました。
文明18年(1486)、室町時代に那古寺を訪れた道興准后という僧侶は、夕陽の鏡ヶ浦をこう詠んでいます。「なごの浦の 霧のたえまにながむれば 夏も入日を洗ふ白浪」。江戸時代の文化14年(1817)に訪れた儒学者亀田鵬斎も、「那古浦記」という漢詩で富士が影を落とす鏡ヶ浦を詠んでおり、鏡ヶ浦の景観には夕日や富士の姿も欠かせないものでした。
江戸時代から明治時代に描かれた鏡ヶ浦の姿をみると、正面に富士山を据え、それに伊豆・相模の対岸が重なり、中央には二島を浮かべた鏡ヶ浦、そしてこれを包む大房・洲崎の岬と山々、画面の手前に砂浜と松林、そのなかに点在する寺社・民屋、湾上には舟も浮かんで、ときには地引き網が描かれることもあります。周囲の自然とともに人々の生活もふくめて、これら全体で鏡ヶ浦の景観が構成されていたわけです。
23.池田弘斎画「大賀ビリドの鼻」
個人蔵
23.池田弘斎画「西岬の海岸」
個人蔵