そしてこの時期は、外国人や明治政府の高官・華族・実業家・文化人などを中心に、西洋流の衛生や健康といった意識が生まれてきた頃であり、日本古来の養生の意識とあいまって、上流社会の人々のあいだでは、保養という余暇を過ごす風がうまれてきていました。それを楽しむための保養地(避暑地・避寒地)ができ、別荘所有もブームになっていくのです。
明治18年(1885)に日本で初めての海水浴場が神奈川県の大磯にできますが、そもそも海水浴は、医師の松本順によって提唱推進されているように、病気治療と健康増進の効用が注目されたものでした。そのため大磯は上流階級の人々の別荘地となるのですが、これをかわきりに鎌倉や軽井沢・日光・神戸六甲・長崎雲仙など、全国に別荘地が広がっていきました。
明治20年代になると、房州北条にも別荘を所有する人々があらわれてきます。明治22年(1889)出版の「房州鏡ケ浦略図」という版画には、北条海岸に岩谷氏別荘・高崎男別荘という文字がみえます。岩谷氏とは日本の紙巻き煙草製造の創始者で、「岩谷天狗」の銘柄で名を馳せた実業家岩谷松平であり、高崎男は男爵の高崎氏のことで、東京府知事の高崎五六か宮中顧問官で御歌所長の高崎正風のどちらかでしょう。この翌年には伯爵の万里小路通房も北条に移住してきます。以後、北条海岸を中心に鏡ケ浦の浜辺には別荘が増え、大正から昭和初期頃には枢密顧問官の都筑馨六・外交官の芳沢謙吉・政治家の大石正巳・陸軍大将多田駿・婦人運動家の奥むめをなどが知られ、このころには中流階級にも別荘所有者が広がっていきます。