鏡ケ浦周辺の町村も主体的に観光対策に乗り出し、大正末期にあった旅行上の問題を克服していくことになります。そのため町の予算のなかにも対策費としての海水浴場費が盛り込まれるようになり、館山北条町では昭和9年が1103円、同14年が1432円で歳費の約1%、那古町では昭和11年に279円で歳費の約0.5%が当てられていました。また館山北条町では昭和9年に町営の宿泊施設「渚の家」が鉱泉旅館として北条海岸に開設され、鉄道省とタイアップした宣伝で効果をあげていました。
旅行客に対する事業も大々的になってゆきます。震災以後、夏の海開きにはじまるさまざまな催物が行われ、昭和2年には北条町商工団による鏡ケ浦花火競技大会も始まっていましたが、こうした旅行客に対する設備やサービスが主体だった観光対策から、来遊を促すための振興策も打ち出されるようになっていきました。明治時代にも「鏡が浦の驟雨」「地理教育安房の歌」などの唱歌がつくられていましたが、「房州よいとこ」や「夏は来やんせ」に代表されるPRのためのお国自慢的な民謡が製作されたり、観光地の鳥瞰図を入れたコンパクトな遊覧の栞が増えてくるのもこの頃です。昭和9年には、斎藤光雲を中心とする安房美術会が、東京日本橋の白木屋百貨店で「房州風景紹介展覧会」を開催して、房州の自然を紹介するといったイベントもおこなわれました。また昭和12年の安房国礼三十四観音霊場の大開帳にあわせて、団体客をよびよせるための巡礼地としての宣伝も大々的に行われ、横須賀の観光社ではツアー客の募集が行われています。
このツアーは大型自動車を利用した二泊三日の参詣旅行でしたが、安房合同自動車株式会社などの路線乗合自動車を経営する会社で大型自動車を準備して、こうした団体に対応していました。狭い悪路ながらも安房郡内を車が走り回れるほど、郡内のバス路線も充実していたわけです。この頃の房州方面への交通は、夏になると鉄道では毎日数本の臨時列車が用意されるほどで、汽船も東京との夏季直通便が明治時代から運航していましたが、昭和10年には新造の大型客船の橘丸が就航し、鏡ケ浦の海水浴場はかなり混雑していたようです。戦前で、一夏の房総の滞在避暑客数の最大は昭和11年の延三百九万人だといいます。このときの館山北条町への入り込みが二十万人、那古町・船形町へは合計で十万人でした。
60.北条海岸の町営渚の家
個人蔵
82.桟橋に着いた菊丸(右)と旅行客
個人蔵
95.鏡ケ浦煙火大会プログラム(昭和3年・5年)
当館蔵
96.夏期漫才大会特別優待券
個人蔵
98.安房国礼観音絵はがき
個人蔵
99.安房国礼観音参詣募集広告(『観光』創刊号 昭和12年)
三芳村宝珠院蔵
100.観光の房州と観音巡礼案内(昭和12年)
船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
日東交通の大型自動車(バス)
安房北条駅前の乗合自動車(昭和初期)
103.橘丸号鐘
東海汽船株式会社蔵
103.橘丸船名板
東海汽船株式会社蔵
103.橘丸舵輪
東海汽船株式会社蔵