【1】謎の絵師・渡辺雲洋
 1.渡辺雲洋の生涯

 謎の絵師とも言える渡辺雲洋の生涯は明らかでないところが多い。口碑では幕末に、東長田村(現在の館山市東長田)の館石家に生まれ、やがて、北条村(現在の館山市北条)の渡辺家の養子に入ったという。

 渡辺家の家業は不明であるが、いつの頃からか雲洋は画業を能くし、名主や旧家で酒を振る舞われては、お礼に絵を描いたという話が伝わっている。

 『北条町誌』(明治27年刊)に「渡辺雲洋北条村ノ人、画ヲ能クス殊ニ花鳥ニ巧ミナリ其名州中ニ知ラル明治十六年没ス」とあるように、頼まれて多くの花鳥画を描いたようである。また、寺社の天井絵や、恵比寿大黒天などの神仏画も多く伝わっている。

 震災記念観音堂境内にある「富士仙元宮石灯籠」(写真1.)の基礎(台石)には、当村両地引中として100名以上の人名が刻まれているが、その筆頭に雲洋の名が記されていることは特筆に値する。

 雲洋の居住した六軒町は北条村の浜方集落であり、渡辺家は漁業を家業としていたことが充分に考えられるが、一方、城山公園山頂に祀られている浅間神社の天井絵を描いていることや、富士講の行者であった栄行真山の自伝である『富士信心之始メヨリ有難事書置』(当館展示図録No.12『富士を目指した安房の人たち』所載)の挿し絵を描いていることなどから、富士浅間講との関係も指摘されるのである。

 『北条町誌』に載せるように、雲洋は明治16年に没した。墓所は館山市北条の法性寺である。同寺の『古過去帳』明治16年の条には「二月十八日 円心雲洋信士 渡辺雲洋事」と誌されている。

 かつて、同寺には酒好きの雲洋らしく、瓢箪の形をした水向けの石のある雲洋の墓があったというが、現在は不明である。

1.富士仙元宮石灯籠基礎(台石) 慶応2年(1866年)

富士仙元宮石灯籠基礎(台石) 慶応2年(1866)
  館山市北条・震災記念観音堂境内